シアーハートアタック

七水とひろ

シアーハートアタック

「十七歳のお誕生日、おめでとう、アヤメ

 いつもの目覚ましよりも早く目が覚めたのは、きっと心のどこかで今日のことを心待ちにしていたからなのか。そんなわたしの心を見透かしたかのように、目覚ましを止めてきっかり五秒後にママがわたしの部屋にやってきた。

「ありがとう、ママ」

 わたしの大切なママにハグをした。優しい匂いが身体中を包んだ。

 こうするのも今日が最後だ。十八歳になればここを出ていくのだから。

「プレゼントは帰ってきてからね」

「うん。楽しみにしてる」

 誕生日だからって学校は休みにならない。最後のプレゼントも、きっとわたしの頭の中が見えているみたいに用意してくれているのだろう。

 ママが部屋を出ていって、閉まった扉をぼんやりと眺める。

 ハロー、セブンティーン。

 わたしは小さく呟いた。十七歳、どこか特別な響きだ。あと一年で成人だからかもしれない。ここで過ごす最後の誕生日だからかもしれない。

 みんなが次々と十七歳になっていくのがどことなく羨ましかった。先に大人になっていくような気がしていた。わたしは早生まれだからだ。

 けれどなってしまえばこんなものか、とも思えた。当たり前だ、今日は昨日の続きで、わたしは何も変わっていないのだから。

 少しも変わらない制服に身を包む。変わって見えるかな、と期待して鏡の前に立ってみたけれど、当たり前のように昨日と同じ、普通の女子学生がそこには映っていた。

 ハロー、セブンティーン。

 わたしはもう一度、今度は少し大きな声でそう言った。



 朝ごはんを食べにいくと、わたしのきょうだいたちが口々にお誕生日おめでとう、と言ってくれた。ありがとう、と答えるのをママが微笑みながら見ているのを感じた。

 それでも今日は学校だ。いつも通り、いってきます、と声をかけて家を出る。ママのいってらっしゃいも、いつもと同じ響きだった。

 教室には夏休み前特有の、どこか弛緩した空気が漂っていた。みんな授業なんて上の空の、ぼんやりとした心の中が雲みたいに浮かんでいるのが見える気がした。

 自分の席に着くやいなや、三人の女の子が駆け寄ってきた。サクラとユリとモモ、わたしの特に仲良しな三人だ。

「誕生日、おめでとう!」

 せーの、と小さく息を合わせたあと、彼女たちが声を揃えてそう言った。

「これプレゼント!」

「わあ、ありがとう」

 それは袋いっぱいのお菓子だった。メッセージや飾りが沢山つけられていて、どれが本体か分からないくらいだった。わたしの好きな青色のリボンが、主役とばかりに真ん中で羽を広げていた。

 こうしてお菓子をやり取りするのが四人でのお約束だった。これなら学校でも渡せるから。

「昨日大急ぎで作ったんだ」

「そうなの、ありがとう」

 三人が慌てて飾り付ける姿を想像した。きっと誰かがママに頼み込んで、超特急便を使わせてもらってリボンやお菓子を手に入れたのだろう。それが目に浮かぶようで、わたしは小さく笑った。

 ちょうどベルが鳴って、みんなが席に戻っていく中お菓子を鞄に仕舞った。

「誕生日なの?」

 上手く入らないか試行錯誤していると、頭上から涼しげな声が降ってきた。誰だろう、と思って顔を上げると、隣の席の子だった。綺麗な青い瞳と目が合った。

「そうなの」

「おめでとう」

「ありがと」

 交わした言葉はそれだけだった。急に話しかけられてびっくりしたのもあるけれど、そもそもわたしは彼女とほとんど話したことがない。どんな声だったのかも、今やっと思い出したくらいだった。

 それはたぶん、クラスのほとんどが同じだろう。

 

 

 彼女の名前はアカリだった。確か一年くらい前に転校してきた。転校生なんて経験せずに卒業するひとの方が圧倒的に多いから、わたしたちは浮き足立っていた。どんな子だろう、と囁きあって、その声が教室中を覆っていた。

 現れたアカリは、ひとことで言えば美少女、だった。彼女を見た瞬間、どうしてか心臓がどくん、と一拍強く脈を打つのを感じた。

 ここにいるわたしたちの顔に大きな違いがあるわけではない。だから彼女の顔がひときわ目立ったのかもしれない。教室にいた全員が可愛い、と思ったに違いないとはっきりわかる輝きがそこにはあった。わたしの短い人生経験では説明できない雰囲気だった。

 あれだけ浮かれていたにも関わらず、わたしたちは彼女にほとんど話しかけることができなかった。初めは美しさに圧倒されていたのがその理由だった。

 しかし段々と、彼女に関する噂が広まっていった。

 どうやら転校してきたのは他の地区かららしい。しかも母親とふたりだけで引っ越してきたというのだ。その地区ではもうわたしたちの所ではなくなってしまった、家族という小さな集団で暮らす文化が残っている所だった。だからアカリには父親という存在もいたのだと思う。けれどどうして母親とふたりだけでやってきたのだろう。

 個人的なことを詮索しすぎるのは良くない。それは小さい頃からわたしたちが教え込まれてきた礼儀だった。だから本人に直接聞く人はいなかった。しかし、だからこそ様々な憶測が流れていった。

 父親が犯罪者だから逃げてきたのだとか、アカリがいた地区は実は経済か何かが悪くなっているのだとか、単に家族なんていう窮屈な文化が嫌になったのだとか。

 わたしたちにとって彼女は異端者だった。美しい異端者。その平均から外れた部分が、彼女を美しく見せているのかもしれなかった。

 そうやって、表面上はアカリと仲良くするけれど、親しい友達はいなかった。アカリは何も気にしていないように見えた。彼女の表情はあまり変わらなかった。

 

 

 家に帰るとママはご馳走を用意してくれていた。わたしの好物ばかりが並んだ食卓。いつもは栄養バランスを完璧に計算しているママも、今日ばかりはそれをやめる。それは他のきょうだいの誕生日も同じだった。

 楽しい食事の最中にも、朝の出来事が思い浮かぶ。それはプレゼントを貰ったいつもの仲良しメンバーではなく、アカリのことだった。

「みんなからは何を貰ったの?」

 バースデーケーキも食べ終わって、後は片付けという時にママが声をかけた。ママはいつもはきょうだいと平等に接しているけれど、今日は特別わたしによく話しかけてくれた。

「あ、これだよ」

 去年とおんなじお菓子の山を見せる。彼女たちと仲良くなってからの恒例行事だったから、ママも予想していたみたいだった。

「あら、素敵。このリボンも。ねえ」

「うん。急いで作ったんだって! みんな忘れっぽいんだから」

 くすくすとふたりで笑って、それからママは改めてお誕生日おめでとう、と言って頭を撫でてくれた。

「来年からは寂しくなるね。アヤメはいつだってママの大事な子どもよ。プレゼント、お部屋に置いてあるからね」

「うん、ありがと」

 照れ臭くなって、わたしは短い返事をした後部屋に引っ込んだ。

 自分の机には小さな箱が置いてあった。もちろんママからのプレゼントだ。中身はもう分かっている。やっぱり箱を包むリボンは青色だった。

 そうっと箱を開ける。銀色に輝く指輪が現れた。あまり派手な装飾はないけれど、小さなサファイアの宝石がきらりと光っていて素敵だった。他にどんな綺麗な指輪が並んでいたって、わたしは絶対にこれがいいと言うだろう。それくらい好みの指輪だった。

 十七歳、成人前の最後の誕生日にはママから指輪をもらうのが決まりだった。ここではどの家でもそうだ。それを左の薬指に嵌めて、特別な理由がない限り外さないのだ。

 直接渡されたり、特に派手なパーティで授与式なんてものをやる同級生もいた。でもわたしはそんなの恥ずかしくってやってられない。ママはもちろんそんなのお見通しだ。だからひとりの部屋で開けられるようにしてくれたのだ。

 薬指に嵌めるとひんやりした感触が伝わった。サイズもぴったりだった。何かに縛られるような、少し窮屈な感じがした。けれどそれだけだった。

 ベッドに寝転んで、その指輪をしみじみと眺める。サファイアが光を反射する。その瞬間、アカリの目の色が思い浮かんだ。宝石みたいにキラキラ光る目だ。

 そいえば、あの子は指輪をしていたっけ。ちゃんと見たことがないや。まだ誕生日が来ていないのだろうか。それともアカリのお家にはこんな風習はないのだろうか。だったら可哀想だな、と思った。

 

 次の日もいつもと何も変わり映えのしない一日だった。刻一刻と夏休みへのカウントダウンをする、強いて言えばそれだけの違いだ。そうなるかと思えた。実際、行動について言えばほとんど同じだった。しかし昨日アカリと交わした一言のせいで、何かが決定的に違って見えた。

 ちらりと隣を盗み見る。ちょうどアカリの席はわたしの左隣だったから、左手をはっきり見るのは難しかった。軽やかにディスプレイを動かす右手と、無造作に投げ出された左腕さえ美しく感じられた。

 アカリはディスプレイに触れる手を止めた。授業に飽きたようにも見えた。その拍子に左手だけが机の上に残された。なんの飾りもない、まっさらな手だった。それがどうしてか羨ましく思えた。

 自分の左手を見下ろした。控えめに輝く銀と青。もう一度顔を上げる。そこには同じ青があった。アカリがこちらを見ていた。

 授業中だったせいか、アカリは何も言わなかった。ほんの少しだけ笑っているように見えた。それとも怪訝な表情だろうか。彼女の表情は違う角度から見たら違う色に見える、不思議な宝石のようだった。

 

 あと数日で夏休みだった。今日は午前だけで授業も終わりだった。弛んだ空気に夏の暑さが加わって、誰もがふわふわと宙に浮いているみたいだった。ただひとり、アカリを除いては。

 彼女はいつも通りだった。淡々と授業を受け、それが終われば帰ってしまう。家では何をしているのだろう。一緒に帰る友達はいなかったと思う。帰れば遊び相手でもいるのだろうか、ママとお喋りしたりするのだろうか。

 そんなことを考えているわたしも、傍から見ればみんなと同じく夏休みを前にした浮かれた人間だろう。みんなと同じであることに、どこか劣等感を覚えた。

 そのせいだろうか、いつもなら半日で授業が終わる日は三人と遊びに出かけるのに、その誘いを断って散歩に出たのは。

 学校はとてつもなく広い。昔はそうではなかったのだといつだったか歴史の授業で習った。教室やグラウンドや図書館や体育館や、そんなものしか無かったらしい。タブレットで眺めた模型を思い出す。なんて狭いのだろう、昔の人たちは可哀想だと思った。手のひらに乗ってしまうそれのせいで、本物より小さく感じただけかもしれないけれど。

 今の学校には小さな公園だけでいくつもある。森を模したもの、川と湖、湿地帯、ほんのりと磯の香りの漂う海辺。興味を持てばそこで観察も採集も自由に行うことを許されていた。

 それに広々とした遊具場もあった。ふわふわと漂う柔らかな球は誰もが好きで取り合いになった。それなのにちゃんとした名前は誰も知らなくて、みんなふわふわと呼んでいた。今もふわふわの正式な名前を知らない。

 わたしはそんな広い学校の中で、あまり人のこない端っこが好きだった。

 どこの公園にも人はそれなりにいるけれど、端っこ、となれば誰もいない。森の公園が一番のお気に入りだった。夏にも涼しげな風が吹いて、木陰が柔らかな光を運んでいた。どうして誰も来ないのか不思議に思っていたけれど、このお気に入りの場所を誰にも取られないのは良いことだった。

 久しぶりにそこへ足を踏み入れた。三人と仲良くなってからいつも一緒にいたから、もう数年ぶりだろう。やはり昔と変わらず誰もいなかった。そう思った瞬間、小さな歌声が聞こえてきた。柔らかく、伸びやかな高温のハミングだった。

 数年来ない間に、他の誰かに見つかってしまったらしい。声の主を探すか、このまま立ち去っているか迷っていると、その決断を下す前に人影に気づいてしまった。

 そこに立っていたのはアカリだった。

 ちょうど木漏れ日が彼女を照らすように差していて、どこか遠くを見つめながら歌う彼女は、いつか見た絵画のようだった。

「綺麗だね」

 思わず声が溢れた。その瞬間に彼女は歌うのをやめてしまった。

「ありがとう。好きな歌なんだ」

 歌もだけれど、その見た目が綺麗だったんだ、とは言えずににわたしは黙って頷いた。

 アカリと話すことなんて何もない。彼女のことをほとんど知らないのだから。隣の席だったのに、声も思い出せなかったほど。こんなに綺麗な歌声をしていたなんて知らなかった。

「あの、この前はありがとう。誕生日の」

 それでもアカリと話したかった。この偶然を逃したくなかった。誰もいない場所でなら勇気が出た。

「ああ。それくらい、いいのに」

 本当に、別になんとも思っていないような口振りだった。どうしよう、このままじゃアカリは帰ってしまうと思った。

「あのさ、アカリの誕生日はいつなの?」

 それを口にしてから、そもそも呼び捨てにしてよかったのか知らないことに気づいた。ここでは誰もが名前を呼び捨てにして親愛の意を示すけれど、彼女の故郷ではどうだったのか分からない。

「もう終わったよ。五月だから」

 つい先月だった。やはりもう誕生日は過ぎていたのだ。それなのにアカリは指輪をしていなかった。

「そうなんだ。えっと、おめでとう」

「ありがとう」

 アカリはほんの少し微笑んだ。わたしの発言が可笑しかったのかもしれない。彼女の表情が変わるのを初めて見た。

 これ以上話すことが見つからない。脳内で共通の話題を必死で検索しているうちに、アカリはいつもの表情に戻ってしまった。

「それじゃあ」

 そうして、何もなかったかのようにその場を去ってしまった。振り向く直前の、木漏れ日を反射した青い瞳が綺麗だった。

 

 夏休みのわたしの予定はあっという間に決まってしまった。あの森の公園へ毎日通うことだった。アカリがいるかを確かめるために。

 夏休み初日、彼女はやはりそこで歌っていた。わたしは声をかけずに、少し遠くに座ってその歌声に耳を傾けていた。蝉の鳴き声が響いているのに、それさえも静かな伴奏にしてしまうような、そんな歌声だった。

 アカリと一瞬だけ目があった。しかしわたしが何も話さないと思ったのか、そのまま歌うのをやめなかった。

 しばらくして、アカリは別の曲を歌い始めた。それも高音が綺麗に響く曲だった。こんな声を出すのは難しいだろう。もしかしたらどこかで習ったのかもしれない。

 何曲か歌うと、アカリは再びこちらを見た後、同じように帰って行ってしまった。

 それからというもの、わたしは毎日同じ時間に公園に向かった。つまりは朝の早い時間。

 次の日にはアカリはいなかった。なんとなく、この時間に来なければ今日は来ないのだろうと思った。それでそのまま帰ってしまった。

 その次の日にはまた同じ歌声が聞こえてきた。少し目が合う時間が増えた気がした。でもそれだけだった。お互い何も喋らずに帰って行った。

 きっと一日おきにやってくるのだろう、と思った。しかsその予想は数日で崩れてしまった。

 アカリが現れる日を予測しようと、カレンダーに印を付ける。まるで小さい頃の宿題の観察日記みたいだ。素数の日にはやってくる。違う、九日にも来た。じゃあ何かの等差数列。それも違う。どうにも、アカリは気まぐれにあそこにやってくるとしか思えなかった。

 欠かさず公園に向かって、アカリがいなければそのまま帰る。そんな日を続けていた。午後には三人で遊んだり、家でだらだらと過ごしたり、当たり前のような夏休みを満喫していた。

 

 その日はアカリが来ない日だった。法則は未だ見つからないままだ。

「あら、モモたちと遊ぶんじゃないの?」

 早く帰ってきたわたしを見てママはそう言った。

「違うよ、それは明日」

 モモは朝が苦手だ。だからいつも三人で遊ぶのは午後からだった。今のわたしにはそれが都合よかった。

「それじゃあ買い物にでも行きましょうよ」

 他のきょうだいたちはどこかへ出かけているみたいだった。ママと二人きりで出かけるなんていつぶりだろう。わたしはすぐに頷いた。

 大きな街の方へは大人としか行けない。通行証が必要だからだ。普段はそれで事足りる。子どもだけで行ける場所でも、まだ行っていない場所があるほどだから。

 久しぶりの街は賑やかだった。夏休みだからだろう。子どもたちもたくさんいた。

 特に決まった買い物があるわけでもなかったから、二人でウィンドウショッピングを楽しんでいた。立ち止まるのは決まって同じ場所だ。あのワンピース可愛いね、買ってあげようか、でも派手かも、そんなやりとりをしながら歩く。

「あれ?」

 今度はわたしだけが立ち止まった。アカリがいたからだ。隣にいるのはアカリのママだろうか。アカリにそっくりで、綺麗な顔をしていた。

「あ、偶然だね。アカリも買い物?」

 少ししてアカリもこちらに気がついたようだった。ここで何も言わないのも失礼だと思ってそう声をかけた。

「うん、そんな感じ」

 アカリはどこかよそよそしかった。特段彼女と親しいわけでもないけれど、あの公園で一緒にいる時とは全く違った雰囲気だった。

「それじゃあ」

 ママとも一緒にいるし、ここで立ち話なんか始めるはずもない。軽く手を振ってその場を離れた。

「今の子と友達なの?」

 ママの声色はどこか怒っているようにも、焦っているようにも思えた。

「その、ほら、転校してきた子じゃない?」

 そんなママの声を聞くことは滅多にないことだった。ママは穏やかで、怒ったり狼狽えたりだなんて、そんなこととは無縁の人だからだ。

「たまに話すだけ」

 嘘は言っていない。本当に、話したのは少しだけだ。夏休みにしょっちゅう会っていることは黙っていた。

「そう、それならいいけど」

 そう言ってママはすぐにいつものママに戻った。しかしわたしはいつまでもママの反応が気掛かりだった。それにアカリと会っているのを黙っていたことも。心に現れては消えるのは、罪悪感と、少しの解放感だった。

 

 その次にアカリが公園に来た時、いつもと違うことが起こった。わたしと目が会った途端、歌うのをやめてわたしの隣に腰を下ろしたのだ。

「アヤメは、ママと仲が良いの?」

 変な質問だと思った。ママと仲が悪い子どもなんているわけがない。わたしたちは遺伝子や心理学や神経科学や、そのほかたくさんのもので証明された絆を持っているのだから。同時に、呼び捨てにしてよかったんだ、とも思った。いろんな思考が一瞬で入り乱れて、少し返事が遅れた。

「うん、もちろん。ママってそういうものでしょ? アカリはそうじゃないの?」

「仲が悪いわけじゃないけど。嫌なところも気が合わないところもあるよ」

「それって、ううん、なんでもない」

 それって変じゃない、と言おうとしてすぐにやめた。アカリの住んでいたところではそんなこともあるのかもしれない、と思ったからだ。

「そうね」

 けれどアカリはわたしが言いたかったことを見透かしたように笑った。可笑しそうにした、あの時と同じ表情だった。

「でも、友達は遺伝子や心理テストで選ぶわけじゃないし、嫌なところだってあるでしょう? それと同じだよ」

「じゃあ、アカリにとってママは友達?」

「ママはママだよ」

 数学の問題みたいだった。問題文は短くて、簡単そうに見えるのに、解こうとすると難しい。考えれば考えるほど糸が絡まっていく。

「じゃあ、またね」

 そんなわたしを見て、彼女は立ち上がった。またね、という言葉が、その問題のヒントみたいに思えた。

 その日は自分のベッドで一日中、ママと友達のことについて考えていた。ママに嫌いなところなんてない。相性も抜群、阿吽の呼吸ってやつだ。嫌なことなんてされたことはない。

 友達はどうだろう。サクラの慌てん坊なところにちょっとうんざりもする。でも悪くはない。ユリの忘れっぽいところにはいつも呆れる。でも慣れてもいる。モモの遅刻癖も、今やそれ込みで計画を立てるようになったくらいだ。

 確かにママと友達は違う。でもアカリが言うそれとは違う気がする。何が違うのかは分からない。

 

 その日から、カレンダーに書いたアカリが来た日を示すマークは格段に増えていった。

「ここって、いろんな決まりがあるんだね」

 アカリは意外とお喋りだった。話しかけてくるのは決まって彼女からだった。そして話すことはいつも、難しくて面白い話だった。

「そうかな?」

「だって、他人への礼儀とか、そんなことも細かく決まっているでしょ」

 ああ、とわたしは頷いた。呼び捨てにするかどうか、どこまで個人的な話を聞いていいか、他にもいくつも社交的な決まり事はある。けれど今までそれを意識することなんてなかった。物心つく前から、効果的にその決まりを覚えられるようにママが教えてくれるから。教え方は家によって色々だけれど、その子が自然に覚えられるよう、数えきれないくらいの教え方があるらしい。だからその決まりを守れない子なんていない。

「アカリは教えられなかったの?」

「と言うより、誰もそんなことわざわざ決まりにしないよ」

 どうしてだろう、とわたしは思った。そんなの不便じゃないか。

「だからあたし、あまり喋らないようにしてるの。まだルールが分からないから」

 アカリはどこか寂しげだった。それでやっと、別の土地へ移動することの大変さに思い至った。

 他の人を思いやりましょう、という人付き合いの一番大切な決まりはもう忘れることなんてないと思っていたのに、アカリに対しては何も考えていなかった。ただその美しさに見惚れていた。

 同時に、ママのあの怒ったような声を思い出した。あれこそ失礼、ってやつなのじゃないか。あの時の罪悪感と解放感の理由が分かったような気がした。

「わたしにはさ、好きに話してよ。わたしも決まりのこと忘れる」

 だってここには二人きりだから。誰も見ていないから。薬指の指輪が少し重くなったように感じられた。それは秘密の重さだった。

「うん。ありがとう」

 

 夏休みも終わりに近づいた頃、とうとうアカリが来る日はカレンダーの日付をほとんど埋めてしまっていた。

「あの歌はママに教えてもらったの。ママは歌手だったから」

「歌手?」

「そう。ステージに立って、たくさんの人の前で歌ってたんだって」

「アカリも歌手になるの?」

「なれるかな。分かんないや」

 約束した通り、わたしはこの公園にいる間だけ、決まりのことをすっかり忘れることができた。もしよそでされたら怒ってしまうようだろうことも、全く気にならなかった。ごく自然に、アカリの言葉は耳に入ってきた。

「アカリの父親はどうしてるの?」

「パパのこと? パパはママと喧嘩したの。だから二人でここに来たんだ」

 父親のことはパパって言うんだっけ。古文の授業でやったのを思い出した。

「家族なのに、喧嘩をするの?

「まあ、そりゃあするよ。友達とするみたいに。そして絶交しちゃったの」

 アカリにとって、家族って友達みたいなものなんだ。今はそう理解するしかないみたいだった。きっとアカリもよく分かっていないのだろう。二人して不合格の答案しか書けない。

 どうしたら答えに近づけるのだろう。家族ってなに、ママと友達の違いってなに、きょうだいと友達の違いってなに?

 寝ても覚めてもそんなことばかり考えていた。もうすぐ夏休みも終わる。蝉の鳴き声もいつしか聞こえなくなってきて、アカリの歌声は自然の伴奏を失っても美しかった。

「なんかさ、ちょっと窮屈な感じ」

「昔の学校みたいに?」

「昔の? ああ、そうかも。あたしがいた学校は、ちょっと違う窮屈さだったけど」

 窮屈だ、という言葉は少し正解に近づいたのかもしれない。ママとはずっと縁が切れない。友達とは、もしかしたら縁が切れるかもしれない。

「少し分かるかも」

 沈黙があたりを包む。涼しい風が吹き抜けて、木の葉を揺らしていった。夏の終わりはもうすぐそこだった。

「夏休み、終わっちゃうね」

「そうだね」

 アカリの返事はどこか寂しそうだった。

 ほんの少し正解に近づいたわたしは、昔のことを考えていた。サクラやユリやモモに出会う前のこと。

 一人が好きだったわたしは、公園を渡り歩いては端っこを探し回っていた。そこで本を読んだり、花冠を作ったり、ぼうっとして過ごすのが好きだった。ママはそんなわたしを好きにさせてくれた。

 どこかへ行きたい、そんな気分だったんだと思う。だからわたしは歩いていた。次から次へと、人のいないところへ。

 ふと、森の公園のもっと奥の場所のことを思い出した。確か迷い込んでしまったのだ。大きな木の裏に、どこかへ繋がる通路のようなものが見えた気がした。カーテンか何かに覆い隠されているようだった。怖くなったわたしはすぐにそこから離れて、いつもの場所に戻った。

 そこに行けば、窮屈でなくなるかもしれない。答えが見つかるかもしれない。

 ぎゅ、と握りしめた左手の、サファイアがきらりと光った。

 

 夏休み最終日だった。やはりアカリは公園のいつもの場所にいた。

「ねえ、行きたいところがあるんだけど、一緒に行かない?」

「どこ?」

「たぶん、窮屈じゃないところ」

「自由な場所、ってこと?」

 自由。そう、自由かもしれない。もっと正解に近づいた。やっぱり、あそこには正解が待っている。わたしたちを悩ませる難問の答えが。わたしはアカリの問いに頷いた。

「行きたい」

 アカリははっきりとした口調で答えた。

 記憶の中を辿って、公園のさらに奥へ向かう。ずっと忘れていたはずなのに、迷うことなんてなかった。

「それ、綺麗だね」

 アカリが唐突に呟いた。わたしがしている指輪のことだった。

「ママからもらったの。決まりだから」

「それも決まりなんだね」

 何でも決まり。可笑しくなって二人で笑い合った。そして、アカリの指輪をしていない右手と、わたしの指輪をしている左手を繋いだ。ひんやりとした指輪が、アカリの体温で温められていった。

「ちょっと窮屈な決まりだよ」

 わたしの指にぴったりの指輪。それが今はどうしてか窮屈に思えた。これから自由を見に行くからかもしれない。

 記憶の通り、大きな木があった。覚えていなかったけれど、何かが巻き付けられている。そしてその裏に、どこかへ続く通路がある。

「ここ?」

「うん」

 二人の間に言葉はそれほど要らなかった。この先に進むことは決まっていた。

 わたしがアカリの手を引いて、カーテンのような薄い膜をそっと捲る。

「こっち」

 わたしは一歩通路に踏み出して、そのまま振り返った。

 アカリがこちらに向かってくるのが見えた。わたしにしか見せない、太陽みたいな笑顔だった。

 綺麗だ、と思った瞬間、心臓がどくんと音を立てて跳ねた。それが最後の一音だった。

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