2匹のヤギの話

@mariette1211

前編

今でも鮮明に思い出せる。2004年6月2日のことだ。

中間試験が終わった開放感で友達と遊びすぎた夜、時計は22時半をまわっていた。

カラオケで痛めた喉をいたわるため、のど飴を一つ口に放り込む。

カリンの緩慢な酸味と甘さが舌の上からゆっくりと胃袋に流れ込んでいって、少しほっとした気分になった。


携帯のメールを確認したけど、受信は1件もなかった。

麻美はまだ拗ねているんだろうか。

普段から情緒不安定な俺の彼女は、事あるごとに泣いたり怒ったりと大騒ぎ。

一週間前ついに疲れ果てた俺は「もう限界です、別れてください」と書いて送ったあと、全てを放置していた。

別れ話はこれが初めてではない。むしろ別れ話をしていない時間の方が通算すると短いぐらいだ。

いつもなら4〜5日もすると「ごめんなさい」とメールが来て、俺が急いで彼女を迎えに行く。その繰り返しだった。



家に帰ると真っ暗で、全ての部屋が静まりかえっていた。

うちの両親は居酒屋を経営していて、夜は家にいない。

2つ下の妹はその放任主義をいいことに、友達の家に泊まることが多かった。

リビングに入って電気をつけると、飼い犬のシーズーが眩しそうにこちらを見上げた。

「チャー君ただいま」

連絡用ホワイトボードを確認すると、散歩は妹が連れて行ったようだ。

ご飯はまだだったので、ドッグフードと水を出してあげた。


皿を片付けようとして立ち上がったとき、部屋の隅に置かれた電話機が点滅していることに気が付いた。

留守電?……珍しいな。

俺が生まれつき軽度難聴なため、親は連絡に電話を使わない。

ディスプレイの着信時間は22:19だった。

ド平日のこんな時間に、誰が何の用だろう。


ピー 1件です

「夜分にすみません。T警察署のマエカワと申します。またお電話します」


T警察……。

うちは渋谷区の代々木で、新宿区のT警察は管轄外のはずだった。

妹が夜遊びで補導でもされたか?

もしくは麻美が何かやらかしたのかもしれない。

彼女の自宅は新宿区だ。また死ぬ死ぬ言って警察を呼ばれたのではなかろうか。



冷蔵庫の中の牛乳をパックのまま一気飲みしていると、電話が鳴った。

「はい、浅川です」

「浅川さんのお宅ですか、智也さんはいらっしゃいますか」

「僕が智也ですけど、留守電の方ですか」

「はい、T警察署の刑事課のマエカワです、智也さんは木村麻美さんをご存じですね?」

「はい……知ってます」

「仲がよろしかったんですよね」

なんだかすごく持って回った言い方だった。

きっと俺と麻美が付き合っていることは承知だろうに、何故ハッキリとそう言わないんだろう。

前に見た古畑任三郎という刑事ドラマがふと思い出された。

「木村さんがどうかしたんですか」

「昼前のことです、何度かお電話を差し上げたんですけどお留守だったので遅くなってしまいました」

何があったかを聞いてるのに、いつ、を答えるこの刑事さんは仕事が出来なさそうだと思った。

「学校だったのですみません、何かあったんですか」

「彼女ね、ナクナッチャッタンデスヨ」

……よく聞き取れなかった。電話は本当に苦手だ。

対面なら口の動きや身振り手振り表情などで推測できる会話が、電話では全く分からない。

「すみません、俺耳が悪くて」

「彼女、自殺しちゃったんです」

まぁ死にたいってしょっちゅう言ってたからなあ。

その度に何時間も側についてあげないといけなくて、本当に大変だった。

「死んだってことですか」

「そうです」

恐らく50秒ほど、2人とも無言だった。

刑事さんは俺が何か言い出すのを待っている感じだった。

こういった電話をするのは初めてでは無いのだろう。


しかし俺が黙ったままなので、刑事さんは再び話し始めた。

さっきまでより心なしか静かな声だった。

「彼女がインターネットに日記を書いていたのはご存じですか?」

「はい…ここ数日見てないですけど」

「今確認してもらってもいいですか?」

「わかりました」



ともくんがいなくてこれからどうしたらいいの

こんなにかなしくてさみしくてずっと泣いてるのに

どうして迎えにきてくれないの

きっともうわたしに会いたくないんだね

さようなら



とても彼女らしい、内臓ごと俺の胸ぐらを掴んでくるような遺書だった。

「確認しました」

「麻美さんと喧嘩していたんですよね、最後に会ったのはいつですか」

「先週の水曜です、試験中でした」

「それから全く連絡は取っていない?」

「はい」

「……明日の朝9時半に、新大久保のK病院まで来れますか?」

「K病院ですか…?」

「住所を言いますね」

「あ、いやネットで調べるので大丈夫です」

「そうですか、麻美さんのご家族も来られる予定です」

「わかりました、行きます」

「何かあればT警察署刑事課のマエカワまでご連絡ください」

そこで電話は切れ、俺はゆっくりと受話器を置いた。



刑事さんとの電話が終わった後すぐに、PCでSkypeを起動した。

コンタクトリストの名前は、連絡頻度が高い人が上に来るように「!」を付けてある。

!パンプキンと書かれた名前を急いでダブルクリックして話しかけた。

「パンプさん」

「ロキくんこばわ、どした?」

「更沙が死にました」

更沙は麻美のネット上のハンドルネームだ。

更沙とは遊戯王TCGのオフ会で知り合った。

パンプさんはその集まりの代表で、気の良い頼れるおっさんだ。

「それは確かな情報なの」

「今うちに警察の方から電話がありました」

「いつ亡くなった?」

「今日の昼前らしいです」

「…………ロキくん今どこにいるの」

「自宅です」

「ご家族は?」

「仕事でいません、明日の朝新大久保の病院に来て欲しいって言われて」

「警察はどこの?」

「T警察です」

「ちょっと、そのまま、そこに居て待っててね」

俺はキーボードに手を置いたまま、Skypeの!更沙の名前を眺めていた。

毎晩遅くまでオンラインだった!更沙が、今日はオフラインだった。



20分ほどしてパンプさんは戻ってきた。

「待たせてごめんね、警察の方に確認しました」

「はい」

「ロキくんの付き添いで同行する許可をもらったので、明日ごまるさんと一緒に行きます」

ごまるさんはパンプさんの相棒で、ロリアニメが大好きな気の良いおっさんだ。

「お仕事は大丈夫なんですか」

「それは気にしないで、駅まで一人で来れる?」

「大丈夫だと思います」

「無理そうなら携帯に連絡ちょうだい、迎えに行く」

「ありがとうございます」

「眠れないだろうけど、出来る限り横になってね」

「わかりました」


もちろん朝まで一睡もできなかった。

不思議と何の感情も沸いてこなく、麻美の日記の文面が液晶の画面焼けの様に目の裏へ貼り付いていた。



約束の時間に新大久保駅へ行くと、パンプさんとごまるさんは既に改札前で待っていてくれた。

「おはよう、ちょっとは休めた?」

「はい」

休んだ気は全然しなかったけど、いいえとは言えなかった。

それに感情と共に疲労感もどっかへ行ってしまったようで、さほど疲れた感じもしていない。


3人でタクシーに乗って病院に着くと、受付で地下の霊安室を案内された。

漫画かドラマでしか見たことなかったけど、霊安室ってほんとにあるんだ。

クリーム色の巨大なドアを開けると、ほんのり線香のにおいがした。

耳が悪い代わりに鼻の良い俺が微かに感じるぐらいだから、他の人達は気付いていないかもしれない。


部屋の中央にベッドが置かれ、いかにもな白くて長い物がそこにあった。

隣には麻美のご両親とお兄さん、それと恐らく昨日電話をくれた刑事さんが立っていた。


「すみませんでした」

開口一番なんて挨拶したらよいか分からず、いきなり謝る俺。

「顔を、見てやってくれる?」

真っ赤な目で麻美のお母さんが、遺体の顔の布をゆっくりと外す。

肌色の絵の具に、白と黒を落として混ぜたみたいな顔色の麻美が寝ていた。

彼女はニキビが出来やすい体質で、特に顔のニキビにとても悩んでいたけど、今日は陶器みたいなすべすべの肌だった。

唇だけが可哀相なぐらい皮むけで毛羽だっており、俺はそっと指でなでた。

めちゃめちゃ固かった。

とても生き物が発する温度ではないけれど、冷たいとは思わなかった。

生冷たいという言葉があったら、まさしくそんな感じだった。



そのとき突然地震がきた。

小学生のとき防災センターで体験した震度7ぐらいの大地震だ。

揺れて、手や足が震えてとても立っていられない。

そうこうする内に病院の床が俺の膝にぶつかってきて、

いや

俺の床に病院の膝が


その場で崩れ落ちた俺は、盛大に床へ嘔吐していた。

パンプさんが慌てて俺の背中をさすってくれる。

パンプさんとごまるさんに連れられて霊安室を出た後の記憶はない。

どうやって家に帰ったかも、まるで覚えていない。

その夜うちの親あてに、明後日の夜が通夜で、その翌日に告別式をする旨の連絡が来た。


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