みちびき地蔵

@RITSUHIBI

 母に手を引かれ歩いた、あの日の夕日を、今もずっと覚えている。

 幼い頃だった。私と母は、寝ている父をそのままに、隣村まで出かけて行った。

 この辺りの村はどこも人手がなく、何かしらの用事がある時には、互いに行き来して助け合っていた。この日は隣村で葬式があるとかで、母親が人手を頼まれて出かけて行ったのだ。  

葬式の支度は滞りなく済み、私たちは村を出た。

 母親に手を引かれて私は歩いた。絶えず海の音がした。浜辺に波を叩きつける、豪快な音。

 今日の海はえらく荒れとるな――母親が、誰に聞かせるでもなく呟くのを、私は聞いた。

 空は真っ赤に染まっていた。燃え上がるような、あるいは血を流したような、鮮やかな赤。それを眺めているうち、私はうとうとと舟を漕ぎだした。そんな私を見て、母親は励ますように、叱りつけるように言った。

「浜吉ッ――寝るんでねえぞッ。あと、少しだからな」

 私は半分睡魔に沈みながら、頷いた。

 海沿いから外れて、周囲を岩の壁に囲まれた道に入った。潮騒は、ここまで追ってきた。

 ほとんど眠りながら歩いていた私は、母親の足に頭をぶつけた。その痛みで目を覚まし、見上げると、母親はその場に突っ立って、崖の天辺を見上げていた。

「おっ母ァ、どうした――?」

 私の問いかけにも母は答える様子を見せず、ただただ同じ方を見て、佇立するばかりだ。よく見ると、母の体は微かに戦慄いているようだった。

 母の視線の先には地蔵様があった。ごつごつとした岩の中に、半分埋もれるようにして祀られた、小さな地蔵様で、村では“みちびき地蔵”と呼んでいた。

 地蔵の前に、白い煙のようなものが立ち上っていた。海藻を燻した時に出る、磯臭い煙。

 それが次第に、人の形を取っていくのを私は見たのだった。

 その顔には見覚えがあった。村で一番の年寄りで、私もよく遊んでもらっていた。

 可哀そうに――母親が、そう呟くのが聞こえた。

「近頃、体が優れんと聞いていたが――ついにいけなくなったのか」

 しかし次の瞬間、母はアアッと小さく叫んで息を呑んだ。

 人の形をした白い煙のようなものが、地蔵の前にいくつもいくつも並んでいるのだ。

 老婆の後ろには、乳飲み子を抱く母親の姿があった。その後ろにはまだ若い男の姿があった。中年の男。年若い女、幼気な子供……さらには牛や馬などの姿も、靄の中に見えた。

 彼らはいずれも虚無を湛え、地蔵の前に首を垂れた、そうして首を持ち上げ、天を睨めつけたかと思うと、吸い込まれるように天へと昇ってゆくのだった。

「おっ母ァ――あれは、なんじゃ?」

 思わず叫んだ私を、母はしっかりと抱きしめた。自分の体で私の目を塞ぎながら、

「なんでもない、なんでもない。怖がることはない。あれは、明日死んでしまう、かわいそうな人たちなんだよ。この世を去る前に、地蔵様に挨拶に来たんだよ」

 と諭すように言うのだった。

私は母親の肩越しに、みちびき地蔵を見た。亡者の数は減ることを知らず、次々に現れては地蔵の前に両手を合わせるのだった。

 南無阿弥陀仏――。

 南無阿弥陀仏――。

 潮騒さえ、そう聞こえてくるようだった。母親は耐えきれなくなったのだろう。私を担ぐと、その場を走り去った。背中から念仏交じりの潮騒が、追いかけてくる恐怖を感じながら――。

 家に帰った時には、すっかり暗くなっていた。父は起きていて、飲んでいた。母は私に飯を食わせながら、先に見た亡魂のことを話した。

 そんな馬鹿なことがあるものか、と父は一笑に伏した。

「黄昏の時分にあんな寂しい所を通るから、幻を見たのよ。そんないっぺんに人が死んでたまるかい」

「でも――でもさ、気になるから、村の人たちに知らせておいた方が良くはないかい?」

 やめておけ――と、父は煩わしそうに言った。

「お前さんは明日死ぬよ、と、そう言い触れて回るのか? そんなことをしても、お前が変になったと思われて終わりだ。――いいか、絶対に、誰にもこのことは言うんでねえぞ」

 私はふと、父の目を見た。父は、母を真っ向から睨めていた。その眼は酒毒に侵された様子が一切なく、有無を言わせぬ圧に満ちていた。

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