第56話 港の風

 ――埒外。

 世界には脅威が存在する。

 それらは神話や伝説にたびたび登場するが、虚構ではない。

 事実、そこにいるのだ。

 数千年の時を生き、神か悪魔のごとき力を振るい。

 あるときは人を助け、あるときは人を絶望の淵に追いやる。

 およそ人の限界の外にいるもの――その意味で〝埒外らちがい〟と呼ばれる。

 よく知られる埒外を二柱、例に挙げる。

 皇都バビロンの守護者にして八枚翼を持つ大鷲、〝大空君タイクーン〟。

 珊瑚海コーラルシーの支配者にしてすべてを呑み込む世界魚、〝大呑君〟。

 これらの埒外は魔導史以前から存在し、現代でもその姿を確認されている。

〝はじまりの騎士〟ユーギヴは、埒外をこう評している。

「彼らは途轍もなく強大で、いかなる王よりも尊大で、誰もがひれ伏すことになる」


    ――出典『埒外伝説~神の領域~』




 ロザリーは窓を開けた。

 べたつく風が潮の香りを運んでくる。

 空は快晴。

 美しい入り江が、朝の光に輝いている。


「絶好の出航日和ね」


 壁に背を預けたラナが言う。

 ここはカテリーナが用意してくれた宿。

 高級ではないが清潔な宿で、昨晩は久しぶりのベッドの感触を十二分に堪能したのだった。


「なあ」「本当に行くのか?」


 ロブとロイは気乗りしないようで、ベッドに寝転がったままロザリーにそう言った。


「大呑君って船を一息に何十艘も呑み込むっていうクソデカ魚だろ?」

「〝黒獅子〟だ〝埒外〟だって話デカすぎてついてけねーわ」


 ラナが腰に手を当てて、双子を見下ろす。


「だらしないわねぇ、ロブロイ。大呑君ではないってカテリーナさん言ってたじゃない」


 カテリーナは海峡の〝埒外〟疑惑についても、コクトーに相談していた。

 両者の結論は、「大呑君ではない」というもの。

 大呑君呑は珊瑚海コーラルシー陥没穴ブルーホールねぐらとしていて、そこから巨体が抜けだせば必ず人の目に触れる。

 そのような情報は一切ないので海峡の怪物は大呑君ではない、ということだった。


「でも似たような別種の〝埒外〟かもしれないだろ?」「じゃ、同じことだ」


「それはまあ、そうだけどさ」


 ラナは口ごもり、窓辺のロザリーを見る。

 彼女は窓を開けたっきり、黙って外を眺めている。


「ロザリーも不安なの?」


 ラナが言うと、ロザリーは振り返って、自信なさげに頷いた。


「……ん。少し」

「あなたがそれじゃあ、私まで不安になってくるよ」

「だって私、海は初めてだし」

「それは私もそうだけど」

「あんなだだっ広いところで、船から落ちたらどうすればいいの?」

「……不安なのはそこ?」

「だって、ラナは泳げるか不安じゃないの?」

「それは、まあ……」

「川や湖で泳ぐのとは違うのかな? どうしよ、今から入り江で練習してこようかな……」


 ロブロイが寝転がったまま笑った。


「川や湖で泳げるなら問題ねーよ」「海水は淡水より浮くからな」

「そうなの!?」

「ただ、流れはずっと強い」「波の高さもな。慣れた奴でも溺れ死ぬのが海だ」

「そんな……じゃあ、船から落ちたらどうすればいいのよ!」

「「船から落ちるな」」

「……そっか、そうよね」


 ロザリーは何度も頷いた。

 ふと、ラナがお腹を押さえる。


「カテリーナさん、来るの遅くない?」

「そういえばそうね。船の手配を済ませて、午前中に呼びに来るって言ってたのに」

「もうお昼だよ? お腹空いちゃった」

「俺も」「俺もー」


 ロザリーが三人を両手で制する。


「だめだよ、カテリーナさんを待たなきゃ――」


 そのとき、窓の外から食欲をそそる匂いが漂ってきた。

 海産物を焼く匂いだ。

 腹を空かせた四人が、抗えるはずもなかった。


「――よし、食べに行こっか!」


 言うが早いかロブロイは同時に跳ね起き、先を争って部屋から出ていった。

 ロザリーとラナも後に続く。

 宿の主人にカテリーナへ言伝ことづてを頼み、町へと繰り出した。


 海辺近くの通りには、無数の露店が並ぶ。

 行き交う人は多く、ぶつからずに進むのに苦労するほどだ。

 海産物を扱う店がほとんどだが、生魚を売る店、貝類を売る店、干物などの加工品を売る店とそれぞれに専門が違うようだ。

 ロザリーたちはその中から、網を火にかけてその上で海産物を焼く店を見つけた。

 さっそくいくつか購入し、店の横で立ったまま食べ始めた。


「川魚と全然味が違うねぇ!」

「ロザリー、貝食え、貝」「汁が旨いぞ」

「そう? じゃあ……んむ、おいしいっ!」


 ラナは食べながら首を傾げている。


「ねえ、私の食べてるのって何?」

「タコだな」「タコの足」

「タコ……あの悪魔みたいな!? うええ!」

「わからなくてもとりあえず食うのな」「ってか、うええ! って言いながら食い続けるなよ」

「だって味は美味しいもん」


 ロザリーは焼いた白身魚を食べながら、ごった返す通りを眺めた。


「すごい活気」


 すると磯焼き屋の店主が答えた。


「静かなほうさ。外国船が来るときは、交易品目当ての客や買い付け人でごった返すからな」


 ロブロイが尋ねる。


「海産物はあるんだな」「船が来ないってのに」


「化け物がいるのは海峡だからな。漁船は出るんだ」


「ん? ちょっと待て」「あんたも海峡に化け物がいるって知ってるのか?」


「そりゃそうさ。交易船が来ないってのは町の一大事だからな。ピートの話は一晩で町中に知れ渡ったよ」


「「ピートって誰?」」

「町長の船の生き残りさ」

「「ああ、なるほど」」


 それっきり、ロブロイは食べる手も止めて黙りこんだ。

 ロザリーが双子に尋ねる。


「どうしたの?」


「カテリーナ女史が約束の時間に来ないのは」「船を手配できないからじゃないかって思ってな」


「え、なんで!?」


「船ってのは金がかかる」「外洋に出る船ならなおさらだ」

「化け物が出ると聞いて自分の船を出す奴いるか?」「船を失うかもしれないのに」


 ラナが言う。


「船が無くてどうやって退治するのよ!」


 ロブとロイは腕組みして、同時に首を傾げた。


「「ロザリーが泳いで退治するとか?」」

「やだよ! 化け物に会う前に溺れ死んじゃうよっ!」

「「だよなあ……」」


 すると店主が口を挟んだ。


「あんたらカテリーナの知り合いか?」


 ロザリーが頷く。


「ええ。彼女が船を手配することになってるんですが、なかなか来なくて」

「じゃあ問題は船じゃねえ、船乗りだ。今朝方、船乗りを探して歩き回っていた」

「船乗り?」

「カテリーナは自前の大型船があるし、そうでなくても漁船以外の船はいくらでも余ってる。だけど、船乗りは右から左には用意できねえ」

「もしかして、化け物が怖いから?」

「そういうことだ。船乗りってのは命懸けの職業柄、迷信深いもんでな。化け物が出ると聞いては誰も乗りたがらねえ」

「なるほど……」

「今頃、船倉庫にある船乗りギルドにいるはずだ。結局あそこで集めるしかねえからな」


 ロザリーがラナとロブロイを見ると、三人は一斉に頷いた。


「私たち、そこへ行ってみます」


 ロブロイが食事の代金を支払おうとすると、店主はそれを遮った。


「金はいい」

「え?」「なんで?」

「あんたらがどんな知り合いか知らないが、彼女の力になってやってくれ。カテリーナは若いのに真面目で仕事のできる人だが、それだけじゃあ船乗りは従わねえ。……でも、本当にいい人なんだ」

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