君沈む川

ユキガミ シガ

起源

「山田左衛門と言います」

 そう名乗る男を前に、屋敷の主は僅かばかり右眉をつり上げた。次いで、口元に宛てた扇の影で開きかけた唇を噤む。

 そして、

「はぁ……」

と気のない返事をした。

 夕暮れ時の室内は徐々に闇に包まれつつある。蔀戸しとみどの外の荒れた庭を染めていた燃えさかるような赤い陽は既に滅び、今は陰鬱な紺色の帳が降り始めていた。

 京の都に、が忍び寄っている。その気配を察した男の顔に、さっと暗い影がよぎるのを、屋敷の主は見逃さない。

 人づてに自分を頼ってくるのだから、事情があるのは判っている。では、どのような相談であろうか。主は探るように目を細め、山田を観察し始めた。

 年の頃は三十前後。少しやつれてはいるもののきちんと身繕いをして、着物も悪くはないが、上等のものではない。

 精々が中流貴族であろうな、というのは想像がついた。何にせよ、そう高い官職にはついていないだろう。

 さて、肝心の用向きは何か、と考え始めたところで不意に、廊下を軽やかに進んで来る衣擦れの音が聞こえた。二人の視線が戸口に向くと、丁度そこに一人の女童が現れる。

 まだあどけなさの残る年頃ながら、おおよそ子供らしくない無表情のまま。少女は流れるような仕草で敷居のあたりに膝をつき、両の手指をついて一度深く首を垂れた。つややかな黒髪が垂れ、床につくか、つかないかというところです、と背をただすと、するりと立ち上がり、設えられた高灯台に火を灯して回り始める。

 切れ長の瞳を細めてそれを横目に眺めながら、屋敷の主は「それで」と切り出した。

「どのような御用向きでしょう」

 そもそも、この男とは初対面である。来訪は突然だった。

 今日は朝方から、呼び出しに応じる形で内裏だいりに出仕していたが、物好きな貴族に捕まって帰りが遅くなってしまった。思い返せばそれがケチのつき始めだった。

 仕事は増え、心配事も生まれて、必要以上に疲れ果てた状態で町外れの荒れ屋敷に戻ってみれば、たった一人で屋敷を護っていた件の女童に「お客様がお待ちです」と告げられたわけだ。

 弱り目に祟り目と言うべきか、虎口を逃れて竜穴に、といえば大げさか。

 よく聞けばこの招かれざる客は、以前、とある小さな仕事に協力してくれた知己の検非違使の遠縁だと言うし、適当な理由をつけて追い返すこともできずに今に至る。

 男は口籠もったままチラチラと値踏みするような視線をくれるばかりで、一向に話を始めようとしない。

 主は小さく息を吐くと、畳みかけるように声をかけた。

「このあと来客の予定があります。誰かに聞かれてもよいお話でしたら結構ですが……」

 すると、山田ははっとしたように身を震わせると、その言葉を遮るように「あの」と上擦った声を上げた。

 その慌てようから察するに、余程人に聞かれたくない話のようだ。

「昨今、洛中に出没するという鬼女の噂……。既にお耳に入っていることと思います」

 どうやら、猶予がないと察した様で、単刀直入に切り出される。山田の言う鬼女の話は勿論知っていた。そもそも今日出仕したのもその為だ。肯定の意味で浅く頷くと、男は観念したように目を伏せながら、絞り出すように続けた。

「アレは恐らく、私の昔の妻なのでございます」

 片眉を釣り上げながら口元を隠す主の前で、山田は床に額を擦り付けるようにして助けを乞うた。

当代一とうだいいちの陰陽師と名高い晴明様を見込んでお願いに上がりました。どうか、お力添えを……」

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