第3話 

 今日の昼は暑かった。

 四限が体育だったから、その余熱が体に残っており普通より息苦しい。呼吸をするだけでも、じとりと汗がにじみ出そうだったことを覚えている。

 最も陽が高くなる正午は、一日の仲で一番気温も高いと思っていたが、どうやらそうではないという話を聞いたことがある。日射で照らされた地表が空気を温め、それが大気中に広がる昼過ぎが、最も気温が高くなる時間帯だそうだ。黒板のある壁に掛った時計を見ると、時刻は昼休みである十二時の半ばを少し過ぎている頃だった。

 現在進行形で気温が上昇中だと考えると背筋がゾッとするし、そのお陰で一瞬だけ涼しくもなる。


 致道学園の基となった亀岡高校と鶴川高校にとって今年は、どちらも創立百周年を迎えるはずの記念の年だった。伝統があると言えば聞こえはいいが、つまり校舎はおんぼろで時代の流れを否でも感じさせるわけだ。

 歴史とか誇りとか、そんなのは地方創生を謳う立場の人間にくべておけばいい話で、現場の人間は快適な学習環境だけを求めているわけだ。雨漏りはするし、立て付けの悪い戸は数え切れない。でもそんなのは、まあぎりぎり許せる範囲だ。贅沢は言わない。

 そんな些細な事は物の数じゃない。この酷暑を乗り切るために必要な冷房器具が設置されてないことに比べれば。

 いや、設置されていないというのは少し嘘だ。この学校では、クーラーのついた教室は大学受験を控えた一階の三年生教室にのみ設置されている。二階にある俺たちのクラスには出力重視の七枚羽扇風機での一本勝負、他の教室も同様だ。このパンチ一本じゃ到底世界は狙えないよ……。

 砂漠の飲み水よりも貴重なその扇風機は、たいてい教師の近くでウンウンと唸りながら首を振っている。これを気遣って扇風機の配置を変えてくれるのは、もはや寒暖の概念が消え失せていると噂されている庄司先生(爺)と、単純に陽気なALTのロバート(英)だけ。

 そして昼休みになれば、女子達がこぞって扇風機の前にあつまり、プリーツの効いた腰布の中に送り込むために風を占領する。うむ、非常にけしからん。

 と、そんなことを考えていると、扇風機の前に立ち尽くす一人の女子の存在に気が付く。

 三琴だ。彼女はこちらの視線に気づくと、声を出さずに口だけ動かす。

 ――こっち見んな! 

 その後に続くもごもごとした口の動きの意味は分からない。読唇術なんて覚えていないし、風紀委員が見張ってる教室では、会話なんて許されていないのだから仕方ない。続くはずの罵詈雑言を、視線を外すだけで回避できるのであれば、もしかしたらこの男女不可侵規則は悪い面だけではないのかもしれないな。


「ねえ、三琴ちゃん。誰に向かって喋ってるの?」


 三琴にそう話しかけたのは、隣で扇風機の風に涼んでいる森下洋子だった。


「あ、いや、なんでもないよ。それよりも洋子ちゃん、授業終わりから今までどこに行ってたの? お昼ご飯、一緒に食べるつもりだったのに」


「えっとごめんね。少し外せない用事があってさ。先食べてていいよ、って連絡は一応したんだけど」


「え? ……あちゃ、ほんとだ、メッセージ来てる。ごめんね、気づかなかったよ」


「気にしないで、いなくなった私が悪いんだからさ」


 小さくほほ笑む森下と三琴。その二人の方に顔を向けていた俺は、扇風機からみて風下にいるせいか、特徴的な香りが流れてきていることに気付く。


「……あれ、洋子ちゃん。なんだかいつもと違う匂いするね」


「あ、体育終わりだからさ。制汗剤、ちょっと変えてみたんだけど変かな?」


 意識を向ければ、確かに石鹸のような香りが漂ってくる。意図的ではないにせよ、なんだか悪いことをしている様な気がして、俺はすぐさま鼻先を窓の方へ向ける。

 向けた先、窓際に座っていた八河が目に入った。裁判でも聞いているかのような神妙な表情で、彼女は文庫本を開いている。かと思えば目を細めたり、何か理解に苦しんでいる様な動作も見て取れる。大方、爛れた現代社会がうんたらとか、高校生には難しい内容でも書いてあるのだろう。自分の時間を娯楽に費やしている姿なんて全く想像が出来ない。


「そういえば洋子ちゃん、昨日のドラマ観た?」


「昨日のドラマっていうと、『キミ恋』だよね、見逃すはずないじゃん。あんな恋愛、私もしてみたいなぁ……」


 『私は君に恋をします』通称『キミ恋』。小さな出版社から発行されたこの恋愛小説は、累計発行部数三百万部を突破するほどの超ヒット作となった。女子大学生と男子高校生の間の淡い恋模様を細やかに描写したこの傑作は、恋に恋する中高生から莫大な支持を集めた。即座にドラマや漫画へメディアミックスされ、今冬には全国での映画上映も決まっている。

 昨日放送された内容は、原作ファンの間でも有名な神回を基にしたものだった。

 主人公シンタロウの想いに気付きつつあるユリが、旅先で買ったお揃いのアクセサリを失くしてしまうところから第八話は始まる。あと一歩のところですれ違う二人の想いを、今一番脂が乗っている俳優たちが熱演していた。正直神回でした。

 なぜこんなに詳しいかというと、それはもちろん俺も原作小説を読んだからだ。しかも十回以上周回した。

 まだネットの端で小さな噂でしかなかった頃から、俺はこの小説が世界に羽ばたくだろう作品であることを確信していた。いわゆる古参自慢だ。

 だから、俺もあの輪の中に混ざりたい!シンタロウとユリの裏設定まで語り合いたい!

 でもできない。少なくとも、隣にいる八河が目を光らせている間は。

 今後の展開を楽しそうに話し合う二人の頭上のスピーカーから五限の予鈴が鳴り響く。二人は次の授業の準備をするために、廊下へと出て行った。

 彼女たちが視界からいなくなったのと入れ替わりに入ってきた大柄な男が、ゆっくりと腰を下ろした。岸谷、一年からの友人だ。


「あれ、これは……」


 俺は彼の着席と共に、小さな物思いをする。気のせいかもしれないが。

 岸谷は机の隣に置いたセカンドバッグを軽く漁ると、少し硬直して、そのままこちらに振り返る。


「わりい、芦間。トレーニングルームに忘れ物してきたみたいでさ。今から取りに行くから、聞かれたら先生に伝えておいてくれないかな」


「了解。いつも大変だな、岸谷は」


「好きでやってるから気にしたことはないな。それに大会も近い。活きの良い新入生も入ってきたし、今年は良いところまでいけそうなんだ。それじゃあよろしく頼むぜ」


 スポーツマンらしい短く切り揃えられた頭を掻きながら、岸谷は教室から出ていく。バレーボール部に所属している岸谷は、昼休みはいつも新校舎に新設されたトレーニングルームで筋トレに励んでいるらしい。忘れ物とはそのときにしたものらしい。四限は体育だったし、放課後には激しい部活動もある。練習熱心で頭が下がる。


 彼が教室から出てすぐに本鈴が鳴った。五限は英語で、ここからまだ長い午後が続くと思うと気が滅入る。

 ここは県内で数少ない進学校だ。六限、あるいは曜日によって七限までみっちり授業が詰まっている。去年までとは違う、少し詰まった時間割にも最近やっと慣れてきた。これも合併で生まれたあおりなのだろうか。

 殆どのクラスメイトが席に腰を下ろしたのとほぼ同時に、緩いパーマをかけた英語の宇木先生が片脇に教科書を挟みながら入ってくる。隣のクラスの担任で、掴みどころのないふわふわとした雰囲気が特徴的な宇木先生は、あれでかなり名の通った大学に通っていたらしい。人は見かけによらないものだ。


「……あれ、宇木先生。今日は香水つけてるんだ」


 教室に入ってきたばかりの宇木先生に声をかけたのは、廊下側最前列に座る三琴だった。


「あれ、やっぱり分かる?」


「いつもは割と自然体だからね、宇木先生は。香水をつけてる日は結構分かるよ。……というかどこかで覚えがあるような」


「外ノ岡さんはオシャレだから、どこかで同じ香水を経験しているのかもね。そうだ、今度おススメ教えてね」


 そう言って宇木先生は三琴の会話を早々に切り上げる。そのまますぐに授業に向かうと思いきや、教卓の近くに置かれていた扇風機の配置を教室の中心寄りに変えた。

 あれでは宇木先生に風は当たらない。俺の様な教室後ろ寄りの生徒にとっては願ってもないことだけど、今までの宇木先生には無い行動だったのが気になった。


「さて、今日は先週から言ってた通り、リスニングの小テストをやるからね。昨日の夜に睡眠時間を削って作ったんだから、ちゃんと集中して解くんだよ」


 宇木先生は黒板に今日の予定を書きながら話を始める。カツカツと一定に鳴るチョークの音を導入にして、俺は自分の意識が朦朧としていくことに気付く。

 もともと英語は得意じゃない。得意とはつまり興味があるわけで、逆に不得意とは興味がないということだ。それに加え、ふわふわと抑揚のない宇木先生の声は、昼下がりの重たい瞼を下ろす強い重力場を発生させる特殊能力を持っている。授業が開始してから直ぐであるにも関わらず、欠伸の音が至るところから聞こえてきた。


 そんな気だるさがはびこる空気の教室を覚醒させたのは、とある訪問者だった。

 勢いよく開かれた前方のドアから顔を出したのは、陽気な外国人教師。ALTのロバートだった。襟に糊の貼ったポロシャツを軽快に着こなし、片手にはラジオカセットと教科書を携えている。


「ハローエブリワン!今日ハ庄司先生が少し遅れてくルから、……オゥ?」


 扉を開けるや否や、ロバートはクラスの雰囲気が想像と異なっていたことに驚いているようで、空いた片手を肩程までに上げてリアクションをとる。文化の違いによるものというのは分かるが、彼がやるだけであのオーバーな動きも様になるのだから不思議な話だ。

 俺は開いた英語のノートの端にある『正』の字、その最後の一画を書き入れる。

 教卓の前で立ち尽くしているロバートを見つめ、笑いながら宇木先生は口を開いた。


「あらロバート先生。今日の授業はここじゃないですよ?」


「おお、すいまセん。まだ慣れていないものでして、すぐに自分のキョウシツに戻ります」 


 イギリス出身のロバートは、この学校に赴任してから日が浅い。一学期が始まってから数週間後に赴任してきたロバートは日本での就職は今回が初めてらしい。しかしながら日本の文化には堪能なようで、スムーズな意思疎通が取れる程度には日本語も堪能だ。それにいつもお気に入りの和風小物を身につけている。特に扇子がお気に入りらしく、いつも胸ポケットに用意しているのが印象的だったが、今日は持っていないようだった。

 そんなロバートも、やはり異国の地では小さな事に手間取るらしい。授業担当を勘違いして教室を間違えるのは珍しいことじゃないはずだ。

 でもそれは、最初の一、二回に限った話で。


「最近間違えすぎですよ。おっちょこちょいなのは可愛らしいですけど、気を付けてくださいね」


「スミマセン、どうにも最近ミスが多くテ」


 ロバートは日本人さながらの動作で後頭部を触り、自らの失敗を悔いる。

 ここ最近も見た所作だ。

 なぜかこのロバートという教師、頻繁に教室を間違えて乱入してくる。

 宇木先生は最近と言っていたが、そんなに短期間の話というわけでもない。『正』の字が示す通り、ロバートが教室に乱入してくるのはこれで五回目だ。

 別に嫌な気持ちになるだとかそういった話でもない。むしろ日ながら半開きの目で授業を受けている俺にとってロバートの登場は、日常のちょっとしたイベントとして楽しみでさえある。

 でも物事に対しての物差しは、人によってそれぞれ異なる。このロバートの頻繁なミスに、若干の嫌気がさしている生徒がいてもおかしくない。俺は教室の後方で小さく聞こえるため息を聞かなかったことにする。


「じゃあ失礼しマス、皆さん、また次の授業で会いマシょう!」


 片手に教科書を掴んだまま、両手を横に大きく振り、彼は教室を後にした。


「ほんと、少し抜けてますよね。よし、それじゃあ気を取り直して――」


 あのとき一瞬、空気が固まった。


「……」


 数秒経っても宇木先生の言葉は繋がれず、どこか違和感を覚えた。授業中の暇つぶしに面白い豆知識が載ったページを探して視線を下に落としていた俺は、彼女がなぜ言葉を詰まらせたのかを直接確認することは出来なかった。

 それから数秒、流石に気になって顔を上げると、宇木先生の表情は普段通りで、どうやら何か小さな考え事をしていたようだった。

 俺が教科書の後ろにあるコラムを読もうとした直後、一つ飛ばしにリスニングテスト用紙が回ってくる。

 問題文が長い、あまりにも。苦手な教科の苦手な種目で二段構え。是非もなし。

 俺がこの後迎えるところは言わずもがな、寝落ちだ。そうして意識は授業終わりまで飛ぶこととなる。



 これが、俺たちが経験した三時間前の出来事だ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る