③2000年 10月
『MAX』が発売されて一週間、高城は毎日【プラスアルファ】に通いつめていた。
「筐体、増やしたほうがよさそうだね」
連勝中の高城に、ノブが話しかけた。店長であるノブよりも店にいる時間が長い高城は、すでにある程度安定した勝率をものにしていた。
「んー……初心者の練習用や研究用として、対戦筐体じゃないヤツを設置するととええと思います。それと……」
高城は乱入が途切れたところを見計らって、コンピュータとの試合を終了させると、ノブとカウンターのほうへ移動した。
「今回の目玉、カードシステムなんやけど……」
自販機で買った缶コーヒーを片手に、高城が話しだした。
今回の『MAX』そのコンセプトは格闘ゲームの集大成ということだった。
キャッチコピーの「歴史を背負え!」の通り、用意されたキャラクターはこれまでの格闘ゲームの、ほとんど全ての動きを再現することができる。だが裏を返せば、それは単に完成度が高いだけで、目新しいものではなかった。
ただ一つ、カードシステムを除けば。
今回から導入されたカードシステム。それは対戦中、自分の戦績がカードに記録される、というものだった。筐体にカードを挿入すると、リングネームや勝ち負けの総数、それと段位が画面に表示される。戦績によって段位が上昇、負ければ降格もあるため、常に緊張感を持って戦うことができる、というシステムだ。
「あれはよくできたシステムやと思う。それまでの格闘ゲームにはなかった、戦績を積み上げる楽しさ、つまり継続性を持たせることができるしな。ただ……」
「何だい?」
「……ん、オペレーター泣かせかもなって。今はまだ出たばっかりやからええけど、将来的には、な」
カードシステムは様々な効果をもたらす。小さな影響で言えば、段位や戦績などのステータスにこだわるプレイヤーも出るだろう。その他、実力差が客観的にわかるため、無謀な乱入が避けられる、という側面が挙げられる。しかし。
「プレイヤーの住み分けを招くやろね。対戦で面白いのは同じレベル同士の試合やろうし、客観的に段位で強さの違いがわかってしまったら、乱入を避けるようになる。それはプレイヤーにとってはええことかも知れんけど……」
一セットの筐体で一度にプレイできる人数は二人まで。そして勝ち抜きのシステムがある以上、住み分けた多くの客に対応するには、店に置く筐体の数を増やすしかない。筐体を揃えなければならないオペレーターの負担は大きくなる。今回の『MAX』は基盤価格が100万円前後。筐体はそれまで使っていたものを流用するにしても、外付けのカードリーダーなど、オプションの出費もかさむ。
「せやから……」
「まぁ、元から筐体は増やす予定だったしね。今の対戦筐体6セットに、もう4セット追加ってとこかな」
大丈夫なんか? と口に出す寸前で高城は留めた。自分が大丈夫にするのだ。そのための努力なら、惜しむまい。
「そう言えば、昔のM社の『ウェアウルフ』が流行ってた頃の奴ら、この前、京都のゲームセンターで見たで」
高城は自然に明るい要素を口に出していた。
「もうそいつら社会人になっとるけどな。懐かしかったわー。俺が中三の頃に勝てなかった兄ちゃんたちや」
何気なく言った後で、高城の脳裏に一つのアイディアが閃いた。
「な! ノブ! こういう企画ってどうやろ」
*
ファイトクラブホームページより抜粋 執筆者 高城哲朗
「階級が違う」
「競技が違う」
「環境が違う」
「年齢が違う」
「再起不能の怪我を負う」
スポーツ選手が抱える多くの問題から、俺たちゲーマーは解放されている。
それでも俺たちは縛られてきた。
メーカーに、時代に、ゲームに。
「強いやつと戦いたい」
「誰が最強なのか知りたい」
そんな単純な望みにすら、メーカーの壁、時代の壁、ゲームタイトルの壁は立ちはだかった。
「やってるゲームが違う」
「全盛期だったなら…」
「引退した」
言い訳はいい。
もう、聞き飽きた。
戦いの舞台はここにある。
『MAX』
一人ひとりが歴史を背負え。
地上最強なんて、小さなスケールじゃない。
史上最強を今、決めよう。
ということで、今週の金曜、プラスアルファで
『ウェアウルフ』公式全国大会優勝者の亮司
『ワールドマスターズ』公式全国大会の準優勝者のオニタン
『ホットスクランブル』公式全国大会優勝の宮田
『インフィニティアーツ』非公式大会準優勝の高城
での4人で10試合先取の試合を行おうと思います。先に10勝した方が勝ち。
カクゲーやるなら誰もが知る伝説の人たち。とにかく手数が多くて判断の速い亮司のラッシュ。触れることさえできないとまで言われたオニタンの逃げ。鉄壁の要塞、宮田。
果たして彼らは現在通用するのか。過去の達人は今でも強いのか、という企画です。今回は関西在住のメンツでやりますが、関東でも企画挙がったら紹介します。
当日は野試合用の台も用意するので、勝ったチャンプを囲んで挑むもよし。やってたゲームやキャラ別で対抗戦やるもよし。破れた仲間の雪辱を晴らすもよしです。
*
高城の企画したイベントは盛り上がり、試合の後も終電まで多くのプレイヤーがひっきりなしに対戦を続けた。すでにゲームから離れていた者たちも多く現れ、ゲームセンターの中は同窓会と対抗戦の様相となった。また、この時の試合形式である10試合先取の形式はプレイヤーの間で流行し、「お互いの実力を試すなら10先」とまで言われるようになった。
*
「少し複雑な立場を整理したいのです」
神妙な顔で高城が言い、ノブは思わず笑ってしまった。
「俺はノブの店のバイト店員兼常連で。で、それとは別に個人としてファイトクラブってサイトを作ったらそこそこ広告収入ができたのです」
「それはおめでとう」
しかし高城には懸念があった。サイトには他店の情報も書かれる。掲示板での情報交換も盛んだ。やりとりされる情報が店にとって良い情報だけとは限らない。サイト運営への批判の中には、「結局はノブの店の宣伝ではないか」というモノから、「他店への営業妨害である」というものまであるのであった。とは言え、サイト運営は楽しかった。利用者同士が繋がっていくのを見るのも、雑多な書き込みを眺めるのも。それはいくら時間を費やしても構わないと思えるほどだった。コミュニティが育っているのを感じると、サイト運営をやめるわけにはいかないな、と思う。しかし、一方で、バイトの立場がなかったら店でイベントも開けていなかったとも思う。サイトがここまで大きくなることもなかっただろうと。バイト店員の立場とサイト管理人の立場は今の活動の両輪であり、どちらも欠くことはできない。しかしそれは高城の都合に過ぎない。このことでノブや店に迷惑がかかっていないか、かかっていたのなら遠慮なく自分をクビにするなりして欲しい、ということを高城は一息に告げたのだった。
「うーん。迷惑ねぇ……うーん。それについては、まぁ他の店からのクレームは、ないこともない。あとは掲示板に集まる人がコントロール不能なところもリスクなのかなと感じている。でもコントロールしようとしたら、今のファイトクラブにはならないよな、とも思ってる。ウチとしては高城くん目当ての常連客も多いから、総じてプラスの方が大きいよ。敏腕店長が店を回しているから、掲示板でのウチの評判もいいしね。総じて言えば、『気にしないで掲示板もバイトも続けてください』ってことなんだけど‥‥」
「なんだけど?」
「少しだけ業務内容を拡大したいなぁと。勤務時間にモップがけや掃除とかするより、レッスンプロをやってみて欲しい。これから、平日昼間とかオフタイムに、筐体を時間貸するサービスはじめようと思ってるんだけど。で、その時ご希望ならレッスン承りますってことではじめたいな、と。まだお試しなので1時間1500円。店が1000円とって、きみは時給プラス500円。どう?」
「俺は全然構わん」
「今はまだ時給500円のプロゲーマーってことだね。あんまりいい待遇を用意できなくて申し訳ないけど。いつから入れる?」
「俺は今からでもええけど‥」
「じゃあ、ちょっと待っててね」そう言ってノブは店の奥に引っ込んだ。しばらくすると店員用のエプロンと、レッスンプロと書かれた腕章を持って出てきた。
「初仕事前に教える練習しないとね」そう言いながら、高城に腕章とエプロンを渡すと、対戦筐体のほうを指差した。「和泉くん、だってさ」
ノブの意図がわからず高城は眉を寄せた。
「この間のイベントで初めてみた子。この前もキミに連コインくらいしてたでしょ? 今日も来てるよね」
見ると対戦筐体には、以前しつこいほど挑んで来た挑戦者が座っていた。和泉という名なのだそうだ。和泉はコンピュータ戦をこなしながら、時折、乱入者が来ないかと、店の中を見回していた。
「経験は浅いけど、やる気はあるみたいだよ。ちょっと話したら師匠が欲しいって言ってた。最初の生徒には、うってつけじゃない?」
行ってらっしゃい、と楽しんでいるようなノブの声が高城の背中を押した。
*
万能なものなど存在しない。格闘ゲームにおいてそれは顕著だ。
リーチは長い代わりに隙が大きい技。速度が早いが、急には止まれないダッシュなど、一長一短の性能を持つキャラクターを用いて、プレイヤーは試合をする。
キャラクターの性能は決まっているため、同じキャラクターを使うならば、誰がやっても同じ威力、同じリーチ、同じ速さのパンチとなる。
「だから、極論言えば、格闘ゲームはどんなにやっても強くなれない、と言えるんや」
「いきなり自分の価値を否定するようなこと言うね」
横手からノブの声が突っ込みを入れる。店内清掃作業の手を休めないところはさすがだ。
「まず、手の内を明かして相手に選択させる。メリット・デメリットって言う、交渉技術の一つや。誠実な印象を与えるねん」
高城は悪びれるそぶりもなく答えた。
「……そういうの、相手に言ったらあんまり意味なくありませんか?」
それまで黙っていた和泉が、おずおずと口を開いた。
「そこも含めて明かすことで老獪な印象を与えるのが狙いや。どんなスキルも使いようやで。これはゲームも一緒」
そう。要するに、使いようなのだ。
どのような性能でも、どのような技でも、使いようによっては役に立つ。正解となる知識を身に付け、場面ごとに実践する。
「つまり、如何にそのキャラクターの持つ性能を引き出すか。それがゲームにおける強さってことになるんや。そうやって自分のキャラと向き合うから、キャラクターに愛着を持つプレイヤーも多いんや」
性能を高めるのではなく、性能を引き出す。『格闘』ゲームと名づけられているが、本質は思考力や発想力を競い合うゲームである。
「まぁもっとも、全てのプレイヤーが完全に性能を引き出せとるかっていうと微妙やけどね。操作ミス、状況判断ミス……色んなミスがあるしな。選択肢は山ほどあって、選択の瞬間はほぼ一瞬ごとや。結局は、上級プレイヤーかて性能の一部だけを引き出して戦っとるのが現状や」
たとえば、『ウェアウルフ』時代の覇者、亮司。彼のラッシュの鋭さには定評がある。彼はジャンプやダッシュなどの接近テクニックの使い方が非常に巧みで、亮司のダッシュは人よりも早い、などと言われるほどだ。反面、細かい防御テクニックなどについては、その存在すら知らないこともあった。
「まぁ正直、あれだけ攻めるのが巧い亮司なら、防御技術が磨かれなくても不思議はないけどな」
他には……と、口ごもり高城は自分の鞄からノートを取り出した。
「なんです? それ」和泉が訊ねた。
「忘れんうちに書いとるメモや」
ページを繰る手を休めずに、高城は答えた。和泉が何気なくページを覗き込むと、1ページ内に1人のプレイヤーの名前が中央に書かれたマインドマップが書かれていた。「相変わらず、ひどい字だね」
ノブが和泉の気持ちを代弁してくれた。
「不器用やねん」
「いや、多分、そういう問題でもないと思いますけど……」
和泉の言葉にノブだけが笑った。当の高城は自分のノートの解読に手一杯だ。
本人も言うとおり、高城は不器用だった。並のプレイヤーなら簡単に出来ることも、高城には練習が必要だった。普段の豪放な態度から、何でも小器用にこなせそうなイメージが定着しているが、新しいゲームに取り掛かり始めの高城は見られたものではなかった。
二流のチャンプ。
ノブは高城をそう評している。高城には特別な才能などない。
だからこそ、高城のような人間はレッスンプロに向いているのかもしれない、と内心思いながら、ノブは店内作業に戻った。
*
大雑把に分類すれば、格闘ゲームは遠距離戦と密着戦の二つに分けられる。
M社とX社の複合作品である『MAX』は遠距離戦ではM社の流れを汲み、空間の駆け引きの要素が強い作品となっていた。
遠距離でのプレイヤーの行動は主に三つ。
まず第一に牽制。これは相手に技を触れさせるように攻撃を出すことで、相手の移動や攻撃を阻止するためのものだ。
次に、ジャンプを使った飛び込み。これは牽制技のタイミングを読み、かわしながら攻撃するのに使われる。ジャンプからの攻撃は強力で、その後の攻めの起点にもなるのだが、ジャンプした瞬間に着地地点も決まってしまうため、相手に待ち構えられてしまうと危険である。
そして最後は対空。相手のジャンプを叩き落す攻撃だ。着地地点をきちんと把握し、迎撃してダメージを与えることができる。
これをお互いが行っている状態が遠距離戦である。
牽制をジャンプでかわされれば一気に大ダメージ。ジャンプを読まれれば対空によって確実にダメージを取られる。対空技の間合いを維持しようとすると牽制がおろそかになる。と、こういった三すくみが成り立っている。
このバランスは相手によって変動する。キャラクターの性能や相手プレイヤーの癖、残りの体力、これまでの試合展開などから、互いの心理を読みあうしかない。それは体験した者にしかわからない魅力があった。
閉店間際の【プラスアルファ】。店内では店長であるノブが、閉店作業をしていた。その奥では高城と和泉が対戦を続けている。レッスンからふとした拍子に対戦になったのだ。他に残っている者はいなかった。一つの筐体の出す音だけが、静かになった店内に響き渡っている。
高城の連勝数はもう五十を超えている。だが、それでも和泉は諦めなかった。
不思議な静けさがあった。対戦に必要な思考だけが二人の脳を流れる。
試合開始と同時に、高城の扱うキャラクター、人形使いは人形を起動させた。小柄なピエロの人形を盾にする形で、ジリジリと間合いを詰める。
素早い人形の攻撃に、和泉の扱うナイトは防戦一方だった。いかに耐久力の高いナイトとは言え、何度も攻撃を与えれば、いつかは倒れる。ガードを固めて待っている和泉は焦っているはずだった。
ナイトの耐久力がもうほとんどなくなった頃、高城は試合を決めようと人形を踏み込ませた。人形の接近に合わせてナイトがジャンプ。咄嗟に人形が腕を振り上げるが、そのわずか上をナイトが通過していく。
人形を無視し、一気に本体を叩く作戦だ。そのまま上空から、身の丈ほどもある剣を振り下ろしてくる。
高城は横転のコマンドを入力。
すんでのところで人形使いはナイトの斬撃を回避した。しかし、人形から遠く引き剥がされてしまった。
人形使いは紙の鎧で闘っている、と表現されるほどに耐久力が低い。
片や一撃必殺の攻撃力を誇る、ナイト。
素手対ロングソード。リーチの差も歴然だ。
高城にとって状況は悪い。
ナイトは悠々と間合いを詰めてくる。剣の射程距離まで、あと数ドット。
ギリギリの間合いまで引き付けると、高城は思い切ってダッシュを入力。本体による捨て身のタックルを仕掛けた。しかし、和泉のナイトは落ち着いてこれをガードした。体勢を崩した人形使いに必殺の一撃を叩き込もうと、ナイトが剣を振り上げる。
その時、高城は人形を起動。先ほどのタックルでダメージは与えられなかったものの、人形の真上へとナイトを押しこんでいた。アイスピックを持った人形が腕を振り上げる。
ナイトの剣が振り下ろされるのと、人形のアイスピックが刺さるのは、ほぼ同時だった。ヒットストップがかかり、ナイトは崩れ落ち、人形使いは吹き飛んでダウンする。一瞬の後に画面に表示された文字は―K・O!
やがてどちらかが立ち上がるはずだが……しばらく経ってもどちらのキャラクターも立ち上がらない。そのまま画面はゲームオーバー画面へと移行して行った。
ダブルK・Oというやつだ。両者、ゲームオーバー。
高城は息をつくと苦笑した。張り詰めていた神経を弛緩させる。体が心地よい虚脱感に包まれた。いつの間にか強張っていた体をほぐそうと、大きく伸びをする。時計を見ると、もう三時間近くも対戦していたことになる。
今日はここまで、と席を立とうとした時、クレジットを投入する音が聞こえた。
「え?」
キャラクターセレクトが始まる。選ばれたキャラは……和泉の操るナイト。
「まだやるんかい! ええ加減にせぇ!」
高城は怒鳴りながら、向かい合わせた筐体を回り込んだ。きょとんとした表情の和泉と目が合う。高城はしばらく和泉を睨んだ後で、脱力と共にため息をついた。
「……はいはい。わかりましたよ」
席に戻り、クレジットを投入しながら、思わず呟く。
「こら、強くなるわけや。辞めそうにないもんな」
高城の指先と声が、震えていた。
*
聞きなれた人間の声は喧騒の中でもよく聞こえる。カクテルパーティ効果というらしい。 紗江子が大学の食堂で、電話中の高城を見つけたのはそういう理由で、最初から盗み聞きをしようとしていた訳ではない。また、声をかけようとした瞬間にたまたま耳に飛び込んできた内容が違っていたのなら、このような事態にはならなかっただろう。
「まぁ、あいつには愛を感じるね」
会話の内容が聞き取れる位置に来た時、携帯電話に向かって高城は言った。その言葉に紗江子は硬直したが、高城は彼女の存在に気付いた様子はなかった。
「いや、冗談抜きにそうやね。本気も本気。なんなら解説しよか?」
この時点で、紗江子が高城に自分の存在を気付かせる行動をためらい、なおかつ好奇心から背中合わせの席に静かに座ってしまったのは、やはり褒められた行為ではないのかも知れない。
「ちょっと前に話したやろ。資本主義についての話や」
一瞬、今までの会話が聞き間違いだったのか、と紗江子は振り返りかけた。慌てて正面に向き直り、食事しているフリをする。背中越しに高城の気配を伺うが、特に気付かれた様子はなかった。電話に集中しているようだ。
サンドイッチを片手に、紗江子は目を閉じた。視覚を遮断すると聴覚への集中力が増す、という話を聞いたことがあったからだ。
「富を蓄積する社会、資本主義は生産や蓄積、獲得の思考様式に人を洗脳する。……自覚しとる例で話すけどな。俺が努力するのはゴールや勝利のためやし、成功や獲得、発展はほぼ無条件で嬉しい。……いや、せやからって、俺はなんて自己中心的で打算的なんだ、なんてガキっぽい自己嫌悪するつもりはないけどな」
なんだ。いつもの高城の会話だ。紗江子は不規則になっていた自分の呼吸に気付き、恥ずかしくなった。
「そこからちょっと話は飛ぶで」しばらく電話の相手の話を聞いていた高城が切り出した。「ゼロサム・ゲームって言葉あるやん?」
トレーディングのような、参加者全員のプラスとマイナスを合わせるとゼロになるゲームのことだ。
「経済はもちろん、ほとんどの物事はこんな風にゼロサム的やと俺は思うわけや。どこかに儲ける奴がいればどこかに損するやつがおり、勝者の陰には必ず敗者が存在する。幸せの元は誰かの不幸せ」
高城はそこまで一息に言うと、一拍置いて断言した。
「つまり、幸福の追求は侵略だ、いうことや」
原罪や必要悪のようなものだろう。高城の後ろで紗江子は納得するように軽く頷いた。傍から見ると、挙動不審に映るだろうが。
「んで、ようやく話は愛の定義になるんやけど」
紗江子の鼓動が跳ね上がった。胸のあたりに息苦しさを感じる。周囲の雑音の中から高城の声を一語でも聞き漏らすまいと、耳に意識を集中させる。手が落ち着きなく、サンドイッチを弄ぶ。
「俺はそれを、見返りを期待しない行為や贈与やと思っとる。これは与えるという行為自体が、自分の快楽であり相手の快楽でもある場合や」
恋愛観、だろうか。それにしては随分と厳密な……そう、単純に定義付けだけをしているように聞こえる。
「つまり、愛ってのは一種の倒錯や」
幸福について語った時と同じように、高城は断言した。
「でも、俺はそれをすごくかっこええことやと思う。侵略をせずに幸福になることができる、唯一の方法やと思う」
高城が襟足を触りながら話しているのが、背中越しの気配でわかった。照れた時に出る彼の癖だ。
「……ああ。まぁ、憧れるわな」
こんな声も出すんだ。見たこともない相手に嫉妬した。
「で、和泉やけど。俺や俺の周辺の世界と関わることが、あいつにとって何の得にもならないことなんかはわかりきってるのに、それでもあの調子やん?」
イズミ、初めて名前が出た。
イズミ、イズミ、と高城が発したその響きに、特別な感情が込められていないか、しばし頭の中でリピートさせる。そう言えば自分は高城になんと呼ばれているだろう。思い出せないことに、心が冷え冷えとするのを紗江子は感じた。もっとも、普段の彼らの付き合いでは、紗江子の方から高城に話しかけていたので、名前を呼ばれることがたまたまなかっただけなのであるが、それについてはここでは触れないでおくことにする。
「うん……そう。せやから、愛」
高城の声と、電話口からほんの少し漏れる声が、くっくっくと笑う。
「あいつの一挙手一投足から俺のことを意識して、考えて行動しとるなってのが伝わってくるで」
ノロケだろうか。この際、高城の勘違いや自惚れであって欲しい、と願う自分がいた。そんな自分の感情を醜いと思ったが、止まらなかった。
「いやぁ、自惚れではないやろ。明らかに意識しとるでしょ。スタイルも合わせようとしとるし」
笑い声が、心底幸せそうで、それが悲しかった。
「まぁ、その努力自体を楽しんどるな。……うん。そんなわけで、今から行くわ」
高城がいなくなった食堂で紗江子はしばらく呆然とした。弄んでいたサンドイッチがいつの間にかバラバラになっていた。深いため息をつくと、午後の授業へと向かった。もう、食欲はなかった。
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