私を天国に送ってくれますか?

@hinorisa

第1話

 ——最後に二人で天国に行ければいいの


 草臥れた風貌の医者は、気怠そうに足を引きずるようにして、屋上へと続く階段を上がり切る。不特定多数の要望がようやく叶い、最近交換されたばかりの真新しい金属製の扉を開け、屋外へと足を踏み出した。

 屋上は病気で外出できない入院患者や、仕事で忙しい医療従事者の気分転換になればと、陽が明るい内は開放されている。

 安全に考慮して、背の高い内側に返しの付いたフェンスに囲われ、物が少なく閑散としている。休憩用のベンチが数脚と、四季折々の花が植えられたプランターは、歩く際に邪魔にならない様にそれぞれ十分な距離をとって置かれている。

 足元が不自由な患者や車椅子での移動の事を考えて、障害物になりそうな物を極力減らし、ゆっくりと体を心を休めるようにとの配慮された結果だ。

 時間は夕刻を迎え、ゆっくりと太陽が赤く染まりながら、地平線の向こうへと沈んでいく。

 他の病院ではどうかは分からないが、この時間帯は屋上に人が少ない。入院患者は食事の時間を迎えて部屋に戻り、看護師たちはそれを補助するために忙しいため、この一時間に満たない時間は、常に人と接していなければならない彼にとっては、貴重な休憩時間だった。

 元々人と接するのは得意ではない。けれど、彼にはある意味、医者というのは天職といえる仕事だと自負している。

 彼は人が少ないこの時間帯に屋上を訪れて、外の景色を眺めるのが勤務日の日課となっていた。

 季節によっては完全に日が沈み、フェンス越しの町明かりと、深い紺と黒の狭間の様な色に浮かぶ月や星、時には何もない深い海みたいな空。

 屋上に設置されたベンチに倒れこむように座り、医者は背もたれに身を任せて、白色と水色と茜色のコントラストを仰ぎ見る。

 手に持っていた缶コーヒーを一気に煽り、糖分とカフェインを体内へと補給する。手のひらに収まるぐらいの小さな缶コーヒーを飲み切るのは彼には容易い。むしろ足りないと日頃から思っているぐらいだが、彼の気に入っているコーヒーの銘柄はこの小さな缶の物しか売られていない。

 子供の頃は、新作の清涼飲料水が出るたび、どうして五百ミリのペットボトルばかりで、一・五リットルのサイズの物は売り出してくれないのかと嘆いたものだが、成長しても悩み自体は大して変わらないなと、彼は自嘲する。

 それと同時に、脳裏にかつて言われた言葉が思い浮かぶ。

 「むしろ、美味しいかも分からないし、気に入るかも分からない味を一・五リットルのサイズで購入しようとは思わない」と、彼よりしっかり者の妹に言われた。

 けれど、五百ミリを三本買うよりも、一・五リットルを一本買う方が安くつく。子供の頃は特にお小遣いをやりくりしていたのだから、その辺りは今よりもシビアだ。

 今となっては、値段よりも手間と労力の方を惜しむようになった。

 そんなとりとめのない、無駄で有意義な時間が流れていく。

「——ねえ。貴方はお医者様ですね」

 不意に背後から投げかけられた声に、首を捻り最低限の動きで声の元を確認すると、入院着を着た少女が佇んでいた。

 医者は少女を見た瞬間に、その俗世離れした風貌に驚き、目を大きく見開いて固まる。

 彼女の肌が、夕陽で燃えるように赤く染まっている。肩につかない程度の長さ髪の先は真っ直ぐに整えられていて、なおの事人形のような印象を彼に抱かせる。

 夕陽に照らされた少女は整った顔立ちをしていて、ガラス玉のように無機質な瞳と生気が感じられない青白い。

 人気がないことは確認済みだった。患者の容体が急変した際の万が一に備えて、屋上には死角は無く、身を隠すような場所も物もないため、少女が先に屋上にいたという可能性は低い。

 元々人の気配には敏感なため、見落としたということも無い筈だ。

 少女が扉を開けて、傍まで歩いてきて声をかけるまで気が付かなかったという事実に、医者は自分が酷く疲労している事を自覚して自嘲する。

 一瞬、医者の脳裏に幽霊という言葉が浮かんできたが、すぐに消える。彼はこの職務についてから、一度もお目にかかったことは無い。同業者や看護師達に噂話や体験談を幾度も聞いたことはあるが、彼自身は、幽霊にも、それに類する事象にも出会ったことは無い。

「……もう少ししたらここは鍵をかけられるし、そろそろ夕食の時間だと思うから、部屋に戻った方がいい」

 医者は動きの鈍い頭を動かして、この場で最適な行動を逡巡した結果、とりあえずこの場から立ち去るように促すことにした。

 けれど、少女はその言葉が聞こえていないかのように、無言で医者のことを睨みつけるように見ている。

「……あー。とりあえず、立ちっぱなしもなんだから、座ったら?」

 医者は占拠していたベンチから少しだけ腰を上げて、端の方へと体を寄せる。

 少女は医者の動きを目で追っていたが、ぽっかりと空いた空席を暫く見つめてから、無言のまま動き出して彼と反対の端に座った。

 二人ほどの間を挟んで座る医者と少女は押し黙ったまま、ぼんやりと揺れる陽光を眺めていた。

「——貴方に、お願いがあります」

 ふわふわとした静寂な空気を破ったのは、少女の平坦な声だった。

 少女の声には抑揚がなく淡々としているせいで、酷く無機質なものに聞こえる。それがなおの事、生きている筈の少女に、作り物の様な違和感を与えていた。

 けれど、彼は医者で、大人で、常識人を自負していたため、患者で、子供で、未成年らしい少女の話を聞くことにした。

「……聞くことだけはできるけれど、叶えることはできない可能性がある」

 大人らしい無難で言い訳を用意した返答。それが分かっていても少女は自らの願いを口にする。

「——私を殺して欲しい」

「…………」

 予想の斜め上——というよりは天を突き上げる勢いの願いに、反応に困った医者は、顔を前に向けたまま横目でちらりと少女を見る。

 少女は体を傾けて医者の方を向いて、赤く染まったガラス玉の瞳で真っすぐに見つめている。

 無表情の少女は危うい雰囲気を纏っていて、医者には彼女を放置したままここを立ち去るという選択はできなかった。

「……どうして、……よりにもよって、俺に言うの?」

 本来であれば、どうしてそう思うのか理由を問うべきだったのだろうが、医者の口をついて出たのは、何故その願い事を自分に言うのかという、非難めいたものだった。

 そんなにも自分はやばい人間に見えているのだろうかと、頭の隅で思いながらも、一番先に出てきた疑問を口にしてしまった事に、内心頭を抱えてしまう。

「……貴方が私を生かしたから」

 心中穏やかではない医者に、少女は簡潔な返答をしてくると、その答えが呼び水となり、一気に彼の記憶が呼び覚まされる。

「……君、一週間ほど前に緊急外来に運ばれてきた子だね」

 基本的には彼は患者の顔を覚えない。良くも悪くも彼には重荷になってしまうと、理解しているから。名前や年齢、身体的特徴や数字などで患者を覚えて、出来るだけ患者の直接顔を見ないようにしている。そのせいか、周りからは人を覚えるのが苦手だと思われているが、彼にとってはむしろ都合がいいのでそのままにしている。実際看護師たちはそれとなく彼のことをサポートしてくれるおかげで、今までさしたるトラブルは無い。

 けれど、そんな彼ではあったが、少女の事はぼんやりと記憶の隅に保存されていた。

 たまたま彼が当直で対応にあたった。それだけならば、いつもの様に適切な処置をして、流れ作業として別の担当医に受け渡して終わるはずだったのだが、同時に聞かされる少女の情報が原因で、彼女の姿ごと記憶の中に保存されてしまった。

 ……なんて未練がましいのだろう。

 そんなことを思いながらも、医者は記憶に合った情報を声に乗せる。

「火事で運ばれてきた。軽度の火傷と、煙を吸って呼吸困難で運ばれてきた」

  火傷自体は酷くはなかったのだが、大量に煙を吸ったせいで血中の酸素の濃度が低く、放っておけば拙い事態になっていた。

「……せっかく拾った命だから、大切にした方がいい」

 十人並みな言葉に、少女は僅かに顔を顰めた。わずかだが浮かんだ表情に、医者は彼女が人形ではないと、当たり前のことにほっとした。

「……生きたくても生きられなかった人の事も考えろ、とか続けないよね?」

 何かを言い聞かせる際の常套句。

 ——それを望んでもできなかった人が居るのだから。できていることに感謝をしろ。子供の頃に、年寄りに言われてイラっとした言葉を自分が選択肢の中に入れていたことが、医者には空しく思えてしまう。

 その言葉を使わずに済んだことを感謝しつつ、彼は少女に向けて自分なりの本心だと思う言葉を向ける。

「俺が救った命だから、生きて欲しい」

 自分勝手で身勝手な言い分だろうが、彼にとってはそれが全てだ。

「自分がした行為を台無しにされるのは、誰だって嫌だろう。少なくとも人としては間違っていない行為なんだから」

 医者は視線を前に戻して、半分以上沈んだ夕陽を意味もなく見つめている。

「……私は生きたくないのに?」

「……ああ。それに、大体の人間は、他人の都合に振り回されて生きているものだ。それと折り合いをつけて、妥協して生きている」

 少女は不満そうに口元が僅かに歪む。

「……君も、もうじき分かるさ」

「分かりたくない気がする」

 顔を俯けて膝の上にのせた自分の手に視線を落としながら、少女は小さくため息を吐く。

「俺は意外と悪くないと思うがな。行動マニュアルを渡して貰えるようなものだ。最初から道筋だっている方が分かりやすいだろ」

 そもそも本当の意味での自由など、社会には無いし、共存は無理だ。どんな集団社会も何らかのルールはある。それがあるからこそ、他者と生きてけるのだから。

「ついでに言えば、法的にも無理。俺は捕まりたくない」

 正直に言って醜聞になりそうな事をさらりとぶっちゃける医師に、少女は訝しそうにする。

「……それだと、捕まらないなら良いって事?」

「良くないな。俺は、たぶん罪の意識に耐えられないからな」

 人殺しなど、一般社会で常識と共に普通に生きてきた人間には、精神的に無理だろう。人によっては気にしないのかもしれないが、少なくとも小心者である彼には無理だった。

「……でも、医者は人の生き死に関わる仕事でしょう?貴方のせいで死んじゃう人もいる筈でしょ」

「……ああ、いるな。そのたびに罪の意識が、雪みたいに降り積もっていく」

 医者は万能ではない。助けられる命も助けられない命も確かにある。

「警察とか、弁護士とか、検察官とか。人の生き死にに関わる仕事は、きっと多かれ少なかれ、罪悪感と戦っていると思う。まったく気にしない奴らもいるだろうが、むしろ、それは少数だろう」

 罪悪感という名のモラルが、社会を維持するために必要なのは確かだ。法的な罰も、罪悪感という名の精神的な罰も、両方があるからこそ人は罪を犯さないように生きていく。

「……逆に聞くけれど、どうして死にたいんだ?他人にそんなこと頼むのはリスク以外ないと思うが。……医者が言うのは憚れるけど、死にようなら幾らでもある」

 人間の体は汎用性は高いが、脆く弱い。知識をつけて色々できるようになった代わりに、野生の動物たちに比べて、肉体的に精神的に脆くなった。

「——天国に行きたいから」

 少女の声は僅かにだが震えている。冗談でも噓でもなく、彼女の本心なのだろう。零れそうになる感情を必死に抑えて言葉にしている。

 その姿は年相応に見える。薄い青色をした病院着から覗く首も手首も細く、華奢な体は弱々しい。

「自分で自分を殺したら、天国へは行けないの。……お母さんが言ってたから」

 少女の家、もしくは母親はキリスト教を信仰していたらしい。

「——そういえば、問答無用で地獄行きだったか……。現代人と一昔前の侍達には優しくないな」

「お父さんとお母さんは、毎日お祈りを欠かしたことは無いし、日曜日には近くの教会のミサにも毎週通っていた。夏休みとかには家族でボランティアにも参加していた。だから、きっと二人は天国へ行ったはずなの」

 気づくと少女の手は膝の上で祈るように組まれている。

「私は偶にミサをさぼっちゃった事はあったけど、お祈りはお母さんたちと毎日お祈りをしていた。隣人を愛せたかは分からないけど……」

 多感な年頃であれば、宗教に疑問を思ったり、周りと比べたりするものだろう。少しだけ面倒なったり、友達との約束を優先させてしまう事だって責められない。

「お母さんもお父さんも祈りを欠かさなければ、それで良いって言ってくれていたの。大人になっても、……私が神様を信じているなら、祈り続けて欲しいって」

 カタカタと少女の体が小刻みに震えて、組んだ指先が肌に食い込むほどの力が込められている。表情は薄いが、声には激しい嘆きと怒りが込められている。

 それが溢れてしまうのを必死に押し留めている。それが溢れてしまえば、少女は激情のまま行動して、後悔をする暇もなく終わってしまう。

「どうして……!神様は、お母さんとお父さんを守ってはくれなかったの……?それとも——私が、神様を疑っていたからいけなかったの……?」

 突然起きた理不尽によって、奪われてしまった大切な家族。平穏な温かな日常。それを奪われるほどの大罪を犯したのかと、少女はどうしようもない現実に嘆いている。

「……そういえば、神は越えられる試練しか与えない。とかいうの、昔、他人に言われたことがあるなー」

 少女の訴えに水を差すような、ぼやくような力のない台詞を口にしながら、医師は背もたれに後頭部を乗せて、暗い空に輝く宵の明星を見上げる。

 それを聞いた途端、少女の震えがぴたりと止まる。

「そもそも当事者にしてみれば、どう足掻いても死からは逃れられないし、その遺族も下手すれば一生引きずる。周りに気を使わせるのが嫌で無理に取り繕っていると、もう乗り越えたとか。失礼な奴は不謹慎だとか言うんだ。むしろ四六時中暗い顔している奴とつるみたくないし、被害者遺族は、ずっと暗い顔していないといけないのかとか。じゃあ、どういう顔をしていたら満足なんだとか。……不満なんて幾らでもある」

 少女が空ろなガラス玉みたいな瞳に医者を映しながら、彼の草臥れた横顔を窺い見る。

 少女は自分が医者の顔を動画ではなく、静止画としてしか覚えていないことに、今更気が付いた。

 沢山の煙を吸って朦朧としていて、ぼんやりとした光景しか見えなかった。がやがやとした聞き取れない音が飛び交う中、彼女に顔を近づけて、目を覗き込んできたのが目の前にいる医者だった。

 幸いと言っていいのかは分からないが、痛みは殆ど感じなかった。むしろ治療が終わって意識を失い、次に目が覚めた時が一番痛かったし苦しかった。

 容体が落ち着いて、両親が亡くなったことを聞かされた時が、精神的に一番辛くて痛かった。

 きっと両親も自分の様に怪我をして動けないのだと思っていた。……思おうとしていた。

 見舞いに来る親戚や医者や看護師達に、両親のことを尋ねても、今は会えないと曖昧な答えしかくれなかった時点で、薄々は察していた。嘘を吐かれるよりは遥かに真摯な対応だったとは思う。けれどはっきりと言われるまでは、信じないように言い聞かせていた。

 担当医に真実を伝えられ、飲み込んで、自分の中で消化されて、耐え難い精神的な苦痛に苛まれた時、幼い頃に母親に聞かされた天国の話を思い出した。

「お母さんが言っていたの。人間は死んだら天国に行くんだって。けれど、悪いことをしたら地獄に落とされてしまって、先に天国にいる両親には会えないんだって」

「だとしても、今すぐ行かなくてもいいじゃないか?その話は、あくまで天寿を全うした後の話を想定しているだろう。経験則だが、その苦しみは一応は区切りがついて、たまに発作みたいに苦しくなるが、耐えられないほどではない。もう少し生きてから天国へ行ったらいいんじゃないのか?」

 正直、医者はそういった宗教観を信じてはいないが、あくまでそれを前提に話を続ける。

「——天国に行けなかったら?」

 少女が縋りつくような目で医者のことを見ている。今まで何度も患者から向けられたものと、同種の筈だというのに毛色が違う。

「大人になって罪を犯して、天国へ行けなかったら?」

 少女は絶対というものが無いことを、痛いほど知っている。つい最近に味わって、その痛みと苦しみから抜け出れていない。

「……私は悪い子なの。きっともう、本当の意味で神様を信じることはできないの。だからきっと、年をとればとるほど、罪が溜まっていってしまう」

「——だからその前に若いうちにか?というか、それって大前提として、俺が人殺しの罪を背負うよな?」

 大して信仰心が無かろうと、人殺しはいただけない。先ほども言った通りに医者は罪悪感に耐えられないと繰り返す。

「大丈夫よ。自己犠牲は尊ばれるし、貴方はお医者様だから、これから先も贖うチャンスは幾らでもある。知識もあるし、上手くやればいい。時間差トリックとかアリバイ作りなら、私も手伝うから」

 医者と患者は二に三脚で協力をして病を治すというが、こんな共同作業は大概の人間はお断りだろう。

「とりあえず、怪我を治して、社会復帰しろ。そして学校へ行って学んで、大学へ行け。そして医者になればいい。駄目でも看護師でもいい。むしろ俺はそちらの方が人出が増えて嬉しいが……」

 少女はきょとんとした表情で医者を見ていた。年相応のあどけない表情に、彼は内心で安堵した。

「今、お前自身が言ったことを自分ですればいい。自己犠牲でも何でも、誰かを救う行為をし続ければいい。そうして最終的にプラスに傾いていれば、それで良いんだ」

 医者から返された暴論は、少女の中ですんなりと欠けていたパーツを補い、形を作っていく。

「……でも、私、医者にも看護師にも、なれるかどうか分からない」

 少女は遠くに輝く星のように、朧げに歩く道を探し始めている。

 気が付くと少女が先ほどよりも身を乗り出しているせいで、医者との距離が近い。彼女の瞳に映る医者の姿がはっきりと見えた。

「別に人助けをする仕事は幾らでもある。教職だって、将来優秀人材を育てる職業だ。間接的に人を救う事だってできる。神様だって、それぐらいの融通をきかせてくれるはずだ」

 正直どこまでが人助けで、善行に分類されるのかは分からない。けれど、正しく在ろうと人に優しく在り続けながら、生きがいを持って生きていけば、よほどのことが無ければ悪い人生にはならないはずだ。

「だから、無理に、今どうこうする必要はないだろう。——最悪、お前が地獄一直線の罪を犯した際は俺の所に来い。……せめて後期高齢者になってからな」

 少女は淡い赤色を映した瞳を瞬かせる。

 気が付けば薄明がぼんやりとあるだけになっていた。医者は体感時間よりも、時間をくってしまっている事に気が付き、精神的な疲労が全く取れなかったことを嘆いて天を仰ぎ見る。

「あー……だからな、あれだよ宗教戦争。十字軍。聖戦」

 少女はいきなり出てきた宗教の歴史の単語に、きょとんと首を傾げている。

「宗教戦争は言ってしまえば異教徒狩りだ。人の命を奪っている。けど、昔の宗教的にはセーフだ。殉教は基本的には天国行きだ。むしろ、鎖国をして禁教を強いていた時、半ば殉教目的で外国からやって来ていたぐらいだ。幸い俺は浄土真宗。まあ、ほとんど信じてはいないが、一応仏教徒だから異教徒だ。俺を改宗させようとして、俺に断られて殺されれば立派な殉教だろう?」

 かなり強引な解釈に、少女は呆れたようにクスリと笑う。

「お医者様の方が年上だけど?」

「あー……。まあ、八十歳ぐらいまでは何とか生きるつもりだから、あんたがギリギリ高齢者になるぐらいまでは大丈夫だ。……多分」

 将来のことは分からないが、とりあえず医者は不摂生を少しは正そうと思いながら、最大限の努力はすると少女に約束する。

「……本当?お医者様。とっても顔色が悪いし、隈もすごい。私より病人みたい」

 医者の顔色を窺うように、少女が体を横にずらして近づいてくる。思わず医者は後ろに下がろうとしたが、すでに端に座っているため逃げ場はない。

 目の前まで近づいてきた少女は、医者の前に自分の小指を差し出してきた。手の形と状況から、彼女が所謂指切りげんまんを望んでいる事を察した医者は、困ったように頭を掻きながら、空いている方の手を差し出す。

 差し出されたささくれ立った男の小指に、白くて細い少女の小指が絡まる。

「……指切りげんまん。嘘ついたら針千本飲ーます。指きった」

 抑揚が少ない声でお決まりの台詞の最中に、心なしか針千本の所で少女の小指に力が入った気がするが、医者は何も気づかなかったことにする。

「お医者様は仏教徒なの?」

 少女は自分の小指を見つめながら聞いてきたので、医者は軽く頷いて肯定する。

「と言っても一応だな。日本人は基本的にどこかの宗教に属していると思うぞ。じゃないと行事の類に困るからな。基本的には親が入っていて、流れでそのまま入る感じが殆どだろうな。葬式とか法事とか困るしな」

 フーンと興味があるのか無いの分からない相槌を打ちながら、少女は顔を上げて医者をきらきらと楽しげな眼で真っすぐに見る。

「じゃあ、宗教戦争の前段階として、私が色々と教えてあげる」

 宗教に興味のない医者は口元を引きつらせる。宗教勧誘を少女から受けるのは、何かあれな気がしてならない。

「……いや。俺は、いい。そもそも何で浄土真宗が多いかというと、念仏唱えれば救われて、極楽浄土に行けるという文言のおかげだからな。俺は短い念仏で十分だ」

「仏教も悪くないけど、宗教の改宗を求めて戦わなければならないんでしょう」

 結局この後、戻らない医者と少女を探しに来た看護師によって、第一回目の戦いは終幕を迎える。


 少女はお礼を言ってタクシーに乗り込んだ後も、ずっと手を振っていた。

 少女は親戚を保護者として、カトリック系の寮の付いた学校に入ることにした。保護者を引き受けてくれた親戚は、生前に少女の両親に世話になったそうだ。実際にしっかりしていた親だった様で、何かあった時のために遺言状も弁護士に預けれていたそうで、少女が成人するまでしっかりと面倒を見てくれるそうだ。

 医者はあれから偶に屋上で少女と顔を合わせて、退院するまでの間話し相手になっていた。元々、冷静沈着で賢く落ち着いた少女だったらしく、少しずつ自分の心との折り合いをつけていった。まだ時折悪夢にうなされる事もあるため、暫くの間はカウンセリングに通いながら日常生活に戻っていくことになった。

 担当医でもないのに少女の退院の場に彼が居るのは、少女が彼に懐いているのが共通認識として浸透してしまったせいだった。彼が少女の緊急での処置に当たったことは皆が知っており、彼自身その辺りは気を付けたおかげで、あらぬ疑いをかけられることは無かったので、ようやく胸をなでおろした。

 医者としても、あれは一時期の少女の迷いとして片づけることにしていた。

 退院するまでの間に、携帯端末の番号やアドレスを抑えられたのは痛かったが、今の所、常識の範囲内の連絡しか交わしていないので、せいぜいネット上の友達みたいなものだろうと思っている。

 医者はいつもの様に屋上の扉を開けて、決まったベンチに座り、缶コーヒーを飲む。

 最終的にプラスならそれでいいと彼は言ったが、実際の所、自分がプラスの方に傾いているのかは分からないでいる。

 結局の所、彼はこれまで一度も自分のことを許せたことは無かった。少女に生きていて欲しいのも自己満足のためだ。

「……本当に浅ましいな」

 彼はそう言って自嘲して、昔のことを思い出す。

 ——あの少女と同い年の妹。そのまま人生を終えてしまった。理不尽な終わりを迎えてしまった。

 誰が悪いと言えば、通り魔殺人を起こした犯人が悪い。

 たまたま一緒に外出していた彼と妹が、その場に出くわしてしまっただけの事。それだけの事で、妹は理不尽に命を奪われたのだ。

 彼は恐怖で身がすくんで動けなくなり、目の間で妹が刺されるのを見ているしかできなかった。

 誰も彼を責めなかった。仕方がなかったのだと。

 恐怖で動けず、刺された妹を呆然と見ているしかできなかった彼を誰も責めなかった。

 けれど、彼が彼自身を許すことができなかった。

 あの時、どうしてとっさに犯人に体当たりをするなりして、妹を庇うことができなかったのだろう。どうして倒れた妹の傷を止血するぐらいの事ができなかったのだろう。ただ茫然と妹が血の中に沈んでいくのを、見ているしかなかった自分。

 悔やんでも悔やみきれず。誰かが彼は悪くないというたび、彼は彼を傷つけ続けた。

 医者になったのだって、結局は罪滅ぼし。贖罪。いや、彼自身が生きていくための、生きていく事を許すための代償行為でしかない。

 彼は人を救うことで、自分が生きていくための許しを得ているに過ぎない。故にそれに終わりはない。これから先、彼が生きていく間、ずっと続く責め苦。

 それは自分だけのもの。自分だけの罪。そこに誰かを介在させるつもりはない。

 ない筈だというのに、少女の顔が時々浮かぶ。ガラス玉のような目の人形のように生気が無く無表情だった少女。気が付けば花が綻ぶように笑い、目をキラキラさせて彼に話しかけてくる少女になった。

 おかげで興味のない宗教に詳しくなってしまった。

 それを見ていると思い出してしまうと、自分が許されるのではと思ってしまうのが苦しい。

 彼はこの仕事を天職だと思っている。何故ならば、ずっと生と死がずっと介在している。ずっと肌で感じて罪を忘れないでいられる。

 自分の持てる全ての能力を持って挑み、患者や家族に、時には感謝され、時には責められて。

 ——けれど、少女は彼に囁くのだ。

「お医者様が罪を贖えない時は言って下さい。私が一緒に背負って贖って見せます。毎日祈りますね。私と両親とお医者様のために」

 ——けれど少女は微笑むのだ。

「お医者様。私より長く生きてくださいね。大丈夫です。——最後に天国へは二人で行ければいいんです」

 少女は彼に甘言を囁き、彼に自分を許すように促してくる。

 もしかしたら、彼が改宗する日が訪れるのかもしれない。

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