怪奇探偵シロナガスクジラ

葉桜冷

第0.5話 プレエピソード

 とおい、とおい。夏の日のことを憶えている。

 みーん、みーん、みーん、みーん。

 蝉の聲が聞こえる。

 長袖の下で汗がにじんだ。

 神社の階段を駆け上る。

 眩いくらいに、くらくらする。

「きみは、わたしがなんで夏でも長袖か、きかないの?」

「聞きたいけど、知ってほしくないんだろう? じゃあきかないよ」

 そう、言ってくれたことが嬉しかった。

 そんな、夏のおもいで。




 怪獣が町で暴れている。

 そんなニュースが流れていた。

 じりじりと暑くて、蝉の聲がやけに五月蠅い。

 そんな、夏の日のことだった。

「―――横浜市内に現れた謎模様の鱗の怪獣は、唐突に姿を現し約十二分にわたって市内を横断。市外の民家を蹂躙した後、霞のように姿を消し」

 唐突にラジオの音が消される。

 私は切った小型ラジオを事務所の奥にあるソファに放り投げると、依頼人の正面に座った。

 からからと、古びた換気扇が回っている。

「初めまして、探偵の白流須いるかです」

 そう言って、私は名刺を差し出す。

 目の前の依頼人はおずおずといった雰囲気でそれを受け取った。

 身なりのいい男だった。

 年のころは30代くらいだろうが、童顔のため詳細な年齢はわからないが、眉間に刻まれた皺と、それとは対照的にハリのきいたスーツや質のいい眼鏡からそれなりの人物であることは容易に推測はついた。

「『怪奇探偵』……という肩書を聞いてきたのですが、貴方――白流須さんでよろしいの、でしょうか?」

「……まあ、それは私のことですが。別になにも、私が怪奇人物というわけではないんですよ。ただ、たまたまその手の奇怪な案件を解決することが多くて、そんな渾名が付いたってだけです」

 んなもんで、そんなじろじろと見られても仕方がないのだ。私自身はただの――いうて一般的ではないかもしれないが―――人間に過ぎないのだから。

「それで、どのような依頼ですか? 必ずしも怪奇事件専門ってことはないですが。ある程度でしたら、その手の期待にも応えますよ」

 努めて、にこやかにけれどきりりと、私はそういう。

 あんまりヘナっとした顔をすると信頼してもらえないのだ。

「……」

 依頼人の男はしばらく、こちらを値踏みするみたいにじっと見つめた後、おもむろに懐から名刺を取り出して、机の上にのせて見せた。

「自己紹介が遅れて申し訳ない。僕の名前はアカマといいます。怪奇探偵として名を馳せたあなたに依頼したい案件があるのです。もちろん、できればで構いませんが……」

「聞きましょう」

 依頼人のアカマは一瞬、逡巡するように唇を舐めると、意を決してこう切り出した。

「貴方には、亡霊を探してほしいのです」




 それは、つい二週間前のことだったという。

 その日もまた、夏の暑い日だった。

 その時点での夏の最高気温を記録、雲一つない炎天下のなか。

 ビル街のアスファルトから立ちあがる熱気が蜃気楼を作るような、目に見えるすべてを歪めてしまうような日だったと、アカマは言っていた。

『僕が彼女を見たのは、その日でした』

 ビルの谷間、揺らめく幻影のなか。

 ミナセを見たのだ彼は言った。

『僕の幼馴染の女の子です。小学生の頃はよく遊んでいたものです。彼女が、その日、僕の目の前に現れました』

『それは、普通に幼馴染がひょっこり現れただけではなく?』

『はい。僕は自分の目を疑いました。白昼夢を見ていると思ったんです。だって、彼女は……ミナセは、僕が子供の時、忽然とその姿を消していたのです。よく一緒にあそんでいた神社に姿を現さなくなり、どこを探してもその姿を認めることが出来なかった。そんな彼女が現れたのです――子供の姿のまま』

 今日も、暑い夏の日だ。

 焼き付きそうな、道の上を歩く。

 戸籍を調べたら、確かにその少女の存在は確認できた。母親以外の親類は確認できない。

 警察に捜索願の類は出されていなかった。

『失礼ですが、見間違いの類という可能性は?』

『僕も、最初はそう思ったんです。警察や公的捜査機関に行っても同じことを言われました。でも、だめなんです。ダメなんですよ……、ずっと。彼女の姿が網膜に焼き付いて離れない。本当に短い時間の出来事で、すぐに消えてしまった、あの瞬間の彼女のことがどうしても離れないんです。お願い、調べてください。知りたいだけなんです。彼女が、まだどこかに生きていてくれているのかどうかが……どうか、お願いします』

 少女ミナセの写真を見る。

 調査の過程で手に入れたものだ。

 写真では黒い髪に長袖の安っぽい服を着ており、しかし幼いながらも美人といって差支えがない、そんな少女だった。



 強い日差しが降り注ぐ。

 もうすぐ夕暮れになろうというのに、一向に暑さが冷める気配がない。

 この暑い中、存在するかどうかも分からない亡霊を探すのは、なんとも徒労感溢れるが、探偵の仕事なんてのはそんなものである。

 額の汗をぬぐった。

 横浜とも鎌倉ともつかぬ土地を僕は歩いている。

 かつては都市であり観光名所だったこの辺りも、怪獣の襲来で見る影もない。

『いるかは、幽霊って信じる?』

 昔、誰かにそんなことを聞かれた気がする。

『怪獣が街を歩き、宇宙人が地球侵略にくる。そんなことがよくある時代なんだ。あり得るかも、くらいには思っている』

 そんな風に私は答えた。

 そんな益体もないことを考えるのも、この暑さのせいだ。

 万が一、やばい感じの悪霊だ怪奇生物だが出たことも考慮して得物を携帯していたのがよくなかった。妖刀ってのは重いのだ。

「と、ここいらか」

 そう、独り言ちる。

 田舎といえば田舎なのだろうか。

 ビル跡は少ない。民家が多い土地だ。

 その民家もさきの謎鱗の怪獣によって踏みつぶされた傷跡が目立つ。

 調べていて、この町にミナセの生家があったらしいことは突き止めた。

 さて、あと一調べしてみようかと思う。

 思いのほか厭な事件になりそうな、そんな予感がしていた。




「ミナセちゃんかい? あー、そういえばいたねえ。可愛い娘だったよ……でもある日、ぱったりと姿を消してしまってねえ」

 そんな風に町に残っていた老婆は語っていた。

 随分、遠い日を思い出すよう破壊された家の傍らで老婆は夕日を眺めている。

「でも、そうだねぇ。可哀そうな娘だったねぇ」

「可哀そう、ですか?」

 ああ。と、老婆が力なくうなずいた。

「ひどい母親だったんだよ。早く旦那からね捨てられて、たいして欲しくもなかった子供をこさえて、……それで旦那を連れ戻せるとでもおもってたのかねぇ……。当然、そんなことはなくて、あの女にはいらない娘だけが残った。ミナセちゃんは、いっつも長袖の服を着ていたんだ。夏の、今日みたいに暑い日にもねぇ。みんなわかっていた。わかっていたんだ。あの娘が母親にひどいことをされていることを。でも誰も何もしてやれなかった。……してやらなかったんだ。赤の他人だから、泣いてるところなんて見たことのない優しいいい娘だったから、どこかの坊ちゃんと毎日楽しそうにしているし別にいいじゃないか。そんな風に、勝手に理由を付けてね……」

 ミナセという少女の経歴を調べた時点で、ある程度、件の少女の境遇が悲惨なものであったのは予想できたことだった。

 戸籍こそ登録されていたが、学校に行っている記録はなかった。児童相談所もよく、家庭訪問に訪れていたらしい。

 結局、事態が進展を見せる前に、少女は姿を眩ませたのだが。

「――あの娘、どうしてるんだろうね今頃。生きているのかな、死んでいるのかな。ああ、ほんとうに……」

 老婆はやがて、ぽろぽろと涙を流し始めた。

「………ミナセさんの、母親は今どこに?」

「つい、二週間前のことさ。あのへんな模様の鱗怪獣に踏みつぶされて死んだよ」

「そうですか」

 これ以上、この老婆から聞けることはなさそうだった。

 怪獣が闊歩したこの辺にはもう、他に誰も残ってはいない。

「最後にひとつ。貴方は避難しないのですか。この場所は連日、あの鱗怪獣が闊歩している地域です。それに貴女の家はもう……」

 老婆の傍に置いてある壊された家を見る。

 周囲一帯は怪獣の足跡で跡形もない。

「……どこへ逃げるっていうんだい。こんな行く当てにない老人にさ」

 夕陽の中に取り残された老婆は力なく笑う。

「酷い話、非道い話さ。あの変な鱗の怪獣だって、別に初めて現れた怪獣ってわけじゃない。色んな怪獣が色んな理由で現れる。ミナセちゃんの話とおんなじさ、この世はひどいことにありふれている」

「……」

「なあ、あたしも一つ聞いていいかい?」

「どうぞ」

「探偵さんが背中にしょってるの、なんだい? 剣道でもしてるんかい?」

「ああ、これは護身用の刀ですよ。妖刀『幽霧』。なんでも切れる便利な奴です」

「へぇ、面白いね」

 最後に老婆は愉快そうに笑った。

 蝉が鳴く聲がした。




「あなた。どうして、わたしのことを調べてるの」

 夕陽が暮れ、あたりは夜の闇に覆われる。

 昼から夕方にかけての暑さは随分と楽になり、心地の良い夜風が吹いていた。

 残骸だらけに横浜に唐突に少女は現れた。

 黒い髪、長袖の安っぽい服、白い肌に、幼いながらも整った顔立ち。

「……ミナセ」

 正真正銘、ミナセと呼ばれる少女だった。

 調べて見つけた写真のまま――二十年以上前と同じ姿のまま、その少女はそこに現れた。

 心地よい涼しさの夜風が厭な冷たさを持ち、ひしゃげた街灯が点滅する。

「ほら。わたしの名前知ってる。なんで? わたしのことなんて、知らないほうがいいのに」

「そういうわけにはいかない。探偵の仕事は調べることにあるからね」

 そういいつつ、僕は竹刀袋から鞘に納まった『幽霧』を取り出し、片手に携える。

「ミナセ、あんたが何者なのかは知らないが……聞きたいことは山ほど」


「探偵さん、なんだ……? すごい、初めてみた……」


「ある……うん?」

 一瞬どうも空気が緩んだというか、割と素直な驚きと感動の声がしたような。

「う、ううん! 感動してる場合じゃない! と、とにかく探偵さんだろうとなんだろうと、わ、わたしに近づかないで! さもないとっ、さもないとっ」

「さもないと、なんだよ?」

「探偵さんのこと、殺しちゃうかもしれない……」

 台詞自体はまあ物騒なのだが、その物言いはなんだか不安げなもので、どうも毒気が抜ける。

「殺してしまうかも、ってなんでまた? 私にはきみが虫も殺せぬ女の子に見えるんだけど?」

「そ、それは……」

 ミナセは困ったように俯いて、視線を彷徨わせる。

 打ち明けたくない秘密を隠す子供のような――彼女の姿は子供のそれなのだが――そんな幼い仕草だった。

「と、とにかくもうやめてねっ!」

「あっ、待て!」

 唐突に逃げ出すミナセ。

 その後を追いかけて……追いつけてしまった。

 彼女の手首を掴む。

「きゃ、や、やめて!」

「いや、きみね」

 なんだか変質者みたいな構図になったって非常に不本意なのだが。

 しかしこう、存在するかもわからない少女だと思っていた対象がこんなに早く捕まってしまうとは、というかつかめてしまうとは。

 しかし、今ここで逃がしては次、いつどこでまた会えるかもわからん相手なのだ。逃がすわけにはいかない。

「アカマ、という人間を知っているか?」

「え? アカマくん?」

 彼女はすんなりと反応を返した。素直か。

「彼がきみと会いたいといっている。二週間前にも姿を現したんだろう? どうかまた会ってやってほしいんだ」

「――ッ!」

 彼女は想定していなかった反応をした。

 泣きそうな、辛くて、切なくて、嬉しそうな、そんな複雑で救えない反応を。

「アカマくん……」

 いまにも少女は泣きそうだった。

 泣いて崩れてしまうそうだった。

「アカマくん……逢いたいよ……」

「そうか。じゃあ、会ってやって……どうした?」

 唐突に、ミナセは胸を押さえて、苦しみだした。

 顔色がみるみると悪くなっていく。

 掴んだはずの手を、およそ信じられない力で振りほどかれる。

「……こ、ないで……いや、わたし……」

 明らかに様子がおかしくなっていくミナセ。

 私から離れようとしていく彼女にもう一度近づこうとして―――足が動かないことに気が付いた。

 ずっ、と空気が重くなる。

 反射的に『幽霧』を構え、腰を落とす。

 正面の少女を見据える。

 少女は、ミナセは、その姿を異形に変えた。

それは、一瞬のことだった。

巨大な顎が、襲い来る。

「ッ⁉ 『幽霧』!」

 抜刀。

 鞘から『幽霧』の刀身が引き抜かれる。

 捻じれた虹色に輝く刃でその顎を切りつける。

 恐ろしいほどの衝撃と共に大量の火花が散った。

 それは弾けるように跳ねた。

 形容しがたいほどに奇妙な模様の鱗が散った。

 巨大な影によって、夏の夜闇はさらに深く沈む。


【―――――――――――】


 それは怪獣だった。

 ここのところ連日ニュースで流れている謎模様の鱗怪獣だった。

「ッ!」

 私はミナセが立っていた地点を見る。

 少女の体がみるみるその質量を膨張させて、怪獣へと変質していっている。

「だがまだ完全じゃない!」

 完全に件の怪獣に変わるまではまだ猶予がある。

 全くどういう理屈かわからないが、そも怪獣に理屈を求めても仕方がないのだ。

 ここで完全に変身しきってしまっては間違いなく面倒になるしソレは避けたい。

 アスファルトを蹴って跳躍する。

 瓦礫の上を跳躍し、怪獣の頭上をとり『幽霧』で切りつける。

 火花が散って、怪獣に傷がつく。

 大丈夫だ『幽霧』ならダメージが入る。

 斬撃を網の目のように交錯させて繰り出す。

「う、おおおおおおおおおおお!」

 火花は散らばり花火のように夜の虚空に舞った。



 また、おなじゆめをみている。

 おかあさんがわたしのうでにしっぺをした。

 痕が、いくつも腕に並んでいる。

 これは、誰かに見せたらいけないものらしい。

 じんじんと熱い痛みを持っている。

 長袖の服は、夏に暑い。

 熱い、暑い。

 蝉の聲が、耳に五月蠅い。

 おなかが、すいている。

 おかあさんは、わたしのことがきらいみたい。

 それでもいいのとなくのをやめた。

 それは、なつのあついひ。

 わたしは、ちいさな町のなかをはしる。

 神社の階段を駆け上がる。

 彼のすがたがみえる。

 わたしのだいすきなひと。

 ああ――ただそれだけで、いいの。





 事務所のソファで、少女が眠っている。

 その頬に泪が一筋、伝う。

 なにか、哀しい夢でも見ているのかもしれない。

「……にわかには、信じられないですね」

「貴方が依頼したことですよ?」

「そうですが、でも、実際にこうして目の当たりにしてしまうと……、やはり……」

 アカマはそんな風に言う。動揺している様子だ。

 それもそうだろう幼ないときに消息を絶った少女が当時の姿のまま、目の前に存在しているのだから。

 果たして、彼女をただの少女といっていいのかはともかく。

 からからと換気扇が力なく深夜の風をぼろい室内に注いできている。

 不気味なくらいに静かな夜だった。

 規則正しく刻まれるミナセの呼吸音がはっきりと聞こえるようだった。

「…………ん。」

 ふと、ミナセが目を醒ました。

「ここは……?」

 少女は視線を彷徨わせる。

「ミナセ……っ」

「…………アカマくん?」

「あ、ああ。そうだよ。よくわかったな……ミナセも、その……変わらない感じで……なんだ、久しぶり」

「…………うん。久しぶり」

 ミナセは少しだけ泣きそうな顔でそういった。

 穏やかで、暖かで不器用な時間だった。

 ふと、ミナセは僕のほうを見る。

「探偵さん、わたし……」

「それなら別にいい。その手の騒動には慣れてるし、このとおり五体満足だ。きみのあの姿のことはまだ誰にも言っていない。それでいいね?」

「うん。ありがとう……探偵さん」

 少々怪訝そうな顔をアカマはするが、裏側に様々な事情があると察したのか何も言わなかった。

 不意に、静かな事務所内に不似合いな着メロが流れた。

「あ。ちょっとすいません」

 アカマの携帯だったらしい。

 彼は懐から携帯電話を取り出すと、そそくさと部屋の隅に移動する。

「……はい。はい。わかりました。……あ、すいませんミカミさん。ミナセも、僕ちょっとこれから病院に行かなければいけなくなってしまって」

「病院? どうして? アカマくん、どこか悪いの?」

「いや、娘が入院しているんだよ。例の鱗の怪獣のせいで、ひどい怪我をしてしまったんだ」

 アカマは何でもないことのようにそういった。きっと、その娘の命の別状はないのだろう。

 だがきっとそれは彼にとっては何でもないことで、彼女にとってははどうしようもない断絶であったのだ。




 アカマの娘が入院している病院は怪獣被害を被った地域からは程遠い場所にあった。

 彼は車を走らせる。

 気さくな男であるアカマは、良ければ娘に会ってほしいとミナセに言った。

 ミナセは、笑顔でいいよ。といった。

 その時の少女の心境を、僕は知らない。

 それに私もついていく。

 また、怪獣になったら、ミナセを殺すために。

 明け方。

 少しだけ肌寒く、薄暗い。

 瓦礫の地平を、車の窓からミナセは見ていた。

「わたしね、つい二週間前に帰ってきたばかりなの」

 少女の形をした怪獣はそういった。

 ぽつりと、そうつぶやいた。

 それっきり、彼女は何も言わなかった。

 ただ、明け方の碧い空の下、破壊された町を見ていた。


「パパ!」

 幼い子供の声だ。

 アカマの娘はまだ10にも満たない子供だった。多分、ミナセより3つほど年下なのだろう。

 可愛らしい顔立ちに両足を塞ぐギプスが痛々しい。

「パパ、この人たちは?」

「紹介するよマナ。この人はパパのお友達のミナセちゃん。その隣にいる方が、彼女を見つけてくれた探偵の白流須いるかさんだ。ほら、挨拶なさい」

「初めまして、マナです!」

「ああ、初めまして。白流須いるかというものだよ」

 私は娘に挨拶をした。

 だがとうのミナセは僕の後ろに隠れてしまって出てこようとしない。

「おねえちゃん?」

「……ッ」

 アカマの娘に呼ばれ、恐る恐る、ミナセは顔を出した。

 にこっ、と娘は笑った。

 ミナセは娘の足をみて、聞いた。

「その、けが……」

「うん。怪獣が暴れて、その時に折っちゃったんだ」

「そう……なんだ。ねぇ、マナちゃん。マナちゃんは、その怪獣が嫌い?」

「うん! 嫌い、マナすごい痛かったもん!」

「……そう、なんだ。ねえマナちゃん。マナちゃんは、パパのこと、好き?」

「うん。好きだよ」

「そう。じゃあね……」

 じゃあ、とミナセは一つ息を飲んでから聞いた。

「パパとママは、仲いいの?」

「うん。なかいいよ」

 マナは元気にそう答えた。

 病院のリノリウムの床を人々があわただしく掛けているようだった。



「ばいばい、マナちゃん」

「うん! バイバイ、ミナセおねえちゃん!」

 その後、少し遊んだり、お話をして俺とミナセとアカマは病室を出た。

「いや、ありがとうミナセ。マナと仲良くしてくれて。齢の近い子と話す機会があの子にはなかなかなかったから……いや、ミナセももう子供じゃないのかもしれないけれども」

 ミナセは何も言わなかった。

 彼女の年齢が今どうなっているかなんて、彼女にすらもうわからない。

「それに白流須さんも、ありがとうございます。まさか本当に彼女を見つけてくれるなんて」

「いや、かなり偶然が大きいんですが」

「それでもです。これで後顧の憂いがなくなりました」

「憂い?」

 尋ねると、ええ、とアカマは頷いた。

「引っ越す気なんです。会社も怪獣に壊されてしまった。町や景色に残っていた思い出も、もう全部、壊されてしまって。……妻と話し合って、引っ越しをする気だったんです」

「……そうでしたか」

「アカマくんはっ……!」

 ミナセが声を張り上げる。

 あまりに悲痛さを感じさせる声だった。

「わたしが、どうしてこのすがたのままなのか、知りたくない?」

「知りたくはあるよ」

「なら……!」

「でも、知ってほしくないんだろう? なら、聞かないよ」

 ミナセは泣き出した。

 病院の床に崩れ落ちて、顔を覆って彼女はただ、幼い子供のように泣いていた。




「ミナセのこれからのことは、私がどうにかします。だから、もう気にしなくても大丈夫です」

 私はそんな風にアカマに言った。

 人のいい彼は、俺の言をいとも容易く信じ、よろしくおねがいします。と報酬を払った。

 アカマと別れ、私とミナセは病院を出た。

 太陽の熱光が燦々と降り注いでいた。

 蝉が、かなしいくらいに泣いている。

「ねえ、探偵さん」

 夏の暑さで、景色が揺らぐようだった。

「お願いがあるの」




 雲が出てきた。

 正午を回る。

 破壊された町を歩いている。

 かつて、ミナセの生家があった町だ。

 もう、誰も残っていない。昨日の老婆の姿も見えなかった。

「ここね」

 ミナセがぽつりとつぶやく。

 そこは神社だった。

 正しくは、神社だった場所の残骸だろうか。

「むかし、まだアカマくんがこどもだったころね。よく二人で遊んだの」

 立ち入り禁止の札がかかったロープを跨ぎ、崩れかけの階段を登る。

 雲が厚く、深く空にかかる。

「わたし、宇宙人に連れ去られたの」

 歩きながら、彼女はそう告白した。

「宇宙人に連れ去られて、怪獣になったの」

 神社の境内の中に入る。

 ぽつぽつと、雨が降ってきた。

 灰色の大地に斑点が増えていく。

 夕立が、強くなる。

 ざあざあと、雨が降る。

「わたし、何もなかったの。ただ、毎日がつらかった。自分がつらいってことすら気が付かないまま。おかあさんに、ぶたれた。いらない子だって言われてた。毎日、おなかがすいていた。でも、いいって思えた。ともだちが出来たから。たった一人の、たいせつな、だいすきな……なのに……」

 雨が、ざあざあと、世界のなにもかもを覆いつくすように降っている。

 ただ灰色の曇天の下、救いようもなく降っている。

「わたし、怪獣になって。色んな星にいったの。一日に一回くらいのペースで怪獣になるの。そして、たくさん壊して、殺したの……怪獣になると、訳が分からなくなって、ただ壊すことしかできなくなっていって、そして、いつも……」

 わなわなと、彼女は自分の体を振るわせる。

 怪獣になり、多くを壊し、殺した彼女にはもう、救いなんかなかった。

 私は『幽霧』を構える。

「かなしかった。つらかった。それでも、それでもって思えたのは、おもいでがあったから……、たいせつな、だいすきなおもいでがあって、でもわたしは、わたしにとっていちばん大切なモノすら、自分で壊してしまうところだった……」

 雨水が、目に入って痛い。

「この惑星に戻ってきて、怪獣になったときね、わたし一番最初に自分に家にいったの。そして、おかあさんを潰したんだ。その時だけ、その時だけは、確かにわたしの意思で。――嬉しかったの、おかあさんを殺して……その時、わたしはきっと本当に怪獣になれたの」

 少女は泣いていた。少女は幼い、子供の姿のまま嗤いながら泣いていた。

「きっとわたし、わたし、もう戻れないから……! だから、だから、……せめて、人でいられるままで――お願い、探偵さん」

「『幽霧』」

 抜刀。

 捻じれた虹色に光る刃が引き抜かれ、一閃する。

 それはただ、静謐な刹那だった。


「―――ありがとう、探偵さん」


 ごろりと、音がした。

 首が墜ちたのだ。怪獣の首が。

 人の体なんて、そこには残っていなかった。

 緑色の血液が、雨に流されて消えていく。

「………ありがとう、なんて、そんなこと言わないでよ……」

 そっと、私は彼女の瞳を閉じる。

 人の形を失っても、確かに彼女は最期まで人間だったと信じたかった。

 雨が朱く染まり、僕の後ろに誰かが立っていた。

 宇宙人だった。

 彼女の死に気づいて、飛んできたのだろう

「貴様! 我ら〇△×星人の最高傑作をよくも壊したな! 我らがその良質な素材を採取して侵略破壊兵器にするのに一体どれだけ」

「『幽霧』」

 抜刀。

 宇宙人は喋らなくなった。

 雨が降っていた。

 あれだけ五月蠅かった蝉の聲も聞こえない。

 この神社跡地もまもなく、工事の手が入り、更地になるらしい。

 ここにはもう、何も残らない。




 夏が終わろうとしていた。

 蝉の鳴き声もめっきりしなくなっていた。

 からからと換気扇が回っている。

 そんな古びた探偵事務所の中にラジオの音が鳴る。

『――本日未明、〇〇市に新たな怪獣が出現。市街で被害が拡大しています。また、この個体が突如として姿を現さなくなった鱗の怪獣との関連は不明で』

 私はラジオを切って、ソファに投げ捨てる。

 からからと、扉が開く音がして、依頼人の正面に向き直った。

 とおい夏の日の話は、これで終わりだ。



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