#25 引きずり降ろす
昼前、
昨日は何を思ったか、
何がきっかけかはわからないが、ひとまず幸樹が一歩立ち直ってくれたことに、香里は大きく安堵していた。
「幸樹?」
キッチンで買い出し荷物を収納し、香里は呼びかけてみた。
返事はない。
近頃よくいるリビングの一角に、体を丸めて座りこんでいる影はなかった。
「幸樹……?」
呼びかけながら香里はあちこちをのぞいた。階段を上がり、幸樹の個室をチェックして、ひっ、と声が出た。室内はめちゃくちゃだった。本棚が引き倒され、机は横倒し、椅子がひっくり返り、いろいろなものが無秩序にぶちまけられ……いつもの「発作」か。とんでもない惨状だが、もっと恐ろしいのは、それに慣れてしまった自分かもしれない。香里はそう思いつつ、防音室の扉が開きっぱなしになっているのに注意を奪われた。
「……ちょっと幸樹?」
いろいろなものをまたぎ越えて、香里は防音室をのぞいた。紙類が散乱している――幸樹は紙でも、パソコンやタブレットでも、作曲に使う。ほとんどの紙片にはリズム記号が殴り書きされ、そのおよそ3分の1はぐしゃぐしゃになっていた。丸められたり、引き裂かれたり。それがボツの証なのか、はたまた荒れ狂う気分をぶつけたためなのか。ピアノの足もとにクッションが放り出され、幸樹はその上に寝そべっていた。そばにペンと、いくつかの曲の音源データのメモリ。タブレット。ヴァイオリン。そして洗面器とタオル。麦茶のグラス。
「幸樹」
「んん……」
幸樹がようやく身じろぎした。
「どうしたの」
「……ちょっと」
間違いない。作曲中だ。香里はかがめた上半身を起こした。
「朝は食べたの?」
「…………いえ」
「食べなさい。いくら『降りてる』からって、体壊したら意味がないでしょ」
ごくわずかだけ、幸樹は顔を起こした。
「…………『降りてる』んじゃない。『降ろしてる』の」
「降ろしてる?」
「うん。引きずり降ろしてる。無理やり」
――吐きながら? 香里は洗面器とタオルに目をやった――今のところは未使用のようだ。
「……何を?」
「答えを」
幸樹はようやく起き上がった。
「香里さん。マスコミ、まだ表にいますか」
「いるわよ。まだ10人ちょっとくらいは粘っているかしら」
「…………オレ、会ってきます」
立ち上がる。香里は息をのんだ。
「会うって――」
「表の記者です」
「……何を話すつもり――」
「答えを、です」
香里に向けられた幸樹の笑顔は、脱皮したての成虫のように、濡れて痛々しかった。
「香里さん、新曲、大至急で発売したいんです。音は来週中に仕上げますから」
「新曲…………」
「宣伝は不要です。とにかく、販売するための最短ルートで。いつごろ発売できます?」
「……調整してみないとわからないわ」
「じゃ、お願いします」
幸樹は歩き出した。
「待って、何を話すつもりなの」
「新曲の宣伝です。心配なら、香里さんも来てくださいよ」
防音室から幸樹は出て行った。いろいろなものをまたぎ越す、慎重な足音が遠ざかっていく。香里ははっと我にかえり、急いで後を追った。
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