第9話 蘇芳と誠一

 湯気の立つコーヒーに口をつける気にもなれず、ただ愕然とテーブルにある写真を眺めていた。

「これが白神蘇芳の正体かもな」

 欲望を優先した結果、回りを気にする余裕もなかったのだろう。障子も閉めずに寵愛を押しつける蘇芳に、心底反吐が出る。

 縄で息子の身体を縛り上げ、天井から吊し、細い身体を筆でなぞっている。悪戯では済まされない、姦邪な心しか持ち合わせていない。

 写真を握り潰したくなるが、そんなことをしても咲が助かるわけでも傷が癒えるわけでもない。

「週末に帰りたくなさそうにしている理由が判った。普通、職場より実家が落ち着くだろうに」

「二十五歳になれば大抵は親元から離れたくなるだろうが、この子は親に洗脳されてしまっているんだろう」

 二十五歳成人男性に対しこの子呼ばわりはないが、線の細いタイプであり、この子と呼びたくなるのは理解を示す。

「仕事以外の行動だが、普段は分家に行くか、美少年を買うかしている。いくつになっても元気な人だな」

 ため息をつくこの男は、医者である親友の深海伊織によく似ていた。実際に伊織の兄だからだ。医者になるのが嫌で家を出て、今は探偵の仕事をしている。

「知り合いに週刊誌の記者がいるけどどうする?」

「止めておく。咲にまで記者の手が及ぶ可能性がある」

「それもそうか」

 写真ごと記者に売る手もあるだろうが、絶対に使えない手だ。こんな姿の咲を誰にも見せたくないし、傷つくだけだ。

「そもそも売ったところで止めるとは思えないしな。悪いとは思ってないだろう。自分の息子を美術品扱いする男だ」

「俺ができるのはここまでだけど、何か手はあるのか?」

「今のところは。止めろといって止める男でもないだろうしな。下手に動いて、咲の家を潰したいとも思わない。歴史ある美術鑑定士の家だ。俺の願いは咲から手を引けばいい」

「煮詰まったときは、美味いものでも食べてゆっくり過ごすのが一番さ」

「それで良い案が浮かぶのか?」

「俺は焼き肉とビールで腹を満たす。家に帰ってきたら好きな音楽を聴いてベッドに入る。そうすると、いろいろ降ってきたりする」

「なるほど」

「あとは時間が解決してくれることもある」

「あちらの出方を待てってことか?」

「それも一つの手だ。いっておくが俺はお前より年上だからな。人生経験多く積んでんのよ」

「たった五歳だろう」

「お前と咲の年も五歳差だ」

「……判った。胸に留めておく」

「じゃあ、また何かあれば」

「ありがとう」

 お礼を言い、探偵事務所を後にした。

 今すぐにでも帰って咲の顔を眺めたいところだが、ひとりになって考えたいところもある。

 よく通うカフェに行き、エスプレッソを注文した。

 ひとりで苦いエスプレッソに口をつけていると、頭の靄が少しずつ晴れていくようだった。

 ここで白神家についてもう一度考えてみる。

 白神は日本各地にいる名字で、有名な白神製薬会社を持ち、権力者の証だ。咲の家は関わっていないだろうが、遠い親戚といえる。誠一の祖父も白神の名字を持ち、辿れば何かしら繋がりがあるはずだ。

 歴史のある美術鑑定士の家で、咲は生まれた。なぜ父と同じ美術鑑定士の仕事に就かなかったのかは大体想像がつく。本人は海外で勉強がしたかったと言っていたが、父と同じ道を歩みたくなかったのだろう。そして父の側にいたくなかった。たった数年でも、安らぎを求めて日本を出た。

 中学卒業と同時に家を出たのだから、その頃から父からの虐待は始まっていたのかもしれない。

 携帯端末にメールが届いて、秋子からだった。

──蘇芳さんからご連絡がありまして、夕食に招待したいとのことです。

──ありがたくお受けしたい。

 来てからまだ十五分も経っていないが、すぐに家へ戻った。

 秋子が出迎えてくれるが、顔色が晴れない。

「何かあったか?」

「それが……咲さんが少し食欲がないみたいで、顔が赤いんです」

「すぐ部屋に向かう」

 鞄も置かずに彼の部屋に行きノックをすると、か細い声で返事があった。

「咲、大丈夫か?」

「葉山先生、お帰りなさい。ちょっと体調が思わしくないだけです。ここのところ、暑かったり気温が下がったりを繰り返していますから」

 ベッドに寝ていたが、すぐに起きてきて鞄を持とうとする。

 それを制止し、再びベッドへ寝かせた。

「君の側にいたいところだが、蘇芳さんから食事でもどうかと連絡が入った」

 咲は判りやすいほどに反応を見せた。真っ白な肌が震え、唇は形作ってもうまく言葉が出ないのか噛んだ。

「招待されたのは俺だ。君じゃない。もし君のことを聞かれたら、夏の暑さにやられたとでも言っておこう」

「別に私は……父が嫌なわけじゃないです……」

 顔を背け、嘘を並べる。素直な性格が災いしてか、彼は嘘が下手だ。

「咲、隠さなくても大丈夫だ」

「先生……」

「誰だって苦手なものや人はいる。俺にだってある。君は何も考えなくて、ゆっくり休んでいてほしい」

「……ありがとうございます。父を、どうかよろしくお願いします」

 なんて健気な子だろう。あんな扱いをしておいて、蘇芳は父と呼ぶ息子の気持ちを一度でも考えたことがあるのだろうか。

 肩に力が入りそうになるが抑え、そっと顔を近づけた。

 前に比べて、キスは合わせてくれるようになった。

 何度も角度を変えると、音を立てて薄い唇を食む。

 目を開けると咲の整った顔があった。睫毛がうっすら濡れている。顔色はよろしくなかったが、今は熱がこもり微かに赤みがかった。

「あまりすると体調によくないね」

 離れていくと、咲は物足りなそうに上目遣いで唇を尖らせる。

 本人は無意識だろうが、咲の気持ちはこちらに向いていると意識させられる。

 しばらく肩まで伸びた髪を弄んでいると、向こうから秋子に呼ばれた。

「君といると時間経過が早い」

「ちゃんといい子で待っています」

「ああ、君は昔からいい子だった」

 咲は不思議そうな顔をして、首を傾げた。

 なぜ判るんだ、と言いたいのだろう。

 あんな目に遭わされて、こんなにも素直に育った。悪い子のはずがない。

 秋子にもう一度呼ばれるまで、指を絡めてひとときの蜜愛を楽しみ、後ろ髪を引かれながら別れた。

 蘇芳は和服を着ているだろうがあえて合わせず、数回着た海外ブランドのスーツに身を包んだ。

 玄関にはお出迎えがあり、一応歓迎されているようだが警戒心は解けない。

「よく来たな。いきなり呼び出してすまなかった。君と食事をしたいと思ってね」

「ご招待ありがとうございます。お口に合うか判りませんが」

 機嫌を取るべきだろうと、彼の好みそうな赤ワインを渡した。

 和室には料亭さながらの料理が並べられている。

 日本酒で盃を交わし、彼が料理に手を着けるのを見届けてから箸を持った。

「咲の様子はどうだ?」

 こうして見ると、咲は父親より母親にそっくりだ。母親譲りの目や鼻、肌の色、髪の毛を持つ。

 もし父親に似た顔が目の前にあったら、咲を返せと言われているようでぞっとしていた。

 しばらくは近状報告をしあっていたものの、ようやく本題を持ちかけてきた。

 何が目的かはっきりしない以上、迂闊なことは避けるべきだった。

「本日は咲も呼ぼうと思いましたが、微熱がありまして、休ませております」

「大丈夫なのか?」

「夏の暑さにやられたようです。本人は食欲もありますし、水分もしっかりととっています」

 少しの嘘を交ぜたところで許される、可愛いものだろう。

「私はな、あの子が可愛い。娘や息子は他にもいるが、あの子は誰よりも可愛がっている」

 君にも判るだろう、と目で訴えられた。

 蘇芳の目をまっすぐに受け止める。

「何よりも美しいのは目だが、それ以上に細い手首や身体のライン、真っ白な肌には赤が似合うんだ。そう思わないか?」

「赤い着物はよく映えるかと存じます」

「将来は親元から離れていくときがくると言うが、あの子は離すつもりもない」

 幾分か酔ったようにも見えたが、蘇芳は語尾を強めて目を細めた。

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