迷わし神
山道――ではなく、家への帰り道を歩きながら、こう考えた。
智に働くわけでも、情に棹さすわけでも、意地を通すわけでもないのに、とかくにわたしという人間は面倒くさい。
と、『草枕』の冒頭の表面だけをなぞったようなことをぶつぶつ呟いていても、危ない人間にしか見えない。八百万人事課の事務所を出てから、随分と歩いたように思えるのに、中々アパートの前までつかない。自分がどこを歩いているのか、今一度、確認すべきだということは分かっているのだが、立ち止まるのが躊躇われて、結局、どことも知れぬ道を一人、とぼとぼと歩き続けているのだった。
右肩にかけたカバンが重い。より正確には、その鞄の中に入っている一枚の書類――たった一枚の紙っ切れに過ぎない「異動願」とやらの書類の存在が、わたしをここまで惑わせ、迷わせ、途方に暮れさせる。
そんな気持ちを抱いたまま、この時間帯に外を出歩いたのは、少し不味かったかも知れない。
黄昏――またの名を、逢魔時。あるいは、大禍時。
これも御手洗さんから聞いた話である。
黄昏は、「誰そ彼」――つまり、お前は誰だという意味。黄昏の逆光により、人の顔が影に塗りつぶされる。今行き違った相手は、知人だろうか。知らない相手だろうか。いやそもそも――人間だったろうか。そうした不安に心惑う時間帯なのだという。
昼夜の境、人と魔の境、現世と幽世の境。此岸と彼岸の境。
怪しきモノが生ずる境界の時間を跨いで、外をふらふら彷徨していれば、迷わし神に憑かれても当然というものだ。
これも以前、御手洗さんに説明してもらったことだ。
『宇治拾遺物語』や『雨月物語』にも記述があるが、迷わし神は昔、京都は長岡で頻繁に起こった怪事でもあるという。
これに憑かれると、行くべき道を把握していたとしても絶対に目的に辿り着けない。必ずどこかで道を間違って、同じところをぐるぐるといつまでも巡らされる。そうして最悪の場合行き倒れるか、野寺で一晩を明かすことになる。これを迷わし神と言って、非常に厄介がった。
迷わし神に憑かれた、という実感はなく、大抵の場合は自分の方向感覚のなさを呪うことになるのだが、今のわたしには確固たる実感があった。
物理的にも、精神的にも、今のわたしはきっと、こいつに憑かれている。
物理的には、完全に道に迷っている。どういうわけか――これも迷わし神の仕業かもしれないが、大路を避けて歩いているため、目に映る家並みにまったく馴染みがない。ここからどうやったら大路に出て、帰り道に戻れるのか皆目検討もつかない。
そして精神的には――わたしは自分の居場所が分からないでいる。
異動願か――。
八百万人事課の定員は二人。
八年に一回、大蛇を抑えるために何も知らぬ無垢な新人を必要とする。
その前の時に「徳の器」の役割を担った者には、最早その役を任せることはできない。
つまり、八年の後には必ず異動する。
ここまでが八百万人事課の慣例であり、その上で御手洗さんとしては、同じ八年ならば、スキルアップのためには早く異動するに越したことはないと考えているのだ。
理屈はわかる。正論だとも思う。御手洗さんの発言が、わたしの将来について懸念した上での言葉だということも、わかる。
けどなあ――。
どうにも煮えきらないものが残るのは事実だ。
わたしは、どうするべきなんだろう。
御手洗さんは、わたしにどうして欲しいのだろう。
この一年で、八百万人事課は、わたしの居場所になり得るのだろうか。なりえないのだろうか。
御手洗さんは言った。大抵のことは、自分ひとりで対処できると。それはつまり、わたしという存在が必要ないということではないのだろうか。
一方で御手洗さんはこうも言った。できることなら、わたしには留まってほしいと。それはその場限りの方便ではなかったと思う。戌神の一件があった時に、御手洗さん、わたしがいなければ成仏させられなかったと言っていた。あの言葉と、その時に感じた胸の震えは今でも鮮明に覚えているのだ。
でも――だったら――それだったら。
こんな書類なんて渡さずに、わたしが必要だと言ってほしかった。
打算だって良い。御手洗さんの――八百万人事課の利己優先で良い。
ここがわたしの居場所であると言ってくれればそれで良かった。
たぶん、御手洗さんとしてはこれがフェアなやり方なのだ。そりゃ傍目からすれば御手洗さんのやり方が正解なのだろう。八百万人事課の「人事」について情報を与え、わたしに将来の展望も含めて考えさせようと。そして、わたし自身にきちんと、今後のことを考えた「異動希望の有無」を決めさせようと。
全てはわたしの選択に委ねられている。わたしに決定権がある。そりゃそうだ。わたしの人生なんだから。
でも――わたしにそれを決めるだけの「器」があるだろうか。
こんな迷いだらけのわたしに、本当に得心のいく決断なんてできるんだろうか。
こんな本音を言ったら、怒られてしまうかも知れない。自分に選択権がある状況なんて、社会の中じゃ極めて希少な機会なのだ。御手洗さんほど、わたしの将来を慮ってくれる上司など、きっと他のどこにもいない。
でも――わたしの本音は、それを喜ばない。
決めてほしかった。わたしの居場所を。
八百万人事課が、本当にわたしを求めているなら。
決定権をわたしに委ねるんじゃなくて、たとえ将来的なリスクがあるとしても、それを了解した上で八百万人事課にいてほしいと、言ってほしかった。
わたしは自分で自分の居場所を決められるほどの器ではないのだ。
その時々で気持ちがころころ変わる、情けない小器なのだ。
金霊から始まる大蛇の一件では、ちゃんと事前に説明しろよと不満に思うこともあった。それなのに、今回の件では説明なんてしなくていいから、そっちで勝手に決めてくれという気持ちになっている。
身勝手だと思う。一貫していないと思う。
こんな気持は、御手洗さんには絶対に言えない。だからこうして独り抱えたまま、黄昏の街を歩いている。
情緒不安定なまま、同じことを反芻したところで迷うだけだ。答えなんて見つからない。誰かが――わたしではない誰かが窓なり扉なりを開けて、風通しを良くしない限り、心の靄は晴れやしない。
ころん、と音がした。
爪先が何かを蹴飛ばしたのだ。思わず立ち止まる。
下を見ると、小さな鈴だった。すっかり錆びついていると見え、鈴本来の優しい音からは程遠かった。
立ち止まると、心の中の靄々が停滞する。周りを見回すと、相変わらず見慣れない景色。本当に、どこまでやってきたんだか。
どこからともなく声がした。
あるいは、わたしの頭の中にだけ響いた声かもしれなかった。
――あのまち、このまち、日が暮れる。日が暮れる。
いま来たこのみち、かえりゃんせ。かえりゃんせ。
――おうちがだんだん遠くなる。遠くなる。
いま来たこのみち、かえりゃんせ。かえりゃんせ。
風を感じた。振り返ると古ぼけた鳥居が、わたしを迎え入れるように佇立していた。先頭の鳥居の奥、三歩ばかり先に、まったく同じ大きさの鳥居。その三歩ばかり先に……という具合に、鳥居の列が後方に伸びている。
迷いの先に姿を現した、稲荷の社。しかし鳥居は赤くなかった。丹はすっかり剥がれて、煤けた茶色の开が一列に奥へと続き、途中でなだらかに左にカーブを描いて、その先が階段になっていて、四段に一つの間隔で遠く上方まで列が伸びているようなのであった。
何の気無しに、一つ目をくぐった。冬の冷たい風が吹いて、地面の鈴をころりと転がせる。コートの前をしっかり締め、鳥居の向こうを目指して足を急がせた。
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