宰相殿の猫

ななないなない

宰相殿の猫


Ⅰ.

「ふむ。」

 その朝、目を覚まして呼び鈴を手に取った宰相殿は、お気に入りの猫が部屋の隅っこで冷たくなっているのを見つけた。他の猫たちもその『生』から『死』へ、という変化に気付いているのだろう。皆、遠巻きに屍となった猫を見ているだけで、あえてそれに近付こうとする者はいない。

「お前は、もう少し利口だと思ったがな。」

 冷たい猫の背を撫でながら、宰相殿は一人ごちた。綺麗な死に様だった。何も知らない者が見たら、眠っているものだと思うかもしれない。こんな死を見ていると


――残念だ。


そして、同時に


――羨ましい。


とも思う。

「惜しいことをしたな。」

 念のため、宰相殿は戸棚から特別に調合させた水薬の小壜を取り出すと、一息にぐっとあおった。そして、呼び鈴を鳴らし下男を呼ぶと、猫を埋めるようにと言った。


Ⅱ.

「宰相、猫は元気かね。」

 その日、宮廷の廊下で王は今や挨拶のようなものとなった問いを口にした。

「変わりなく。と言いたいものですが、アデライドが死にました。」

 別に死んだ猫がアデライドという名前だったわけではない。それ以前に、宰相殿は自分の飼っている猫の名前など知らない。適当に、口をついて出た名前である。

「そうか。アデライドがな。」

 さも残念だと言わんばかりに表情を濁す王も、無論、宰相殿の猫の名前など知っていようはずがない。王にとって、どの猫が死んだかなどということは別に関係がない。『どの猫』が、という部分ではなくて『死んだ』という部分が重要なのである。それは、宰相殿にしても同じだった。ただ、今回はお気に入りの猫だったということで、多少は憐憫の情がほだされはしたが。

「それで、大丈夫かね。」

「少なかったようです。それとも、知らず知らずでそれを避けていたのかも知れませんがね。猫を見て初めて気分が悪くなったぐらいですな。」

 沈黙の後、二人は暗い表情のまま、自分たちの進む方へと足を向けた。

 不意に、王が振り返って言った。

「お互い、食事には気をつけねばな。」

 広い廊下に反響するその言葉が、宰相殿の耳にはこの上なく虚しく響いた。そして、王の言葉に応え目礼して床を見た時、猫の死も今更ながらの悲しみをもって心に響いた。


Ⅲ.

 その晩、宰相殿は屋敷に戻ると死んだ猫たちを埋めた塚に小さな石を据えた。

 そして、これからは死んだ猫をアデライドと呼ぼう、そう思った。


Ⅳ.

 蝋燭一本に照らされた薄闇の中で、暖かいふとんに包まれながら


――アデライドのように死にたい。

 

と宰相殿は思う。生きているのが嫌なわけではない。もし、自分が死ぬのであればの話である。静かに死んでいく猫というのはそれほど多くないが、かと言って別に珍しいものでもなかった。


――静かな死は美しい。

 

 それは夢想家の詭弁だということは解っている。猫とて安らかに死んだわけではなく、それなりの苦しみを味わった上で死んだのであろう。しかし、そうした死に様こそが、今の宰相殿にとって最も望ましい形の死であった。


――死は、第三者から与えられるものではない。しかし、押し付けられてしまった以上はその腕の中から抜け出すことは難しい。望んでもいない死には、自分の望む形の死で応えたい。自らの希望する形の、死。それさえ保証してくれるというのならば、死んでもよい。

 

 宰相殿はそう思う。そうしてくれさえすれば、猫をみすみす死なさずとも済むのである。その『死』。知らぬ間に差し伸べられる隠された死は、宰相殿の猫たちにとって職務である。また宰相という地位にとっても、その死は一種の、不意に与えられる最後の職務であるかもしれない。

 猫が死ぬのを見る度に、宰相殿は遣り切れない気持ちになる。次々と死んで一匹、また一匹と減っていく猫たちを眺めることはもちろん、死ぬためにこの部屋へと入ってくる猫たちを迎えることも、苦痛だった。それにも勝る耐え難い苦痛は、猫たちを一匹一匹、個々の存在として受け入れていたあの頃の記憶。名前をつけ、それを口にした数が多ければ多いほど、その後にやって来る死が重苦しく宰相殿に纏わりついた。

 その苦痛を薄めるために、宰相殿はいつしか猫に名前をつけるのを止めた。

 明りを消そうとした宰相殿の目に、ベットの横で力無くうずくまってる猫が映った。その身体を撫でてやると、猫はその宰相殿の手を、やはり力無くペロペロと舐めた。

「お前のことは、見たことがないな。」

 宰相殿の呟きに、猫は小さく『なぁお』と応えた。

 ここでいつもならば手を伸ばす戸棚の小壜に、宰相殿の手が触れることはなかった。


Ⅴ.

 朝を迎え、下男を呼ぼうと呼び鈴を手にした宰相殿は、昨日の猫が自分の上でくねくねと尻尾をうねらせているのに気付いた。

「ふむ。」

 至って元気である。差し出した宰相殿の指を、猫は昨日と同じ様にペロペロと舐めた。ただ、そこには力強さがあった。

「お前のことは、コレットと呼ぼう。」

 部屋を見回せば、まだ随分と猫たちがいる。宰相殿は笑った。

「お前はリリ。お前は、カフスだな。さて、お前の名前は…」

 ベットの上に身を起したまま、宰相殿は次々と猫たちに名前をつけていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

宰相殿の猫 ななないなない @nintan-nintan

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る