第1話 閑古鳥


 後悔しないように死ぬ。


 それが『後悔しないように生きる』のワンステップ上の生き方だった。

 死後の事にまで気が回るようになったら『人生』はゴール目前かもしれない。

 ウィニングランにむけてのラストスパートは絶好の頑張り所と言える。



 もちろん『死後の世界』なんてものを本気で信じてる奴は少ない。

 或いは、こんな事を考える事自体に馬鹿馬鹿しいと思ってる奴も多いかもしれない。だけど否定することだってできないだろう。

 子供じみた思考回路だが、それだけは確かだ。


 ふと、こんな理論を思い出す。

 いや思い出せたとは言い難いか


 とにかくそれは、極めて少ない確率で極めて大きな利益が得られるような場合、云々。って話だった。



 要するに『天国なんて無い』と断言できないのならば、それを目指さない事に後悔を覚えないでいられるんだろうか。


 サー・ブレーズ・パスカルもこう言った。

 神は信じるべきだと。

 得るときは得をして、失うときはなにも失わない。それがより良い賭けであると。


 そんな知的生命の悩みのタネの一つには、不死身でもない限り折り合いを付けなければいけない。


 それが、人類によって脈々と受け継がれてきた『道徳』という社会維持システムであり、ヒトのサガだった。



S1C1



 店内は落ち着いた照明と広い窓からの日射によって薄暗く照らされている。

 机上には三つのグラスが置いてあって、三者三色の液体が注がれていた。俺は目の前のグラスからメロンソーダを口に運んだ。

 隣の咲は、水が入ったグラスに手をつける事なく対面の相手を見据えている。


「そんな警戒すんなってば。ただの気まぐれだって」

「別にしてないけれど」

 咲が答えた。向かいの少女は二つ結びにした頭の後ろで腕を組んでいる。

 この店のバイト──こと、伏見稲荷 京。ヤンキーのような風態の彼女は制服のまま堂々と俺たちの対面に腰を下ろしている。

 咲が京に視線を巡らせて続けた。

「馴れ馴れしく机を囲むようになった貴方に呆れているだけよ」


「ていうか、初対面の時とかビビってたよね。かなり」

 あれは一ヶ月くらい前だったなぁ。

 京が肘をついてストローを咥えると、グラスのコーラが少し減らされた。

「あれから毎日来てんじゃんか。その度に会話してんだから慣れるっつーの」

「貴方が一方的に絡んできていただけでしょう」


 咲の冷たい声に、京は欠片も動揺していない。それはそれでどうだって感じだが。

「まーまー。ジュース奢ってんだからカッカしねーでくれよ」

「私は水だけれど」

「だから好きなの頼めって言ってんじゃん。ティラミスとかどーよ」

「気味が悪いから遠慮するわ」

 清々しい返答。京とは目も合わせずに店内を眺めている。


「ひでぇー。白は素直に奢られてんのにさ」

 こっちを見てきたので、ありがとうの意を込めて軽く頷き返した。

 しかし不思議な事に、俺は彼女に奢られた事に罪悪感を欠片も感じていない。本能的に宿敵って事が分かってるのかもしれない。

 なんでも、彼女は元ヴァンパイアハンターらしいから。


 咲が冷ややかに京を見据えた。

「もし、それを恩に着せたら刎ねるから」

「何を!?」

 狼狽える京の左腕に視線が送られる。京は庇うように摩った。

「利き腕」

「わ、分かったって。勘弁してくれ」

「分かった?あぁ、そうするつもりだったという事」

 マジか、小賢しいな。俺が恩とか感じない人でなしで助かったぜ。


「いーじゃん別に!人間社会じゃ当たり前に横行してる」

 いじけたみたいに頬杖をついた。唇を尖らせて結んだ髪を弄ってる。

 咲は水に口をつけてから適当な返事を返す。マトモに会話する気がない愉快犯的な表情をしている。俺には分かった。

「吸血鬼社会では死刑が適用されるわ」

「嘘つけ!てめーらは社会なんて形成出来ねぇだろうが傾奇者っ」

「そうね、だから私が法よ。貴方は死刑」

「白ー。弁護弁護」


 京も大概適当な返事をしてる。絡んでくるたびに咲がこんな対応をしているから慣れたらしい。

 弁護はしないが気になる事はあった。俺は空になったグラスを机に置いた。

「ていうかさ、協力する気はないけど要件があるなら言ってみてよ」

「そうね。煩わしいからハッキリ言ってちょうだい、協力はしないけれど」

「この冷血ぅ。これだよこれ」

 そう言うと拗ねた顔で店の制服から長方形の紙を取り出した、何かのチケットっぽい。


 咲が片眉を上げて頬に手をついた。

「つまり?」

「温泉旅館の割引チケットを当てたんだよ。で、調べたら2人以上だったらさらに割り引かれるって」

 なるほど。つまり、安く旅行に行きたいから付いてきて欲しいってことか。

 咲が淡白に口を開いた。

「私たちの旅費は?」

「それは・・・・・・えへへ、自腹?」

「そもそも私達に頼む事?友達に頼めば良いじゃん」

 もちろん人の事は言えない。転校して少し経つが、咲以外の友達なんて出来ていない。

 京が目を泳がせて机にもたれた。


「・・・地元には居る」

「此処には居ないのね」

「うっさいな。どーせ来てくれねーんだろ。いいよ別に!一人で行ってきますからァ」

 不貞腐れてストローに口をつけた。

 もう空になったグラスから行儀の悪い音が聞こえてくる。

 咲は冷ややかな視線を向けた。

「えぇ。楽しんでくるといいわ」

「思ってもねーコト言いやがって」


 そーだ。

「お土産も買ってこなくていいよ」

「てめぇら・・・。気を遣ってるフリしてアタシを傷つけようとしてるだろ」

「なら買ってきてもいいわ。貰ってあげる」

 京の眉間には皺が寄っている。口角も下がっていて半目を俺たちに向けた。

「いつか泣かす」


「泣かされたら殺すわ」

「・・・じゃあ笑かす」

「笑かされたら殺すわ」

「えぇ!?暴虐の化身かよ」

 咲が薄く笑った。

「安心しなさい、貴方に笑いかける事なんてないから」


「なんか性格悪くなってねーか?」

 声を潜めて顔を近づけてきた。けど、まぁ、多分咲には聞こえてる。

 だから普通に言葉を返した。

「そう?これも良さだよ」

「白はこーいう扱いされねーからそんな事言えんだよ」

 肘をついて不貞腐れたようにストローを咥えて言う。咲が背筋を伸ばしたまま顔を僅かにコチラに傾けた。


「貴方も、こういう態度が嬉しいのかしら」

 愉しそうな表情で目を細めた。

「いえ、今のままがいいです・・・」

「じゃあそうするわ」

 京が最前列の優等生みたいに真っ直ぐ挙手する。

「アタシは白みたいに扱ってほしーでーす」

「お断りよ」


「なんでだよ」

 手を挙げたまま口を尖らせた。

 すると咲は、さながら教師の如く人差し指を差し向けた。


「伏見稲荷さん。身の程を知りましょうか」

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