#17 奈落が開く
赤く染まった空を、太陽が休息を求めて傾く頃、ようやくその日のプロモーションを終えて、
このところ、
「新曲もなかなかいい感触だね」
神村に言われて、幸樹は軽くとまどった。
「まだまだ、だめですよ、こんなんじゃ」
ミラー越しに、神村がじろっとにらんできた。
「……謙遜と卑下は、違うぞ」
「はい……」
車が
「明日の午前中はオフな。昼前に永山さんが迎えに来ると思う。終わったら出張先に直行だから、旅行荷物持って出るのを忘れないように」
「はい」
翌日のことを確認してから、幸樹は車を降りた。
「んじゃ、おつかれさま」
「ありがとうございました」
神村の車を見送って、幸樹は登り道をぶらぶらと歩いて登った。プライベートの玄関で靴を脱ぎ、廊下に荷物を下ろす。リビングの固定電話にメッセージが入っていた。……伯母からだ。また連絡します、との内容に、幸樹はため息をついた。
父・射水
伯母を頭から追放し、麦茶でひと息いれた。
車内での神村とのやりとりを、思い出す。
……褒められるのは落ち着かない。称賛されるのは、何か違う気がしてしまう。
嬉しくない、わけではない。だが、……褒められれば褒められるほど、釣り合っていない気がしてしまうのだ。そんなに褒めてもらえるほどのことを、自分はやり遂げていない。もっともっとがんばらなくては、その称賛には見合わない。そんなにも褒められることに、かえって困惑する。
自分程度のレベルでそんなに褒められても、困惑する。
もっとできなくてはだめだ。
自分のようなだめな人間は、もっとがんばらないとだめなんだ。
けれど、どれだけ頑張っても、どれほどの成果をあげても、自分で自分を「よくがんばった」と認めてやれることはないだろうと、なんとなくわかる。
――奇妙な渇望。
それでも仕事に関して、メディアに紹介されるような場では、素直に「ありがとうございます」と言えるようになった。それだけは、事務所の人たちからしつこいほど指摘されたからだ。けれどもさっきの神村のように、気の抜けたところでああして褒められると、こんなんじゃだめなんです、と思ってしまう。
あんなにたくさんの人が、褒めてくれる。自分の演奏を、作った曲を、歓迎してくれている。
それなのに、大勢に褒められるほど、内心は焦ってしまう。
オレは本当は、生きていたって仕方のない人間なんじゃないか。
オレは親に、暴力で否定されて、捨てられるような、だめな人間だ。
どんなに努力したって、絶対に報われないんじゃないか。
こんなんじゃだめだ。こんなんじゃだめだ。もっともっと、がんばらなくては。……あの人に認めてもらえるくらいに。
なぜ、だろうか。あの人は、もういないのに。オレに、あんなにひどい仕打ちをしてくれた人なのに。それなのにオレは、あの人に、認めてもらいたがっている。全世界からの称賛よりも、たったひとりに「よくやった」と言ってもらいたくて。
……永遠に満たされることのない、飢え。
わかっている。あまりにもばかげている。だが、止められない。オレはなぜまだ、あの人の後を追っているのだろう。
あれほどひどいことをしてくれた父なのに、父と同じ音楽の道を歩んでいる自分自身のことを、救いようのない愚か者なのではないかと、幸樹は考えることがある。
音楽そのものは楽しいし、好きだ。父も、音楽に興味を示した息子を、自分と同じ道へ手を引く気満々で、嬉々としてレールを敷いてくれた。今自分がこうして音楽の仕事につけているのは、父のおかげであり、父の母校でもある音大の人々のおかげであり、父を通して知り合った多くの人々のおかげだ。父の恩恵だ。
あれだけ暴力的で裏表のある人だった父の恩恵に、甘えて。
――そう思ってしまうと、このまま音楽を仕事にしていていいのかと、底知れぬ不安が襲ってくる。自分が踏み込んだのは、とんでもない底なし沼……というより、人食い沼だったのでは、という気がしてくる。
だけど、今さら音楽を離れて、オレにできる仕事って……あるんだろうか。
仕事先で弁当を食べたのが遅かったので、空腹感はない。夕食はなくてもいいだろう。リビングで麦茶を飲んで、ゆったり、というより呆然としていると、スマホが鳴り出した。香里からだった。
「はい、こう……」
「幸樹! もしもし!」
香里の声は、聞き覚えがないほど切迫していた。
「やられたわ!
「…………え」
突然幸樹は、自分の声がひどく遠ざかってしまったように感じた。
「次の号に出るのよ! 射水隆二のDV疑惑の記事が!」
「……………………」
イミズリュウジッテ誰ダッケ……幸樹の頭は、思考も記憶もつながらなくなっていた。
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