第34話

 

 ▪️飢餓


「……ん」

「あら、起きたの?」

「ここは……わたしは……」


 白髪の少女は現(うつつ)から目覚めた。

 エドナの膝の上で寝ていた少女は彼女の顔を見て一瞬驚きを露わにしたが、自分に向けられた優しい表情を見て僅かな安堵を示した。

 黒い外殻が剥がれた身体は傷だらけで、声もどこか掠れている。


「あなた、今の自分の状況を理解できるかしら?」

「……自分の、こと?」

「ええ、暴れーーーーいえ、今までの記憶はある?」

「記憶……今までの」


 少女はゆっくり瞳を閉じ、真っ暗な闇の中で己の記憶の残滓を反芻しようとした。しかしその刹那、激しい頭痛と共に身体を捩(よじ)らせる。


「ううッ……!」

「ちょっと、大丈夫!?」

「ん……平気」


 自らを抱き締める様にして起き上がると、少女は煤のついた頬に触れながら瞳を開いた。鮮血の様な瞳が虚に揺れると、途切れ途切れになりながら言葉を紡ぎ始める。


「わたしの、名前は……如月(きさらぎ)、莉緒(りお)。きっと、こことは違う……別の所から、連れてこられた」

「如月莉緒……うん、莉緒ちゃんね」


 エドナは莉緒と名乗った少女の頭を撫でながら続けた。


「別の所、つまり他の大陸ということ?」


 確かに髪色や肌質が随分と違う。

 白い髪に色白の肌だと北の【グレイスフル大陸】辺りだろうか。


「……ううん、多分、違うと思う」

「違う?」

「うん……きっと、別の……世界だと、思う」

「別の世界ですって!? じゃあ、あの勇者と同じって事?」

「ゆう……しゃ?」


 異世界から来訪した勇者の話は大陸全土に広まっている。ケーニッヒオーダーもその情報は得ていたし、ロッドの腕試しの相手として勇者である柳条楓矢もリストアップされていた。


「俄には信じられない話よねえ。確か勇者は異世界からの転移とも呼ばれているけれど……」

「……ゆうしゃ、転移ーーーーううッ!?」

「莉緒ちゃん!?」

「ゆうしゃ……頭が、痛い!!」


 勇者と口にした瞬間、莉緒は頭を抱えて呻き声を上げた。暴れる莉緒を必死に押さえるエドナ。しかし痛みは増すばかりらしく、エドナを押し飛ばして地面に蹲る形となった。

 顔は苦痛に苦痛に歪み、脂汗が額に浮かぶ。


「あ……ああ、ひぐッ!」

「莉緒ちゃん!」

「どけエドナ」

「ロッド!?」


 エドナを押し除けると、近くで不貞腐れていた筈のロッドが莉緒に近付き、彼女の視界を乱暴に手で覆い隠した。


「こら暴れんなって、少しジッとしてろ」

「あ、うああッ!」

「ちょっと乱暴しないでよ!」

「いいから黙ってろ」


 抑制も聞かずにロッドは莉緒の視界を閉ざし続けた。殴られようが蹴られようが、気にも止めず、ただ黙って視界を覆い隠すばかり。


「……う、うあ」

「いいぞ、そのままだ」

「…………ん」

「よーしいい子だ。そのまま大きく息を吸って吐け」

「……すう……はあ」

「……落ち着いたか?」

「……う、ん」


 そっと手を退けると、目を半分ほど開いた莉緒はコクリと頷いた。


「ウソでしょ? 粗暴で馬鹿なロッドのクセに」

「ああ? 見た通りだろうがよ。俺だってこの位なあーーーー」

「なんだロッド、その宥(なだ)め方、まだ覚えてたんだな?」

「んげ、ガルドてめえ!」

「ガルド知ってるの?」

「あー! あー! 黙ってろよガルドお!」

「知ってるも何も、俺達を育ててくれた人がロッドにやっていた方法だよ。粗暴な奴を落ち着かせるには最適らしい。もっとも、コイツは手に噛みついていたがな」

「……ふうん? 聞いたことないわねその話は」

「何でもかんでもいちいち説明する訳ねぇだろ!」

「あっそ。それよりガルド、どこ行ってたの?」


 見ればガルドの肩には大量の荷物が詰まったリュックが背負われていた。その量たるや、旅支度のそれに近い。


「食材と服だ。その子……ええと」

「……如月、莉緒」

「莉緒か、変わった名前だな。それより服が無いと不便だろう。俺のセンスで悪いが、無いよりマシだと思うぞ?」


 リュックの中から一着の服を取り出した。首元とスカートの端にはレースがあしらわれ、黒を基調としたワンピースだった。


「あり……がと」

「あら素敵じゃない」

「そうか? それは良かった」

「ははッ、お前の趣味はほんと謎だよな。自分は布切れでも文句言わないくせに、他人の事になった途端これだもんよ」

「似合うものを選んでいるだけだ。俺はこれでも気に入っている」


 自分の服を一瞥して眉を顰めた。


「街には買い出しに行ってたのか。じゃあ人化のスキルを使って街に入ったのか?」

「ああ、この辺りじゃあ亜人はまだまだ珍しいだろう。下手な騒ぎは起こしたく無いのでな」


 人化のスキルは主に亜人が覚える事ができるものの一つだ。顔を人間に寄せたり、骨格もある程度なら矯正できると聞く。

 魔族の血が濃い亜人はスキルボードが使えないが、その一部だけを体得する事が出来る。多くの知性の高い亜人は人間との共存を望み、結果として人化のスキルを好むとされていた。


「流石にクルーアルシュリンプだけでは寂しいからな。何よりオルクスが張り切っている。どうせなら俺達も美味いものが食いたいしな」

「そういやあの野郎、ずっと料理してんのか?」

「言われてみればそうね。こんな場所なら火を起こして焼き料理くらいしか出来ないでしょうけれど」


 遥か視界の先で屈み込む背中が見える。

 火は既に起こしているが、いつの間にか大量の食材の仕込みをしていた。ガルドは買い込んだものを手渡すと、下処理を終えた魚に視線を落とす。


「ほほお、これは【グンメダイ】と【ガガグルン】だな。素手で獲ったのか?」

「ああ、釣りの道具なら簡単に作れるからな。クルーアルシュリンプの身を少し使えば釣るのは簡単だ」


 食座の現地調達は冒険者の基礎だ。

 当然、Sランク冒険者であるオルクスにとって落ちている素材を用いての釣りなど朝飯前である。


「身を開いて塩をすり込み水分を飛ばしてある。焼くだけでも美味いぞ」

「それは楽しみだ。俺は魚が好物でな」

「肉の方が好みだと思ったが……」

「はは、見た目で決めてくれるな。よく言われるがな」

「この荷物は?」

「好きに使ってくれ。肉と簡単な香辛料、それに油も買ってきた」

「助かるよ。これがあればレパートリーが増やせられる」

「俺も少しは料理を嗜むのでな。役に立てたなら幸いだ」

「へえ、それも意外だな」

「少し見ていてもいいか?」

「ああ、好きしてくれ」


 遠くから見ていたエドナは、微笑ましい光景に目を細めた。


「ガルドもあんな顔するんだね」

「ああ? まったく、腑抜けたツラしやがってよ」

「戦闘時のガルドはガルドらしくないじゃない。私はあっちの表情のが好きよ?」

「…………」

「どうしたのロッド、もしかしてヤキモチ?」

「違えよバカ」

「?」


 ぐううううう。


「ちょっとロッド」

「俺じゃねえよ」

「え?」

「ごめ……わたし」

「ぶははははッ! いいじゃねえか生きてる証だ。おーいオルクス! 早くしろ姫が腹を空かしてんぞ!?」

「……姫?」

「好きに言わせてあげて。あの馬鹿、なんだか楽しそうだし」


 悪戯げにエドナは笑う。莉緒もつられて頬を上げた。


「あら素敵な笑顔ね」

「……そ、う?」

「莉緒ちゃん、笑うととっても素敵よ」

「エドナも、キレイ」

「ふふん、当たり前でしょ」

「お前ら、つまんねえ話してないで行くぞ、つまみ食いしにな」

「馬鹿、オルクスに怒られるわよ?」

「んじゃまた喧嘩だ」

「残念、オルトロスは隠してあるから無理よん」

「!? ホントだいつの間に!」

「さて、私達も何か手伝いましょうか」

「う、ん」


 エドナ達の背に視線を結んだまま、莉緒は徐に自らの黒いスキルボードを開いた。

 そこに記された【魔王】の文字を見据え、腹の奥で疼く異様な感覚を噛み締める。


(わたしは……わたしは)


 込み上げる負の感覚を必死に嚥下しつつ、赤い瞳を揺らして顔を上げた。


(これから、どうすればいいの?)

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