無名王国の影
旗尾 鉄
ある司祭の回想
第1話 雨宿り
この季節にしてはやけに冷たい雨の中を、私は一人黙々と街道を歩いていた。
今朝、宿を出発した時には久しぶりの好天と思われたのだが、昼過ぎから雲行きが怪しくなり始め、今も徐々に雨足を強めながら止むことなく降り続いている。
たかが布一枚のマントで防げるものでもなく、全身がずっぷりと濡れていた。
私は町から町へと渡り歩く吟遊詩人である。
これから向かう予定の町では、毎年、収穫を祝う秋の祭りがおこなわれる。吟遊詩人にとって、祭りは稼ぎ時だ。
収穫祭は明後日。今日中に町に着いて、明日は様子見がてら準備を整え、明後日に備えたい。
そう思って道中を急いでいたが、あいにくの天気になってしまった。
雨に白く煙る前方の風景に変化が訪れた。
街道から左のほうへ伸びる、細い枝道が見えてくる。
この枝道は街道の左の林の中へと続いていくのだが、その林の手前、街道から五十メートルほど離れたところに、古びた小さな石造りの教会が建っている。
この教会は、毎年この街道を歩いて町へと向かう私の目印である。
ここから町まで、徒歩でちょうど二時間なのだ。以前、たまたま同行した商人の持っていた砂時計で測ったことがあるので間違いない。
例年ならここで一息ついて、さてあと少し、と元気を出すところなのだが、今年はこの雨である。まだ二時間も歩くのかと思うと、うんざりした気持ちになった。
ふと、教会のシルエットが去年とは少し違っていることに気づいた。
屋根や窓など、あちらこちら修繕されたらしい。
去年まで無人だと聞いていたが、修繕されたということはつまり、新しい司祭様が来たということなのだろう。
私も売れっ子とは言い難いが一応は吟遊詩人だ。
冷たい雨に打たれて風邪をひき、喉でも痛めてしまったら歌えなくなる。
頭の中で自分自身に対してそう言い訳をすると、私は街道を外れ、枝道へと歩を進めた。
教会の扉を叩くと、男の声で返事が返ってきた。
「どうぞ。鍵は開いています」
礼拝堂に入ると、司祭とおぼしき男性がゆっくりと立ち上がり、こちらへ振り向こうとしているところだった。
祭壇の前で跪いていたらしい。祈りの邪魔をしてしまっただろうか。
司祭は中年で、がっしりとした体格をしていた。神官用の白いローブを身に着けている。白髪が少し混じったこげ茶色の髪は短く刈られていた。
足が悪いらしく、左手に持った杖をつき、右足を引きずって、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
「はじめまして司祭様。私は旅の吟遊詩人でジャンと申します。雨が止むまで、しばらく休ませていただきたいのです」
「ようこそ旅の方。司祭のハロッドです。雨の中、大変だったでしょう」
ハロッド司祭は温和な笑みを浮かべ、快く迎えてくれた。
「まずはともかく、着ている衣服を乾かさないと。今日はなにやら季節はずれに肌寒い日だ。風邪をひいてはいけない。さあ、こちらへ」
司祭は先に立って、私を建物の奥にある厨房へと案内した。
質素な教会だから当然なのだが、厨房も質素な造りだった。
広さは三メートル四方ほど、小窓のあるほぼ正方形の部屋だ。中央に木製のテーブルと、椅子が三脚、あとは部屋の隅に食器棚があるだけ。
食器棚の反対側の隅には、かまどが設置され、火がちろちろと燃えている。
「火の気があるのはここだけです。冬になったら、ここで寝ようかと思っているのですよ」
司祭は軽く笑うと、かまどの脇の薪の山から乾いた小枝を数本つかみとり、火にくべた。
「さ、その椅子を火の前へ。濡れた服をひっかけて乾かすといい。遠慮はいりません」
私は司祭の厚意をありがたく受け取り、マントと上着、ズボンを脱いで乾かすことにさせてもらった。
そうしている間に、司祭はかまどで湯を沸かし、カップを二つテーブルに並べ、温かい飲み物の準備をしてくれた。
「自家製のハーブ茶です。温まりますよ」
「ありがとうございます。頂きます」
ハーブ茶が喉から胃へと流れていく。雨に冷えた体に、じんわりと沁みこんでいくような心地よさだった。
窓の外では、雨はまだ降り続いている。
私たちは椅子に腰かけてハーブ茶を飲みながら、明後日の収穫祭のことや最近の町の様子、私が最近訪れた他の町々の近況など、取りとめもなく雑談した。
「そういえば、司祭様はいつからこちらに? この教会は去年の秋に来たときは無人だと聞いていたのですが」
「今年の春からです。一人静かに祈りの生活をしようと」
「それはそれは」
「実は、私は若いころ冒険者をやっていましてね。他人を出し抜いたり、いろいろと過ちを犯したのです。その贖罪の意味もあるのです」
私は大いに驚いた。この物静かな司祭が元冒険者だったとは。だがそう聞くと、吟遊詩人としては黙ってはいられない。ちょっとした冒険譚や伝承をもとに膨らませた小話は、良い客つなぎになるのだ。古典の名作ばかりでは聴衆も飽きるのである。
私は司祭に、なにか昔日の武勇伝を語ってくれないかと頼んだ。
ハロッド司祭は少し考えていたが、やがて頷いた。
「いいでしょう。では一つだけ。私が冒険者を辞めることになった、最後の冒険の話をしてみましょう。なにかのお役に立てばよいのだが」
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