#13 感情が軋む ※

 ……父が飛行機の墜落事故で亡くなったと知らされた時、どんな心境だったのか、自分でもわからない。ショックも巨大ではあったが、悲しかったのか、嬉しかったのか、安堵だったのか、謝ることなく去っていったことへの怒りか、……いくつもの感情に引き裂かれそうだった。母とともに遺体に対面し、警察での手続きを終えて、ひとまず帰宅した夜……事務所の人たちも引きあげてしまった後、幸樹こうきは部屋でひとり、笑いがこみあげてくるのを抑えられなかった。ドアの内鍵をかけ、隣の防音室に閉じこもった。狂ったような笑いが幸樹を支配した。笑っているはずなのに涙が止まらず、そして胸の中では怒りに似たものが猛り狂っていた。ヒステリーの発作のような症状がおさまると、幸樹は酸欠で床に突っ伏していた。ようやく呼吸が落ち着いて、部屋を出ようとすると、階下から高い声が響いてきた。母の悲鳴かとぎょっとしたがほどなく、高笑いだとわかった。ひきつるような、しゃくり上げるような、およそ健全とはいえない笑い方だった。幸樹は気配を殺して自分の部屋に戻った。母への嫌悪感で吐きそうだった。ついさっき、自分も同じことをしたはずなのに、母に対してはどうしようもなく嫌悪感ばかりが積み上がって行った。


 葬儀も告別式も済み、父の財産の処分などが続いた日々は、奇妙に空虚な時期だった。暴力的な家族がいなくなったというのに、幸樹の中では時折、名状しがたい奇怪な感情が、ふつふつとこみ上げた。怒りもあったかもしれない。しかし、明確に説明できない、恐れに似た、奇形化した感情がとぐろを巻いていた。母が外出し、幸樹ひとりで家にいたあるとき、突然それは爆発した。行き場のない感情が幸樹を引き裂いた。目の前のリビングのソファを、力任せに蹴った。どすん、とソファが倒れるのを見たとき、蛍光色をした別の感情が心の中を染め上げた。ローテーブルの天板をつかんで、引き倒した。獣のような自分の声を初めて聞いたが、驚きはなかった。もうひとつのソファを投げるように倒した。バランスを失って自分も倒れた。布製のソファだったので、細かいほこりが舞っていた。しばらく呆然と肩で息をしていたが、不意に――強烈な吐き気がせき上がり、トイレへ走った。ようやく息をつくことができ、冷たい麦茶で喉をなだめてから、倒した家具を起こして、置きなおした。オレは、何になってしまったんだろう……頭痛は吐き気の後遺症にすぎなかったのだろうか?


 それ以来、狂気に似た奇怪な感情はたびたび、幸樹を支配するようになった。懸命に抑えたが、「それ」はますます幸樹の中で暴れ狂い、抑えた分だけ凶暴さを蓄えるようになった。せめて誰もいないところでと、家にひとりになるタイミングを待った。母にも事務所の人にも知られていないはずだった。


 母は、気づいていたのだろうか……。


 だとしたら、自分は母に捨てられて当然なのだ。母にしてみれば、暴力的な夫が亡くなったと思ったら、息子が父と同じ側面を見せ始めたのである。今度は息子の暴力の餌食にされるのではないか……危惧したとしても不思議はない。呪縛が解けたことに気づいた母は、次なる呪縛に捕らわれる前に、逃げ出したのだ。


 確証はない。

 ただの憶測だ。違っているのかもしれない。


 けれどもしかしたら……。

 オレもまた、母を怖がらせてしまったのかもしれない……。


 その可能性に気づいたとき、幸樹は、狂ったように笑い転げ、胃液しか出なくなるまで吐いた。



 幸樹が本格的に、音楽家として独り立ちしたのは、音大を卒業してまもなくだった。それまで「射水いみず隆二りゅうじの添え物」として、影の中にいたのだが、このときから彼は「KO-H-KIコウキ」と名乗り、ニュークラシックの世界に踏み出した。父譲りの楽才とセンスと深い知識と楽器の技量、そして甲高い声とオネエのキャラクターで。……素の自分ではいられなかった。射水幸樹とはかけ離れたキャラクターになりきらないと、別人になりきらないと、人前に出ることができなかった。「射水隆二の息子」と呼ばれることには耐えられた。だが父に暴虐のはけ口にされ、母に捨てられて、両親から粗雑に扱われた、くだらない人間に違いない「射水幸樹」でいることには耐えられなかった。存在する価値のない人間であろう射水幸樹として人々に知られることには耐えられなかった……。


 ……せっかくの休日に、こんなことを考えなくていいのに。自分の感情に疲れ果てて、幸樹はリビングに戻り、窓を閉めた。

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