第79話 幼き日の夢

 その夜。

 ロブロイはクズ鉄村のアトリエで、ラナはいつでもカシナ刀を振れるよう中庭に面する使用人部屋で寝泊まりすることとなった。

 一人になった客間で、ロザリーは早々に床に就いた。

 寝不足だったせいもある。

 四人部屋が今夜から個室になって、騒音いびきから解放されたせいでもある。

 ベッドに身体を投げ出すと、落ちるように意識が遠のいていった。


 ――ロザリーは夢を見た。

 それは遠い日の思い出。

 薄暗い雑木林を、幼い少女が歩いている。

 黒髪を揺らし、紫色の瞳がキョロキョロと周囲を窺っている。


(うわ、これ私? 小っちゃ!)


 昔の自分を俯瞰で見る不思議な夢。

 ロザリーはこれは夢だと自覚しながらも、夢の続きに胸が高鳴った。


「ねえ、かえろうよ」


 幼いロザリーが、消え入りそうな声で呼びかける。

 相手は、前を歩く同じ年頃の少年。


「やなこった」


 少年はずんずん林の奥へ向かう。

 幼いロザリーは時々駆け出しながら、彼の後を追う。


「もう、よるになっちゃうよ? わたし、おなかすいたなー」


 すると少年が振り向いた。


「じゃあ、ひとりでかえれ!」


 幼いロザリーが、うっ、と言葉に詰まる。


「……おこんないでよ、グレン」


(グレン? この子、グレンなの!? 小っちゃ! かわいー!)


「べつに、おこってないっ」


 グレンはまた前を向き、ずんずんと歩き出した。

 ロザリーが両手をもじもじさせながらその場に留まっていると、グレンは戻ってきてロザリーの手を握った。

 ロザリーはグレンに引っ張られながら、彼の後を歩いていく。


(ベアトリスと出会う前よね)

(まだ母さんといた頃)

(本当にグレンと会ってたんだ……)


 雑木林を抜けると、小高い崖の上に出た。

 夜が迫る空は鮮やかだった。

 日は暮れ落ちて、空の底にピンク色の名残があるだけ。

 あとの大半は、濃いブルー一色だった。

 地上に見えるのは、王都ミストラル。

〝金の小枝通り〟を照らす魔導ランプの灯が、光り輝く黄金城パレスへと続いている。


「うわぁ」


 目の前の光景に、幼いロザリーの瞳がキラキラと輝く。

 グレンが小さな胸をいっぱいに張り、ロザリーに言う。


「な? きてよかっただろ?」

「ん!」

「これでかしかりはなしだ」

「……なんのこと?」


 するとグレンは、面食らったように目を丸くした。


「わすれたのか!? こうかんじょうけんだったろ!?」

「ああ! ひみつのこうかん!」

「そうだよ! おまえがユーレイとはなすとこみせてくれたから、おれはひみつのばしょをおしえたんだ!」

「そっかぁ」

「……わるかったな。おまえみたいにすごいひみつじゃなくて」

「ううん」


 ロザリーは首を横に振った。


「すっごいひみつだよ! ありがと、グレン!」


 グレンは照れ臭そうに鼻を擦り、王都のほうへ視線を戻した。


「きてよかっただろ?」

「うん!」


 ロザリーはハッと目を覚ました。

 身体を起こすと、寝汗で濡れた背中が冷えていく。

 カーテンを閉め忘れた窓からは、月の光が舌のように延びている。


「夢、か……」


 ロザリーはまた、ベッドに倒れた。

 天井を見ながら一人、呟く。


「グレン、かわいかったな。……今はまったくかわいげないのに」

「グレンは覚えてたんだよね。なんで私、忘れてたんだろう」

「……元気かな、グレン」


 ロザリーは実習中の親友に思いを馳せた。




 獅子王国は絶壁の高地ハイランドによって守られている。

 ハイランドは王国の東から南一帯を城壁のように囲んでいるが、抜け道が存在する。

 一部に亀裂が走っていて、獅子王国と魔導皇国を貫いているのだ。

 最大の亀裂は幅二百メートル、全長十キロメートルに及び、〝飛竜回廊〟と呼ばれる。


 グレンの実習先である黒獅子騎士団は、この飛竜回廊にある軍事施設に常駐している。

 軍事施設の名は〝レオニードの門〟。

〝飛竜回廊〟の王国側の出口を塞ぐようにそびえ立つ、難攻不落の要塞である。


「起きろッ!」


 指導騎士の鞭が飛ぶ。

 打たれた実習生が痛みに身体をくねらせるが、容赦なく二度、三度と鞭が飛ぶ。

 たまらず実習生が頭を抱えてしゃがみ込むと、その頭上へ鞭の雨が降った。


「誰が休めと言ったッ! 立て! 立てッ!! 敵は待ってはくれんぞッ!」


 頭を庇う手の甲が、血で赤く染まっていく。

 だが立ち上がる素振りはなく、口元だけが微かに動いている。

 近くにいたグレンは、たまらず指導騎士へ申し出た。


「ラムジー指導騎士殿!」

「なんだグレン! 貴様、また他人をかばって鞭を味わいたいのか!」

「そうではありません!」

「では何だ!」

「そいつはもう……」

「ん?」


 指導騎士が腰を屈め、頭を抱える実習生の顔を覗く。


「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」


 打ち据えられた実習生は、ただただ謝罪の言葉を繰り返していた。


「……折れたか」


 指導騎士は立ち上がり、後ろに控えていた部下に命令した。


「下へ運べ。夕方の王都便に間に合うだろう」

「ハッ!」


 実習生が運び出されると、指導騎士が嫌味ったらしく言った。


「残りは……たった三人か。全滅まであと少しだな?」


 グレンは言い返さず、任務へと戻った。


 ここは〝レオニードの門〟の切り立った城壁の上。通称バルコニーと呼ばれる、城壁から張り出した部分である。


 黒獅子騎士団での実習では、大半の時間が見張り・・・の任務に費やされていた。

 足元には城壁を上る敵を撃つための狭間があり、そこから吹き上がる風が高所に立つ恐怖心を煽ってくる。


 高さに慣れてくると、次は眠気が実習生を襲う。

 見張りは昼夜問わず行われるので慢性的に睡眠不足であることが理由の一つであり、そもそもいくら見張っていようが敵など姿を現さないことがもう一つの理由である。


 一瞬でも睡魔に負けようものなら、指導教官から鞭と罵声が飛んでくる。

 ただ外を見張るばかりの実習であったが、二か月足らずのうちにほとんどの者が脱落し、グレンと他二名を残すのみとなっていた。


 グレンは横目に左を見た。

 遠くに一人、紺青色の長い髪を風になびかせて、実習生が立っている。

 緑のクラスの代表だった、ジュノーだ。

 ここへ来たばかりの頃、彼女に向かってこう尋ねたことを思い出した。


「なぜ黒獅子騎士団を選んだ? お前なら選り取り見取りだろう。実家の騎士団でもいいはずだ」


 するとジュノーは答えた。


「きっと、あなたと同じよ」


 グレンは、今度は右を見た。

 こちらにも、もう一人実習生が立っている。


(名前は……何てったけな、あいつ)

(赤のクラスのお調子者の……)

(初日からへばってたから話してないんだよな……)


 深夜。

 グレンはまだ、バルコニーに立っていた。

 夜の見張りの当番でもあったからだ。

 残り二人の実習生は、気絶するように寝ている頃だろう。

 体力に優れるグレンでも、夜番は辛い。

 ハイランド直下にあるレオニードの門は日照時間が短く、夜は冬のような寒さとなる。

 夜は指導騎士もいないのだが、油断はできない。


(こうして眠気と戦ってる頃に、ラムジーの野郎はやって来るんだ)


 あくびを噛み殺し、外の闇を睨んでいると、後ろから足音が聞こえてきた。


(そうら来た)


 指導騎士が何を言うか。それにどう答えるか。

 眠い頭で必死にシミュレートしていて、はたと気づく。


(……ラムジーじゃない)


 足音がいつも耳にしている指導教官のものよりかなり重く、奏でるリズムも違う。

 そして何より――


(何だ、この魔導!? この距離まで俺はなんで気づかな――グッ! 潰されるッ!?)


 グレンは総毛立った。


(これじゃ、まるで本気の時の――)


 思わず振り向き、同時に声を上げる。


「ロザリー!?」


 しかしそこに親友の姿はなく、代わりに一人の騎士が立っていた。

 体格のいいグレンよりさらに一回り大きな体格。

 長い黒髪は獅子のたてがみのよう。

 左に眼帯をつけていて、残った右目には野心的な輝きが宿っている。

 そして、身に着けた黒い魔導騎士外套ソーサリアンコートには、吼え猛る獅子の意匠。


「殿下! 失礼しました!」


 グレンはその場にひざまずいた。

〝レオニードの門〟の主であり、王位継承順位第一位。

 十五年前の獅子侵攻では、敵を散々に打ち破った、王国最強の騎士。

〝黒獅子〟ニド、その人であった。


「任務中であろう。立て」

「ハッ!」


 グレンはすぐさま立ち上がり、ニドに背を向けて外を睨む。

 ニドはゆっくりと歩いてきて、彼の隣に並び立った。


「異常はあるか」

「いえ! 異常ありません!」


 グレンの声は緊張で震えていた。

 ニドの姿は実習初日以来、見かけることもなかった。

 黒獅子自ら教えを授けてくれるのではないかと期待していたグレンには、それは非常に残念なことだった。

 しかし今、その黒獅子がすぐ隣にいる。


「実習の内容に不服はないか?」


 まるでグレンの心の内を見透かしたかのような質問。

 グレンは目を白黒させながらも、正直に答えた。


「満足はしておりません。しかし、これが強くなる道なのだと信じております」

「なぜそう信じる?」

「この国で最も強い騎士の指導ですから」

「フ」


 ニドは笑い、胸壁に背をもたれた。


「私は実習生の指導方針に関与しておらぬ、と言ったら?」

「そのようなことはないかと」

「ほう。なぜだ?」

「殿下は私が生まれた頃から――実に十五年もの間、レオニードの門から敵を睨み続けています。最強の騎士であり、次代の王でもある殿下がこんなへんぴな場所に……いや、ええと」

「構わん。続けろ」

「はっ。……殿下が望んで十五年もここにおられるとは思えません。皇国を牽制するために張りつけにならざるを得ないのです。であれば、殿下に自由をもたらす代役――傑出した次代の騎士の到来を、誰よりも待ち望んでおられるはず。戯れに実習生をいじめて楽しむはずがありません」


 ニドは黙って聞いていた。

 グレンの意見を肯定も否定もせず、城壁の外を指差した。


「遠乗りに付き合え」

「……遠乗り?」

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