キャベツワーム
◆キャベツワーム
髪があまりにもボサボサになっていたので、部屋を出る時に帽子を被った。頭が蒸れるので帽子は嫌いだけどしょうがない。昨日のワタシのせいだ。怒髪天だ、怒ってはないけど。鏡を見たらてっきりそこにメデューサがいるのだと思って顔を背けたものだった。
日曜日の朝の町は早くからカップルが散見。ファッションスタイルがきっちり定まっている小綺麗なカップルがタピオカジュースを買うために並んでいたり、よく分からんカラフルな食いモンを頬張っていたり、一眼レフで足元や空を撮っていたり…………。
ワタシみたいな、ブリーチが飛び散ったせいでピンクの斑点模様になった黒ズボンを穿いた女なんてそういない。
さぁ、カップルたちはお昼にどこへいくのだろう?
カレー祭のカレールゥ色のチラシを手にウロウロするのは、決してカップルだけではない。サラリーマンもそうだし、座右の銘が「カレーは飲み物!」ってな具合のファットマン、ツンとした雰囲気のソロお姉さん、JK軍団、老夫婦、エトセトラ。
あとをつけるわけではないけど、ワタシの行く先々に彼らはいた。どこにいくのかなぁ、なんて思っていると、ワタシの職場がある路地へとすいすい吸い込まれていくから苦笑してしまう。ワタシも角を曲がると、そこには長蛇の列。舌舐めずりして開店時間はまだかまだかと待っている人の群。
溜め息、吐息、色はブルー。
はいはい、本日も大層な人数だこと。玉ねぎ臭い女が横を通りますよー。
人の列にガソリンをまいて火をつける想像をしてからお店に入る。いつもと変わりばえしないメンツ。学生の子もたまに雇われるけど、『下北・スープカレー・オシャレ・あたしキラッ!』を想像していた軟弱者はすぐに辞めてしまう。だからいつも社員とフリーターのつまらない顔ぶれだ。
日曜は明くる日が月曜ということもあり客足は落ち着く傾向にあるけど、なにせ今はカレー祭。例年、最も売上の高い夏のこの時期。びびった若店長は野菜を過剰発注した。
くそ! くそ! くっそ!
営業が始まり、ワタシはまたウォッシュのポジションでキリキリ舞い。あちらこちらと動き回される。
野菜カットの仕事量がえげつない。恒例の玉ねぎはダンボール1箱。キャベツも18玉。カットに力が入りがちで危険なカボチャも2ケース。
業者さんから届けられた野菜を置いておく棚は、さながら球技部が使う体育倉庫だ。玉ねぎもカボチャもぶん投げて、キャベツも蹴り飛ばしたくなる。でもどこにもゴールがない。
「ちょ、おれトイレで」
カレーを盛り付けるアレンジのポジションの学生バイトが唐突に言った。
代われってことかよ。このタイミングで?
お腹を押さえている彼を押しのけるようにワタシはアレンジについた。カレー鍋を確認するとスープが煮詰まってどろりとしている。これじゃスープカレーじゃなくてルゥカレーだバカ。水を注して調整する。
「次も盛っちゃってくださーい」
フライの社員が言った。揚げもんばっかしやがって、ちっとはスープも管理しろや。
ワタシはトングを手にスープカレーを盛り付けていく。
じゃが、かぼ、ごぼ、ブロ…………。10を超える揚げ野菜を積み上げるように配置していく。写真に撮られてネットの海に投げ出されても平気なように、丁寧、かつ迅速に、宝船を組み立てるように。
「提供、おねがいします」
我ながら、完璧だった。完っ璧な盛り付けだった。
お皿のふちに立てかけられたゴボウによりかかる半月のかぼちゃ。それをキャンバスにピーマンやヤングコーンなどがそれぞれの色を強調し合い作られたコラージュ。気高い獣の牙のごとくカットされたナスは天を突いている。極め付けは野菜たちの足元に散りばめられたチーズ。バーナーで焼き目をつけられ、食欲をそそる香りと湯気を立ち昇らせる。
後輩がライスと一緒にカレーを持っていく。ワタシは次のカレーを盛りながらもそれを見送る。ワタシ史上屈指の芸術品を前にした女性客はすぐさまスマホで撮影を始めた。カレーを撮り、向かいの友人と一緒に自撮り。さっさと食え冷めるぞと思わずにはいられないけれど、あの作品を世間に拡散するためなら許せる。
やがてアレンジのバイトが帰ってきて、ワタシ洗い場に戻った。
今日はお客の回りが妙にはやく、ホールからじわじわとスタッフの連携が乱れていった。ランチ終了の時間で一度お店の外の列を切る…………もう並ばないように整理はしたものの、スタッフの休憩時間を削りながらの営業だった。ようやく全てのお客をテーブルにつかせた時には既にディナー開始の時刻まで一時間を切っていた。
「社畜だ!」
「おれたちゃ馬車馬だ!」
スタッフが口々に弱音を吐く。ワタシはそんなことは言わない。思ってはいるけど。
洗い場にお皿が次々と下げられてくる。
あ。
見覚えのあるごぼうとかぼちゃだった。
ワタシが盛り付けたカレーは、スープを少し飲まれただけで、野菜はほとんどそのままだった。チーズのへばりついたライス皿はスープと米粒でべちゃべちゃだ。
食べられないなら頼まないでよ。
ワタシは食洗機を回すかたわら、黙ってディナーに向けてキャベツに包丁を振るっていた。
「アンナちゃんもまかない作っちゃいな」
「はい。もう少し、やったら」
もうキャベツのストックは底をついている。
「できるだけ早く休憩入ろうね」
若店長が言う。
ディナータイムでキャベツをカットさせられるのはワタシだ。2分もあればある程度は切れるんだ、ちょっと黙ってろオタンコナス、刻むぞ。
キャベツを真っ二つにざっくりと叩っ切る。そこから芯が避けながら細かくしていく。
ふと、忍び笑いがワタシの耳にとどいた。
手を止め、キッチンを振り返ると、スタッフたちがまかないのスープカレーにそれぞれ自分好みのトッピングをしているところだった。まかないを作りは殺気立つスタッフたちが和やかになる数少ない時間だ。ケンカしたカップルが、話し合いもせずに次の日に笑いあってるみたいで、ワタシは好きじゃない。
ワタシが聞いた声は陰湿で不快な忍び笑いだった。
『玉ねぎ臭い指だねェ』
予想だにしない方向…………手元のあたりにワタシは視線を移した。バラバラに切り刻まれたキャベツ。
『ココだよ、ココ』
再度きこえ、ワタシはようやく声の主であろうモノを見つけた。
キャベツに添えたワタシの左手、その甲に大きめのイモムシが乗っていた。サイズは小指ほどもある。そいつは真っ白のノッペリしたカラダで、黄色っぽい輪っかの模様がある端っこをもたげ、確かにワタシを見上げていた。
唇みたいな窪みがぐにゃりと動く。
『ねェ、アンナぁ〜!』
小さく鋭い息をついてワタシは左手を振った。
次に手を確認するとイモムシはいなくなっている。頭や足元も確認するが見当たらない。
「どうしたのー?」
勝瀬店長にたずねられた。
「な、なんでもないです」
そう答えながらもワタシは先ほどのイモムシを探した。
あんなやつ、殺さなくちゃ落ち着かない。
いや、あんなの、見間違いだ、そうに決まってる。
「ワタシもご飯たべようかな」
誰に言うわけでもなくワタシはまかないの用意を始めた。キャベツを広げた調理台はそのままだ。あとで片付けるからとりあえず今は放置。
心臓が強く打っているのに気づかされる。左手のイモムシが乗っていた部分は妙に冷たく、しゃがれ声を吸った鼓膜はムズムズする。
「タバコタバコ〜」
「席ぜんぜん空いてねぇなぁ、どこで食おう」
鍋を火にかけたままスタッフがひとまずキッチンから出ていく。その時、あの腹下しの学生バイトが洗い場を見て一言、
「きったねー」
と呟いた。
かちん、と来た。
たしかに洗い場はひどいありさまだった。インヌタ映えを気にしてトッピングばかりした女どもが残した食料ゴミが排水口から溢れている。うちの店のやり方では普通と言えば普通なのだけど、「きったねー」というその言葉はワタシを蔑んだ一言に思えてしまった。
きったねーってなんだよ、きったねーってよ。バカどもが食い切れねぇのに注文すんのがいけねぇんだろ。
『そうだねェ、アンナ。きったねーはあの小僧の言い過ぎさァ』
今度は飛び上がったりせずに済んだ。
ワタシは恐る恐る視線を上げ、声の主に目をやった。
『よォ、アンナ。おつかれさァ〜ん』
そのイモムシは、コンロが面した壁から下がったレードルに乗っていた。洗ったばかりの食器に虫が乗っているだけで悪寒が走る。
ソイツは…………ワタシを見ていた。
目はないけど、分かる。
『労いのキスをしようかァ〜?』
醜い、キモい、薄汚い。そこから落ちてコンロの火にくべられてしまえばいい。
『そりャァないぜェ。火あぶりなんてよォ、酷だなァ』
こんなわずか5センチほどのイモムシに思わず身構えてしまう。
心を…………読んだ?
ワタシは作り途中のカレー鍋を手にまぬけに立ち呆けてしまった。イモムシは文字には表しにくい、独特な引き笑いをした。さっきも聞いた忍び笑いよりのびのびとした、不愉快な声音。
『イィィヒッヒッヒッ……! そうさァ? きこえるんだよ、アンナの声がねェ。アンナの腹ン底の愚痴がきこえる。口ン中で呟く悪態もゼンブだァ。不思議なことじャァない。アンナにだってオレの声がきこえるだろう? おんなじさ。それと、アンナの本音がきこえないのとおんなじで、アイツらにオレの声はきこえない。見えない。安心しな、アンナぁ』
ああ、ワタシはついに頭が壊れてしまった。
呑んだくれてもないし、クスリだってやってない。なのにこんな、気色悪い幻覚が見えてしまうだなんて!
ワタシはイモムシを視界に入れないようにまかないの用意を続けた。しかしあんなグロテスクなモノを目の当たりにしてしまって食欲が無事でいるわけがない。もうテキトーでいい。
イモムシはワタシに臆せず声をかけてくる。
アンナぁ、アンナぁ、アンナぁぁ…………。
頭に、無遠慮に響いてくる。
『なぁなぁ、このさァ、はじっこのはあの小僧の飯だろ? あんな生意気なヤツには少しイタズラしてやろうぜェ? なァァ?』
「黙りなさいよ……!」
噛み殺すように囁いた。
『うるさいなら耳をふさいでみろォ、無駄だけどなァ。それでさァ、こいつの鍋に……ペッ! と唾でも吐いてみないか? どうせ味も色も変わらない。バレやしない。腹を更に下すくらいだァ』
そんなことしてどうなるというんだ。
『どうなるってそりャ、ちーっとは気が晴れるだろう? ちーっとはさァ』
そんなことしたって意味がない。
『ウソだねェ。現に今までなんどもやってきたじゃないか。イヤ、想像の世界でだけどな。だからさ、アンナぁ? 今日はオレたちのお近づきの印に、ここは一つ、ペッ! とさ』
醜悪な虫ケラはレードルの上から、『ぺっ』と何かを吐き出した。ほんの小さなその一滴が、ぽちゃん……とカレーに落ちる音を、ワタシはハッキリ聞いた。
『ほら、アンナの番だぜェ』
本当にうるさい虫ケラだ。
たしかに、そういう想像は何度もしてきた。幾度となくこいつのまかないには唾を垂らしたり、飲んだら一大事になるブリーチを混ぜたりしていた。
でもそれは想像だ。
妄想マーダーだ。
まさか、実際にやるなんて……。
7口のガスコンロには7つの鍋が乗っていた。スープカレーはマグマの如くブクブクとあぶくをたてて沸いている。
「うん。そうね、やってみましょうかしら」
『そ〜〜うこなくッちャァな!』
「今度は虫ケラをトッピングしてみるわ」
ワタシは壁からレードルを取って、あの後輩の鍋にその先を浸した。
『ギャアアアアアアアアア!』
十枚の黒板を百人で引っ掻いたかのような叫びがした。
ワタシは無自覚に取り乱していたらしい。その拍子に左手を火傷した。
湯気か炎かカレーのいずれかが触れた。ジンワリした痛みに苛立ちが募っていく。
「ちっ」
舌打ち一つ。
レードルをたしかめるとイモムシはいなかった。
唾を入れて欲しいの?
ワタシはホールの様子を窺った。いくらか残ったお客と、それを避けるように座るスタッフたち。キッチンにいるワタシには誰も気を向けていない。ワタシはまるで香りでもたしかめるみたいに顔を鍋に寄せ、口をすぼめて、ぢゅぅ……と唾液を後輩の鍋に落とした。レードルで混ぜる。
カレーができた頃合いかなと、スタッフたちがキッチンに戻ってくる。
ワタシは振り返る。
「みんなご飯できたよ」
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