第9話
男の肩がわなわなと震えている。怒りに任せて次々と竜巻をくり出してきたが、ことごとくアウグストから逸れていくのだ。風がだめなら、と言わんばかりに砂嵐まで起こされたが、なんの意味もなかった。
初めになにか思いついた様子だったのは女性だ。
「あの男の子って魔術師なんでしょ? だったら
「なるほどなぁ!」
「えっ」
〈機関〉の二人は勝手に納得しているが、そんなわけがないことをアウグストが一番よく知っている。
アウグストには神力が備わっていない。ゆえに攻撃も防御も、治癒もなにも出来ない。とはいえここで彼らに説明したところでこの場を逃げるための嘘と判断されるだろうし、そもそも説明させてもらえない気がした。
竜巻がなぜ逸れていったのかなど、自分が一番説明してほしい。あわあわと言葉に詰まっていると、女性は剣を拾い上げて力強く地面を蹴った。
次に気がついた時、アウグストは背中をしたたかに打ち付けて転がっていた。いつかと同じように首が痛む。またしてもロメリアに引っ張られたのだろう。
だが痛みを覚えたのはそこだけではなかった。
「…………え?」
右腕の袖がすっぱりと斬られている。露出した皮膚にもひとすじの線が走り、じわじわと血がにじみ出ていた。
「ふうん。物理的な攻撃は効くのね」
先ほどまでアウグストが立たされていた場所には女性がいた。
――い、今、斬ったのか!
移動が速すぎてアウグストの目には追えなかった。ロメリアに引っ張られなければ袖ではなく首が飛んでいた可能性もある。もう少し優しく引っ張ってくれという文句は彼方に消えた。
「無防備な相手に躊躇なく剣を振るうなんて、容赦のないお嬢さんだこと」
「ごめんなさいね。幻獣や魔術師には手加減しないことにしてるの。もちろん幻操師にもね」
「会話もなしにいきなりおっぱじめるような奴は嫌われるよ」
「そう? ご忠告ありがとう」
女性はアウグストを見下ろしながら微笑んでいるが、瞳はまったく笑っていない。本気の殺意だけがありありと感じられた。
ロメリアを見れば目があう可能性があるためか、彼女はずっとアウグストだけに視線を投げている。他人から敵意を向けられたことが無いわけではないが、生きた心地がしないのはこれが初めてだ。
だが、いつまでも転がっているわけにはいかない。アウグストは腰の後ろに手を回し、そこから取りはずしたものを女性に向かって投げつけた。
身を守るためのもろもろは上着だけに入れていたわけではない。体に巻きつけたベルトにはいくつか小さな袋がぶら下がっており、アウグストが女性に投げつけたのはそのうちの一つだ。
咄嗟の判断だったのだろう。女性は剣を薙いで袋を真っ二つに切り裂いた。
「なっ――――」
次の瞬間、女性の目の前に真っ黒な粉が広がった。それは二人組とアウグストたちを隔てるように瞬く間に壁となり、そのすきにアウグストは立ち上がるとロメリアたちの背中を押した。目くらましが出来ているうちに逃げなければ。
「坊やったら面白いもの持ってるねえ!」
林に入って早々、ロメリアは人通りの少なそうなけもの道を選んで突っ走っていく。明かりも地図もないのによく迷いもなく進んでいけるものだ。マスベルはこの状況が楽しいのか、それともアウグストが先ほど一矢報いたのが愉快だったのか、ずっとけらけらと笑っている。
「なにがあるか分からないからって持ってきてたんだよ。短期間で二回も使う羽目になるとは思わなかったけど」
「さっきの黒いの、あたしちょっと吸いこんじゃった。なんだかすごく変なにおいがするね。鼻がつーんてするの」
「さっきの粉には激臭に加えて激辛の成分もまぜてある。うっかり吸いこんだらものすごく咽ると思うよ。僕も調合中に何回か吐きそうになった」
「薬以外にそういうのも作るんだ? 技術の応用ってやつか」
「そんなところ」
悠長に話している暇はない。二人組がいつ追いついてくるか分からないし、どれだけアウグストを狙おうと逸れるのが分かっているのだから、彼らも手を変えて攻撃してくるだろう。女性が指摘したように、物理的な攻撃は防げていないのだから。
時々顔にぶつかってくる枝葉をしりぞけ、道なき道を作り上げる草花に足を取られそうになりながら、アウグストたちは林の奥に進んだ。夜とあって動物たちも眠りについていたのだろう。物音を感じて飛び立つ鳥もいた。
「逃がさねえぞ!」
背後から男の声が風に乗って届いた。距離から考えてまだ近くまでは来ていないようだし、こちらの姿も捉えていないはずだ。
「男の方が竜巻とか砂嵐とか起こしてるの、なんなんだろう」
「神力か、あるいは
「神力じゃないかなと思ってるけど……魔力だったらもっと雰囲気が違うって聞くし」
幻獣と似て非なる存在が魔獣なら、神力にもそれに該当する力がある。黒く禍々しい力、魔力だ。
これもアウグストの亡き叔父が見つけたもので、力の源となるのは怒りや妬み、苦しみなどの負の感情だと姉から聞いた。神力との大きな違いは、神力そのものが常人の目に映らないのに対し、魔力は誰の目にも明らかな黒いもやや影として現れる点だろう。
「風を起こしたりするとき、もやとか出てなかったはずだよね」
「となると神力であれを出してるのかな。魔術師じゃあなさそうだし、あの頭から考えて幻獣かな?」
「……ん? でも〈機関〉って幻獣を滅ぼすための組織なんでしょ? なんで幻獣が所属してるの?」
「さあね。本人に聞いてみたらどう?」
「聞ける様子じゃないし遠慮する」
林の中で竜巻を起こせば先ほどのように木々が倒れる。それをすればアウグストたちだけでなく自分たちの行動も制限されると分かっているからか、ここへ逃げ込んでから暴風はぱたりと止んだ。
――女の方は剣を持ってたけど、ここだと木が邪魔するから使えないんだろうな。男は風と砂以外になにもしてこないけど……単純に手を隠してるだけなのか、それともそれしか使えないのか……どっちだろう。
「坊や、マスベル」
不意にロメリアが速度を緩め、声を潜めた。あそこ、と彼女は先の一点を指さしている。
そこにはぽつぽつと赤い点が浮かんでいた。一つ二つではない。二十ほどあるだろうか。
「……なにあれ?」
「松明だろう。ここを通り道に使っている商団かな」
「うう……」
「マスベル?」
苦しげな声に振り返ると、マスベルは唇をぐっと噛んで角を握りしめていた。たまにむずむずすると言っていたが、どうやらそれ以上のものを感じていそうだ。
「マスベル、大丈夫?」
「うう、アーグスト……ここがさっきから痛いの……喉も苦しいの」
「喉? さっき粉をちょっと吸いこんだとか言ったよね。それが原因かな」
「二人とも、ちょっと静かに」
ロメリアはアウグストたちにしゃがみこむよう指示し、自身は近くの木の陰に身をひそめる。
「……おかしいね。こっちに近づいてくる。本来の道を通ってない」
「僕らと同じようにけもの道を進んでるってこと?」
「ああ。まさか、あいつら――」
「『レチアさま』! どこにいるんだ!」
風に乗って聞こえてきた名前に、びく、とマスベルの体が震えた。
聞き覚えのある声だ。港で追いかけてきた神父を名乗る男のそれによく似ている。
ロメリアも同様に感じたのだろう。チッと舌打ちをしていた。
「追いついてきたのか」
「ど……どうするんだよ」
進めばマスベルを捕らえんとする集団がいて、引けば〈機関〉の二人に殺されてしまう。どちらの道を選んでも危機しかない。
マスベルは痛みを訴えてからずっと呻いている。アウグストは再び腰回りを探り、袋の一つから小さな粒をいくつか取り出して彼女の唇に押しつけた。
「これ呑んで。そこそこ苦いかもしれないけど、ちょっとだけ我慢して」
「う……?」言われるがままに、マスベルは器用に舌先を出して粒をからめとると大人しく吞みこんだ。「うえぇっ……気持ち悪い味がするぅ」
「痛み止めだよ。人間用だしお前に効くか分からないけど」
「んん、ありがとう。ちょっと平気になったよ」
マスベルの頬が緩んだ気配がする。効果が無いわけではなかったのだろう。
神父たちの声はだんだん近づいてきている。後方から追ってくる〈機関〉の二人組はアウグストたちを見失ったらしく、そこかしこで「どこだ!」と捜しまわる声が聞こえていた。
「坊や、さっきの粉はもう無いのかい?」
「強力なのはさっきので最後だよ。あとは使い切った時にいつでも調合できるようにって持ってきてた予備のやつだけ。こんなの目くらましにもならない」
「私の目はネタが〈機関〉の二人には知られているし、あっちの集団はそもそも目を隠してるから意味がない。マスベルなら〈機関〉くらいはどうにか出来るだろうけど」
「でもアーグストが使っちゃだめだって言ってた」
「誰かを囮に使いたくはないし……あまり言いたくはないけど、手詰まりだねえ……」
アウグストたちが選べるのは謎の集団に捕まるか、〈機関〉に殺されるかの二択だ。
じりじりと残された時間が減っていく。言いようのない焦りばかりが募り、アウグストは親指の爪を噛んだ。
謎の集団と〈機関〉の距離も徐々に近づいていく。マスベルは不安そうにアウグストの手を握ってくるが、どうしようもなかった。
ここで諦めるしかない。アウグストが脱力しかけた、その時だった。
「『レチアさま』、そこにいるのは分かっているぞ。早く我々のもとに戻ってこい! お前はまだ完ぺきではないんだ!」
「『レチア』だと?」
神父の声が届いたのだろう。異形の男は訝しげに足を止めたかと思うと、「ちょっと!」と女性が制止するのも構わず走り出した。
アウグストたちが潜んでいる場所ではなく、集団に向かって。
「てめえら今、『レチア』がどうとか言ったな! どういうことだ!」
ひぃっと集団の悲鳴が伝わってきた。暗闇から前触れもなく屈強な異形が現れ、突然追及を始めたのだ。恐ろしく思わないわけがない。
「な、なんだ貴様は。犬の頭に人の体……幻獣か?」
「そんなことはどうでもいい。俺の質問にさっさと答えろ。『レチア』はどこにいる!」
――どういうことだ?
アウグストは茂みからこっそりと顔を出し、集団の先頭にいる神父と、踏みつぶしそうな勢いで迫っている男の様子をうかがった。
――『レチア』って呼ばれていたのはマスベルだよな。だけどあいつはマスベルを見ても『レチア』だって言わなかったはずだ。
「ごまかすつもりか。いい度胸じゃねえか、なぁ?」
「! 待ってエラン、落ち着い、」
女性の声は聞き届けられなかった。
男は激情に任せるまま竜巻をくり出したのだ。
木々は瞬く間になぎ倒され、集団のうち何人かは宙に飛ばされたようだ。痛々しい悲鳴が次々に降ってくる。逃げ惑う者も当然いたが、男は砂嵐の壁を作り上げて一人の逃亡も許さなかった。
なにが起こっているのだ。風や砂は潜んでいるあたりにも被害を及ぼしているが、やはりアウグストを中心に逸れていく。しばらく呆然と目の前で起こっている異変を見つめていたが、真っ先に気を取り直したのはロメリアだった。
「よく分からないけど、逃げるなら今しかない! ほら早く!」
「あ、ああ、うん」
女性は砂嵐の中心にいる男に声をかけ続けているため、意識はこちらに向いていない。アウグストとマスベルはロメリアに続いて林から逃亡し、いったん街に戻ってから宿に立ち寄り、荷物を回収してからすぐに発った。出発直前、ロメリアは怒り狂う宿の主人に謝辞とともになにごとか伝え、彼も納得したようにほくほくとした笑みを浮かべていたが、なにを言っていたのかアウグストには分からなかった。
ロメリアには次の明確な目的地があるらしい。潰しあった片方か、あるいはひょんなことから結託した全員が追ってくる可能性が十分にあるため、出来るだけ拓けていない道を選びながら先に進んだ。
「……あのさ」
アウグストは背後の警戒を任されている。気を配りながら、先頭を行くロメリアに問いかけた。
「あんた、僕が男の攻撃が効かないことになにか気づいた感じだったよね。なにか心当たりでもあるの?」
そのことか、とロメリアはアウグストを一瞥し、すぐに前を向く。
「心当たりというか、単なる予想だよ。可能性の一つ。今まで前例を見たことがないから、本当にそうとは断言できないけど、聞きたい?」
「それでもいいよ。なにか分かったのか教えてほしい」
「分かった。もう一度言うけど、あくまで私個人の予想だよ」
念入りに前置きしてから、ロメリアは右手の人差し指をたてた。
「私やマスベルの目が効かなかったり、〈機関〉の男の攻撃が全部逸れたり……考えられる理由は二つ。ます一つ目。坊やは神力による効果を一切受け付けない体質をしている」
そして二つ目、と中指がたてられる。
「坊やには本当は神力があるんだ。それを常に発動した状態なんじゃあないかな。『神力を無効化する』っていう能力が、ね」
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