第10話 想いが通じた薔薇の中

 酒の熱はそう簡単に逃げてはいかず、咲を救うための最善の方法すら考えられなくなる。

 これも蘇芳の手なのかもしれないと、今更ながら実感する。

「君が初めてあの子に会ったとき、まるでこの世の者を見るような目をしていなかった。私は確信したんだ。君にとっても、あの子は私と同じで特別な感情を持ったのだと。私は大事に大事にしてきた。宝物を自慢したくて仕方なかった」

 洗脳の間違いではないかと出そうになるが、堪えた。

「咲はとても美しい。あの子に夢中になる気持ちは判ります。然るべきときが来るまでお預かりしますが、後の人生はあの子に任せます。咲が誰を選ぼうがどこで人生を送ろうが、あの子が幸せになってくれることを望みます」

「まるで私の元から離れていくかのような口振りだな」

「蘇芳さん……人生は判らないものです。私も家から出たいと思っていましたが、結局はあの家に住んでいます。咲も無限の可能性があり、幸せであったと最期に笑えるような人生を送ってもらいたいと望んでいます」

「咲が君の元から離れたいと言ってもか?」

「はい」

 咲の笑顔を思い浮かべると、恥ずかしながらも微笑んでくれた幼少期時代に戻る。

 何も考えなくて追い求められた。お互い子供だったからできたが、今はしがらみしかない。だが解決できるのも身動きが取れるようになった大人だけだ。当時、咲の人生を知っていたのら、身の毛もよだつほど震えるだけで、最期には悶死しただろう。

 蘇芳は本気になるなと忠告している。それが今日の食事会だ。だがもう遅い。幼少時に出会った瞬間、運命の糸が張ったのだ。色まで判らなかったのは、咲があまりにも眩しかったから。今なら絶対に赤だと言える。

 咲を預けたのも、息子絶対に離れていかないと自信から来たものだろう。勝ち誇った顔がいやに鼻につく。

 ほとんど味が判らないまま食事会をお暇した。

 屋敷は一階以外電気は消えていて、咲も寝ているだろう。

 秋子は起きていて、明日の支度をしている。

「お帰りなさいませ。あまり楽しくはなかったようですね」

「気疲れはあるさ。なんせ咲の父親だ」

「飲み直しますか? お酒の銘柄はあまり詳しくありませんが、つまみなら咲さんがご用意しましたよ」

「咲が?」

「ピクルスと、サーモンのマリネをお作りになりました」

「いつの間に作れるようになったんだ……頂こうか。酒はいらない。たまにはお茶を」

「かしこまりました」

 胡瓜やパプリカ、人参、ミニトマトが瓶詰めにされている。

 カラフルで、彩りを考えながら作った咲を思うと自然と笑みが零れた。

「マリネも味がしっかりしている。とても美味しいよ」

「咲さんが聞いたら喜びそうですね」

「だといいんだが」

「喜んでほしいと何度も仰っていましたよ。顔色も少しよくなり、元気になっていました」

「それは何よりだ。秋子も早めに休め」

「はい。お休みさせて頂きますね」

 少し涙ぐんだ目を隠し、新鮮な野菜を口に運んだ。




──話したいことがあるなら遠慮なく言ってほしい。

 彼の目は何もかもお見通しだと告げていた。「遠慮なく言ってほしい」には、父から受ける寵愛について詳しく話せと言っているようなものだ。

 寝てばかりで飽き飽きしていた咲は、少し早めにキッチンへ行こうと部屋を出た。

「おはよう。随分と早いね」

 キッチンにはエプロンをつけた誠一が立っている。

 金粉で彩られた重箱には、いくつかおかずが詰められている。

「おはようございます。どうしたんですか、これ」

「庭になるけど、ふたりでピクニックでもどうかと思って」

「薔薇を見ながらですか?」

「そう。今日は涼しくなるみたいだし、環境が変われば君も食欲が沸くかと思ってね」

「ありがとうございます。秋子さんと葉山先生のおかげで、かなり体調も良くなりました。ふたりのおかげです」

「君の作ったピクルスとマリネも食べたらもっと良くなるかもね。昨日食べたけど、本当に美味しかった」

「それは……、嬉しいです」

 くすぐったくて、何かしていないと落ち着かなかった。

 誠一はこちらを見ているが、愛しさが溢れんばかりに込められていて目を合わすことができなかった。

 少し早めに昼食を取ろうと、ふたりで庭に出た。

 噴水を囲むように咲き誇る薔薇は、夏の太陽を目いっぱいに浴びて艶が出ていた。

「ガーデンテーブルと椅子はどうしたんですか? 今までありませんでしたよね?」

「持ってはいたが、表には出していなかったんだ。今日、朝一で設置した。これもパラソルが薔薇なんだ」

「素敵です。開くと薔薇の形なんですね」

 一人分の隙間を開けて座ったが、誠一は少しむっとした顔をして距離を詰めた。

「薔薇の香りを楽しみながらなんて、贅沢です」

「君の家の庭だって素晴らしいじゃないか」

「ありがとうございます。庭……あ、」

「どうかしたかい?」

「白神善四郎の錦鯉が描かれている絵を見たんですが、あれってもしかして……」

「あれは君の家で描いたものだよ」

「昔、錦鯉が泳いでいる風景を何処かで見た気がしたんです。懐かしいと思えたのはそのせいだったんですね」

「あれは売るつもりのない絵だ。でも古くなってしまって、直してほしかったんだ」

 誠一にとっても思い入れのある絵なのだろう。

 美しいだけが絵の価値を上げているのではない。

「葉山せ……んっ」

 顔が近づいてきて、唇ごと受け入れた。おおよそ二桁を超えた数に到達しているだろうが、昔からしていたみたいによく馴染んでいる。

「咲とずっとここで暮らせたらって思うよ」

 咲の中にも答えは出ていた。まだ仕事はたくさん残っているが、いずれあの家に戻らなければならないときはくる。そうなれば、地獄の日々だ。

「私も、葉山先生とずっと一緒にいたいです」

 思えば、中学生ぶりの愛の告白だった。あのときは中村へ告白し、玉砕どころか回りにもばらされ、生き地獄を味わっていた。

 同じ告白なのに、こうも違うものがあるのだと知る。

 誠一は咲を抱きしめ、細い腰を何度も撫でた。

「それは好きってことでいいんだよね?」

「……はい。けれど越えないといけない山がありすぎて……私に恋愛ができるのか不安で押し潰されそうです」

「ふたりで乗り越えていけばいいのに、君はひとりで抱え込もうとするのか?」

「それ……は…………」

 ごもっともすぎてぐうの音も出ない。

「君は誰からも愛される人だ」

「誰からも?」

「ああ。本当に。羨ましいくらいだ」

 誠一の目は純粋に羨望の眼差しだった。

 誠一自身が咲を愛するという意味ではなく、不特定多数の人間が咲を愛していると意味合いが込められている。

 咲は誰を指しているのか判らないが、誠一からの愛を向けられているのは事実で、それだけで充分だった。

 誠一が顔を傾けると、咲も思いを伝えるべく、自ら目を閉じた唇へ吸いついた。

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