ちいちい小袴 三
時間が止まったような感覚だ。御手洗さんが神様と対峙すると、いつもこんな感じになる。周りのものが全部動きを止めて、それぞれが静止したまま光り輝くような感じになって、ありとあらゆるものが鮮明に映える。ふわふわと漂うような高揚感と浮遊感の中で、御手洗さんの姿だけが黒い影に塗り潰され、声が朗々と響く。
「ちいちい小袴様……これは、どのような神様なんですか?」
不思議な浮遊静止時間の中でも声は出せる。ただ、声を出してしまうと一気に体も感覚も現実に引き戻される。
御手洗さんがふっと息を吐いて、及川さん……とわたしの名を呼んだ。
「御本神がいる前で、そんな話をするんですか?」
蚊の子どもが泣くような声で、すみません……というしかない。しかし不思議なことに、御手洗さんはわたしのことを咎めておきながら、メガネをクイッと上げて語り始める。
「ちいちい小袴様――新潟県佐渡島に伝わる神様です。岡山や大分にも同様の話があり、あの小泉八雲も『Chin Chin Kobakama』という縮緬本を出しています」
読んだことありますか? と聞かれて、曖昧に頷いておいた。ちいちい小袴を知らないと言っているのに、どうしてその出典の本を読んだと思うのだろう。
「ちいちい小袴様は古くなった爪楊枝が化ける、いわば付喪神です。この前お目にかかった、箒神様と同じですね。爪楊枝を粗末に扱って、ちゃんと捨てなかったり、畳の間にねじ込んだりしておくと、夜な夜なこのお姿になって、無精な相手の前に現れて驚かすのです」
掌の上で畏まる三人に向かって言う御手洗さん。その様子を見ていつも思う。ひょっとして御手洗さんは、わたしに説明する体を取りつつ、本当は目の前にいる神様たちに向かって本来の役目や実績を説く意味で、物語っているのではないだろうか、
「器物百年を経れば魂を得る、と言いますが、そうして長く使われた古道具とは違い、このちいちい小袴様は物を粗末に扱う者たちへの戒めとして現れるのです。人間を良い方向へと導くために必要とされた神様たちだったということです」
お疲れさまでした、と僅かに頭を下げる御手洗さん。ミニ侍たちの顔が、僅かながら綻んでいた。自尊心の回復と歩調を合わせるかのように、出会った当初の曇りが少しばかり晴れて生気が戻りつつある。
「それでは、常世の国へとお連れしましょうか」
立ち上がりながら、御手洗さんは言った。ちいちい小袴様たちは、同じタイミングで頭を縦に振った。意外だ。「忘れられつつある神様」の多くは、この世から離れたがらない。自分の役目は終わったと分かっていても、どうにかして再び必要とされないかと、そんな希望に縋っているのだ。ちいちい小袴のように、聞き分け良く異動を受け入れることの方が遥かに珍しい。
「あの――」
一回でも疑問が湧き上がれば好奇心に抗えないのが、わたしの悪い癖だ。御手洗さんは、まだ何かあるんですか――と言うような目で、わたしを見ていた。その眼差しに多少なりとも怯んだけれど、何でもありませんと誤魔化すのも嫌だ。ええい、ままよと思って、
「ちいちい小袴様は常世の国へといらっしゃりたいのですか? 爪楊枝なら、使う人はまだたくさんいるし、物の大切さを教えるお役目だって、まだ求められそうですけれど」
「そんなことを、あなたが気にする必要はありますか」
「え? いや、ただ、気になってしまって……」
仰々しく嘆息する御手洗さん。ちいちい小袴様は、仕方がないという顔で御手洗さんに笑いかけている。御手洗さんは僅かに頷くと、耳の後ろを掻きながら答えてくれた。
「実はね、小泉八雲が縮緬本を出した明治の時点で既に、ちいちい小袴様は本来の役目から退かれていたのです」
「えっ、どうして――?」
「小泉八雲も書いていますよ。新しい鉄道や電信柱が怖がらせて、多くの妖精が去っていった――と」
そうして御手洗さんは、眉に憂いを湛えた目で掌を見下ろし、
「神様の中には、わたしたちの文明に恐れをなし、逃げ出してしまわれる柱もいるということなのです。それ以降、ちいちい小袴様は少しでも日本の原風景が残るこの場所に落ち着き、この小さな祠の中で過ごされてきました。私達、八百万人事課の迎えをお待ちになってね」
「……」
「所在を掴むまでに何年もかかりました。しかし今日、漸くお連れすることができます。常世の国を厭う神様もいらっしゃいますが、ちいちい小袴様にとっては、今の現世よりは遥かに住みやすいはずです。わたしの手でお連れすることができて、良かったと思いますよ」
「えっ? じゃ、じゃあちいちい小袴様は忘れられた神様ではないのですか」
「覚えている人は少ないでしょうが、本にも残っていますから忘れられてはいませんね」
「つまりまだ、ちいちい小袴様を必要とする人がいるかも知れないということですよね。それを、わたしたちがお連れしてしまっても良いのですか? 物を大切にすることを教える役割は、いつの時代でも必要なのでは――」
そう、神様がいなくなるということは、そういうことなのだ。
神様がいなくなった瞬間、その神様が担ってくれていた役割もなくなってしまう。
それはどんな時でも「損失」に他ならないのではないか。
少なくともわたしは、そう思う。
「及川さん――」
御手洗さんがメガネを取って、わたしを真っ直ぐ見た。その目の中に、わたしは怒りじゃない何かが見えた気がした。
「そんな当たり前のことを、神様に背負わせてどうするのです」
「えっ――」
すぐには御手洗さんの言葉が理解できなかった。彼の手のひらを見ると、小袴様は寂しそうに笑っていた。
「物を大事にする、そんなこと当たり前じゃないですか。その当たり前を教えるのに、どうして神様のお力を借りなければならないのです。それは私達、大人の役目でしょう」
「……」
「暮らしや文明が熟しても、そうした当たり前のことが教えられないうちは、いつまで経っても未熟です。その未熟の部分を、小袴様はずっと担ってくれていた。その役目を今、お返しいただくのですよ。これから先は、私達が担えば良い。いや、担うべきなのです」
行きますよ――と言い残して、御手洗さんはわたしの横を過ぎて去っていく。その掌に、恭しく小さな神様を乗せて。わたしは一時……ほんの一時だけ、その場に立ち尽くした。
見えていなかったものを、まざまざと見せつけられた気がしたから。
何も分かっていないわたしを、どうして御手洗さんは選んだのだろう、そんな疑問に一瞬、胸を押しつぶされたような気がしたから。
神様は、役目を終えて忘れ去られればこの世を去る。
じゃあ、わたしの役目ってのは一体なんなんだろう。
わたしはこの世で、神様と一番近いところにいるこの仕事で、どんな役割を担っているんだろう。
それが分かる日が、そしてその役割が完了する日が、いつか来るんだろうか。
思わず唇を噛んだ。わたしには分からない。今は分からない。
分からないなりにやっていくしかないんだ。
ふっと息を吐いて目を閉じた、次に目を開くと、夏の日差しは変わらず眩しかった。
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