くしゃみが殺す
@RITSUHIBI
一
この世で最も多く、人を殺してきたものは何か。驚くなかれ、くしゃみである。
あの「ぶぇっくしょいっ」が、天地開闢以来、千何万・・・・・・いや、何億何兆何京と、数え切れないくらいの人間を殺してきたのだ。
あまりに馬鹿馬鹿しすぎて、とうてい信じられたものではないだろう。だが今の世に生きてみれば分かる。世界中が知っている話だ。全ては明らかになった。これまで数千年に渡って、封印されてきた秘密が。時代を作ってきた者たちが、そろってひた隠しにしてきた秘中の秘――それがとうとう、白日に晒されたのだ。
誰が想像しただろう。くしゃみをしただけで人が死ぬなんて。ところが、一人だけいた。兼好法師。彼は『徒然草』に書いていた。比叡山に送った稚児のことを思って、絶えず「くしゃみ」と唱え続ける老尼の話を。世界の認識を根本的に捻じ曲げてしまう禁断の真実に気付いていたとするならば――やはり兼好、只者ではない。
――鼻ひたる時、かくまじなはねば死ぬるなりと申せば、養君の、比叡山に児にておはしますが、たゞ今もや鼻ひ給はんと思へば、かく申すぞかし――。
『徒然草』の中の言葉である。「ぶえっくしょい」とやった瞬間、誰かが「くしゃみ」と唱えなければ、その人は死ぬ。老尼は、そう言っていたのだ。
そしてこれが事実なのだから、世界とはまったく馬鹿げている。
この話自体への研究は、主に国学が進めていた。くしゃみが人を殺すメカニズム、そして「くしゃみ」と唱えることによって、死が回避できることの理由……。学者によって創造的に組み立てられた数多の解釈も、現在ではただ一つに定まった。
九足八面鬼――こいつの仕業である。
『名語記』や『神道集』、『御伽草子』などにも名がある。人の命を奪う鬼の名前である。名は体を表すとよく言ったもので、九本の足に八つの顔を持つ、醜悪な姿の鬼――。
いや現在では、虫の一種だと言われている。
こいつが、「ぶえっくしょい」の瞬間、その呼気に乗じて人の臓腑の中に入り込み、生命活動を停止させてしまうのだ。この恐るべき細菌虫は、顕微鏡を使ってでさえ確認することができないのに、それが酸素と同じくらいの量、大気中に無数に漂っている。何も知らない我々は、ごくごく当たり前に酸素と一緒にこの虫を吸い込んでは吐き出しているのだ。
通常の呼吸では、この虫が人体に害をすることはない。しかし、「ぶぇっくしょい」によって、喉や鼻が一瞬、大きく開く瞬間があり、それは九足八面鬼にとっては千載一遇のチャンスだ。体内に入り込まれたら、何をどうやっても助からない。瞬く間に命を取られてしまう。
この恐ろしい真実によって、様々な常識が塗り替えられた。まず、人間の死の直接の原因が、これ以外に存在しないことが明らかとなった。人は誰でも死ぬ瞬間、最後の吐息を残す。実はこれも、「ぶえっくしょい」と同じだ。死ぬ間際というのは体が弱っているから、勢いよくできないだけで、最後の一呼吸によって、九足八面鬼は体内に潜り込むのだという。その一呼吸をさせる遠因は事故や病気など色々あろうが、人が死に至る直接の原因はすべて、この吐息に乗じた細菌虫が下手人だということが分かったのだった。
じゃあ、何で僕らは今まで助かっていたのか。世の中に、「ぶえっくしょい」しない人間なんていない。でも僕らは細菌虫に命を取られずに、今まで生きてきた。
「くしゃみ」という、呪文のおかげである。
九足八面鬼は恐ろしい殺傷力を持っている一方、すごく臆病で、自分の名前を呼ばれるだけで縮こまって死んでしまうくらいなのだ。そしてこの虫は、すごく耳が良く、自分にどんな名前がついているかを把握するだけの頭の良さもある。
つまり「ぶえっつくしょい」とやってしまっても、誰かが横で、「くしゃみ」と唱えてくれればそれだけで助かるのだ。「くしゃみ」は、「九足八面鬼」を短くした言い方で、名を呼ばれたと勘違いした細菌虫がびっくりして死んでしまう。これで殺せるのは、実際に体内に入った虫だけである。僕らが死ななかったのは、たとえ「ぶえっくしょい」とやっても、常に誰かが「くしゃみ」と唱え続けてくれていたお陰なのである。
その誰か――今ではそれが、機械であったことが判明している。
政府の重要施設の地下から日本列島各地に伸びる、無数のパイプライン。それは、二十四時間一度も休むことなく稼働し、「くしゃみ」と発音し続ける巨大な発声機械とスピーカーにつながっている。この機械が発した「くしゃみ」は、地下を走る中で幾重にも共鳴して人には聞きとることができない音波と化し、地上に噴出する。人には聞き取れなくても、鋭敏な細菌虫はそれをはっきりと聞き取り、その結果、死に至るということなのだ。
毎日、日本のどこかで必ずやっていた道路工事――何のためにやっているか分からないあの工事が実はこのパイプラインの整備に他ならなかったということまで判明した。
世界の国すべてに、「くしゃみ」に相当する行為に名付けられた言葉があった。そしてその言葉を絶え間なく発生し続ける機械と、それを国の隅々にまで伝えるパイプラインが秘密裏に存在していたのである。
それが何故、露見してしまったのか。
発声機械が、ぶっ壊れたからである。
「くしゃみ」と言わなくなってしまったのだ。
その瞬間、日本だけでも五百人以上が一瞬で死んだ。
政府は大慌てで、日本中のテレビをジャックし(方法は不明)、もしもの時のために録音していた、「くしゃみ」音源を絶え間なく流した。それによって、大都市での大量死は防げた。
だが、今度はテレビの傍におらずに畑仕事などをしている田舎の人々の突然死が相次いだ。復旧には三日かかった。たった三日間、この機械が停止しただけで、日本だけでも千人近く犠牲者が出た。
これが、世界同時多発的に起こったのである。
こうなると、政府も真実を発表せざるを得なくなった。世界の首脳が同一時間帯に、国民に知らせた。結果は――誰もが予想した通り、パニックになった。
機械が止まった理由はわからない。老朽を原因とする見解もあれば、テロの可能性を示唆する説もあった。一つの国の機械が故障して、突然の大量死が起こることが、これまでに何度もあったのだ。が、多くの場合、それは病気のせいとされた。それはそれで間違いではなかった。病気は遠因の一つだったから。しかし今回、直接の原因である「くしゃみ」を公表せざるを得なくなったのは、この「遠因」に責任転嫁できなかったからである。当然大量死の理由を、誰も説明することができなかったのだ。新種のウイルスも病原体も、毒薬も化学兵器も発見されなかった。にも拘わらず、世界中で死者が出て空前絶後の恐慌となった。騒ぎを鎮めるために、ついに世界は隠匿されていた真実を公表するに至った。
その結果は――時の為政者全員が悪夢に見ていたであろう、さらなる混沌の襲来であった。
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