第7話 失恋
ぼろぼろでたどり着いた週末、私はようやく慣れてきた〈珈琲卜部〉のバイトをズル休みした。
前日仕事帰りにデパ地下で買った憧れのスパークリングワインを、昼間からポンっと景気良く開けて、夢の国の黄色いクマのキャラクターのマグカップに並々とつぎ、グイっと飲む。うわああ、美味しい。ツマミなんていらない。
仕事があって、特別なお酒を買える給料を貰えて、優しい両親と弟もいる。
「そんなに悲観しないでいいんじゃね?」
ゴクゴクと一気に飲み干すと、少し頭がゆらゆらする。でも構わない。自宅だもの。クリーム色のパイル地のワンピース部屋着のままバタッと倒れて寝ようと自由。トイレも這って行ける。
いつのまにか一本空けていて、もう一本ポンっと開ける。マグの中でシュワッと弾ける。口の中でパチパチ音がして……うん、白も美味しい。一人でも十分美味しい。
一人でも、十分。一人でも大丈夫……。
◇◇◇
しつこいインターフォンの音で目が覚めた。いつのまにか撃沈していたようだ。窓の外はもう真っ暗。カーテン閉めないと。
ピンポンピンポンとまだ鳴っている。
電気もついていないのに、なんで在宅と思うのか? やがてドンドンとドアが叩かれはじめた。ウソ? 諦めてくれないの? 私は立ち上がるなりよろけて壁に手をあてた。ズキンと後頭部に痛みが走る。もう二日酔いがスタートしたみたいだ。よろよろと壁に固定してある受話器を取る。
「……はい」
『なっちゃん?』
「……どちらさま……ですか?」
『大和だよ』
大和って……大和さんだろうか?
「……は? 何で?」
『無断欠勤したから、様子を見にきた』
……そうだった。大和さんは私のしょうもない悩み相談を全部聞いて受け止めてくれるほど、善良な人だった。一本電話さえ入れておけば、心配させずにすんだのに。
でも、どんなに良い人でも、今は会いたくない。当分会いたくない。
「あ……すいません。明日も休み……ううん、バイト辞めます。お世話になりました。じゃ」
『なっちゃん、バイク飛ばしてきたからすっごい疲れてるんだ。ひとまず開けて!』
何で開けないといけないのか頭が回らないけれど、大和さんには出会って以来お世話になりっぱなしなのは間違いなくて……そして今の声……なんだかとっても怒っている?
私は観念して、壁を伝って玄関に行き、鍵を開けて渋々ドアを開いた。
「なっちゃん!」
「……はい?」
大和さんが勢いよく入ってきて、バタンとドアを閉めた。
「……酔ってるの?」
「……はい」
それを否定するほど肝はすわってない。
「いつから飲んでる?」
「うーん……掃除機かけて……お昼過ぎかな?」
『大和……』
碧子様が唐突に現れて、ふわふわと大和さんの肩に降りた。今日は見なかったから山里の実家に戻ったのかと思っていた。私のメイク講座前のように顔が白い。
肩に怨霊乗っても平気な大和さん、改めてすごいなあ、とぼんやり思った。
「……真面目な那智が連絡なしで来ないから何事かと思えば……そういうことか。……なっちゃん? 何か今日は食べた?」
「えっと、どうだったっけ」
どうでもいいから覚えていない。
「俺、お腹空いた。冷蔵庫開けてキッチン使っていい?」
「へ? ん〜どうぞ〜」
私はふらふらと大和さんを招き入れ、自分はクッションに再び丸くなった。
パチっと音がして、電気をつけてくれたのがわかった。
「……ちゃん、なっちゃん、出来たよ。さあ食べよう?」
また眠っていたらしい。体を起こすとテーブルの上にキャベツとツナ缶のパスタと、鶏肉をこんがり焼いたものが載っていた。
「……わあ、すごい! うちのやっすい食材でもプロの料理ってできるんだねえ。でも私、今食べるよりも飲んで寝たいからほっといてください? 大和さん自由に食べて?」
私はそう言って、マグカップに手を伸ばし、グイッとあおる。まだガスは抜けていない。
「なっちゃん、丸一日酒しか胃に入れてないって碧子様が言ってるし」
そうだっけ?
「せっかく俺が作った料理を食べ残すなんて、怒っちゃうよ?」
「えー?」
大和さんが鶏肉を一口分フォークで刺して、私の口の前に突き出す。私はしょうがなく口を開けてパクッと食べた。醤油と……何かわからないスパイスが利いている。
「……すっごい美味しい。大和さん天才」
「だろう? 残さず食べようね」
そうは言ってもそもそも食欲なんかないわけで……大和さんに差し出されるまま二口づつ食べたら、満足した。
「ご馳走さま」
私は再びスパークリングワインの入ったマグを口に運ぶ。
「なっちゃん……」
「あ、大和さんも飲む? 美味しいよ! これね、いつか大好きな人と一緒に素敵なロケーションでロマンチックに飲みたいって思ってたやつなの。ロゼは全部飲んでただ今白です。へへへー。はあ、短い間でしたが珈琲卜部、お世話になりました! たくさんご馳走になったのでバイト代いりませんので。ふふふ」
大和さんは無言で立ち上がって、キッチンからグラスを持ってきた。スパークリングワインを手酌し、グイッと飲んだ。
「……ほんと、美味しいね。2013年モノか……。それでウチのバイト辞めて、どうするの?」
「どーもしない。これまでどおり。きちんと働いて一人でのんびり生きていくよ」
叶わなかった恋を抱えて……チラリとその想いがよぎると、ブワッと涙が噴き出した。焦ってそばにあったタオルで拭う。
「なっちゃん!」
大和さんが珍しく慌てた声を上げた。
「ヤダ……恥ずかしい……見ないで……」
「……なっちゃん。ここで放り投げるの? 呪いを払うこと諦めるのか?」
大和さんの声が、また落ち着いたものに戻った。それが逆に私の癇にさわる。
「もう……ほっといて」
「加賀さんや他の知り合いが、今、章嗣の子孫を探してくれてるよ?」
「もういいの! ……私が一人に慣れれば……誰も好きにならなければいいことだもん……」
「……それは困るね」
大和さんは私の両肩に手をおき、私の体を起こした。そして真剣な顔で私の視線を固定した。
「なっちゃん、辛いことがあったってわかる。でもここは食いしばって頑張れ。初めて俺の店に来た時、何て言ったか覚えてる?」
「…………?」
「弟が、好きな相手と結婚できるように、真剣にこの問題にケリをつけるって言ったんだ」
「ああ……」
うちは家族仲がいい。呪いの苦しみは、家族にしかわからず、否応なく絆を強くした。
「斗真くんも、那智と同じ目にあってもいいのか?」
「何でそんな……酷いこと言うの?」
涙が止まらない。
「那智、斗真くんのために頑張れ。俺も付き合うから。俺に泣いて、あたっていいから!」
無理よ!
「だって! もう私のこと好きじゃないんだよ? あっというまに両想い、終わってた……もう他の女の人と……」
私は悲鳴のような声で訴えた。
「もう……苦しい……」
「大丈夫だ。俺が必ず祓ってやる。だから踏ん張れ。那智が依頼してくれなきゃ俺は制度上動けない。那智、オレに任せなさい!」
「嫌、嫌、もう、何もかも忘れたい」
「全て終わったら、全て忘れられるほど、楽しいご褒美用意してやるから。そうだ。このマグのランド、一日貸し切ってやろう」
「そ、そんなこと、できっこない」
「できるよ? お得意様だ」
夢の国にも、怨霊がいるのだろうか? まあそういうアトラクションはあったけれど……。
「……大和さん、何で……高山の呪いにそこまで肩入れしてくれるの?」
「……那智はようやく入ったバイトだからね。大事にします」
「お客さん来ないくせに、変なの」
涙でぐしょぐしょの顔を大和さんが自分の胸に押し付けた。
「さあ、いっぱい泣いて、少し寝とけ。起きたらスッキリしてる。オレと碧子様が付いている」
大和さんは私の背中を不思議なリズムで摩り、耳元で何か囁いた。
私は急激に体の力が抜けていき、酔っ払いらしく目を閉じた。
◇◇◇
『……どうすればいいの。私はあと何度、那智の慟哭を聞かねばならぬ?』
「わかってます。この依頼は……もはや俺の問題だよ。呪いを祓わねば……那智は頑なに恋をしない」
大和は親指で、那智の目尻の涙を拭う。
「それに、恋をしたら俺が忘れる? そんなこと、俺がさせるわけがない」
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