第18話・自害

 やっぱり、昼間の夢の続きだ。宗介は焦った。真っ白な壁は、容赦なく左右から迫ってきている。片方の壁が動くだけで充分にピンチなのに、それが両側からやってくるのだ。単純計算で、潰される速さも力も二倍になるのは言うまでもなかった。

 一応押し返せないかと、ラインマン仕込みの怪力で踏ん張ってみたが、やはり人間の力ではどうにもならないらしい。汗が拭く出きだすほどの力で押してもびくともする気配がなかった。


――まずいまずいまずいまずい。どこか、どこか別の出口は……!


 床も壁もくまなく探したが、外に出られそうな出口はまったく見つけられなかった。本当に何もないのだ、家具の類もギミックとなりそうな突起物も。本当に、外に出るためには自分が落とされた天井の扉を開けるしかないらしい。


――お、落ち着け。そうだ、壁が進む速度は遅い。……壁が、俺の両腕がつくくらいの幅まで迫ってきたところで、壁に両腕をついて這い上がればいい。そうすれば、天井まで登ることも不可能じゃないはずだ……!


 壁に両手両足をついてよじのぼるくらい、自分の身体能力なら朝飯前である。幸い、自分の服装はパジャマではなく、いつも仕事で作業着に作業靴だ。普通の靴よりもずっと動きやすいし、滑りにくい。いやこうなったらいっそ裸足の方が良いか。宗介は深呼吸すると、靴と靴下を脱いで裸足になった。

 丁度そのタイミングで、壁の幅が大よそ宗介が両腕を広げて掌がつくくらいの幅になる。ここからは時間の勝負。宗介は両の壁に両手をついてつっぱると、足をついて急いで壁を登り始める。じわじわと壁はさらに狭まってきているが、この速度なら先に天井に到達できるはずだ。


「よしっ……!」


 さほど時間もかからず、天井に到達した。両足でしっかり体を固定し、天井の四角い切れ込みに手をかける。


「開いてくれ……!」


 確か、上にぱっかりと開けるタイプの出口だったはず。宗介は己の全身全霊を込めて、天井を押し上げようとした。簡単な鍵くらいなら、自分の腕力で壊すこともできると思っていた。

 だが、いかんせん不安定な体制である。天井に出口があるため、最大の武器であるタックルも使えない。ぐいぐい押し上げても出口はびくともせず、ガンガンと拳を叩きつけるもまったく手応えはなかった。


「ふ、ふざけんな!」


 冗談じゃない。何で自分が、こんな馬鹿みたいな死に方をしなければいけないのか。こんな壁に挟まれて、蛙のように潰されて死ぬなんて絶対に嫌だった。


「ざけんな、ざけんなよ!俺が何したってんだよ、おい!開けろ開けろ開けろ!ここを、開けろよおおおお!」


 叩いても叩いても出口が開く気配はなかった。それどころか、壁はさらにぐんぐんと迫って来る。もう、宗介が両手を伸ばしていることさえできなくなってしまった。肘がおりまげられ、足もずるずる滑っていく。出口が遠ざかっていく――踏ん張れない、押し返せない。


――い、いやだ!


 ついに、宗介の両肩が二枚の壁に密着した。それでも壁はじりじりと幅を狭めようとする。宗介の体を、押し潰そうと迫りくる。


――いやだ、いやだ、いやだ!し、死にたくない、死にたく……!


 みしり、と両肩の骨が軋んだ音がした。次の瞬間。




「ああああああああっ!」




 悲鳴と共に、宗介は飛び起きていた。独り暮らしの、ボロアパート。まだ、空は朝焼けに染まっている時間帯だった。窓の向こうに見慣れたベランダと町の風景を見て――宗介は、ボロボロと涙を零した。こんな風に泣いたのは、大学の引退試合で負けた時以来である。


「う、ううう、うう……!」


 まだ、肩に挟まれた感触が残っている。痛かった。だが、あのまま挟まれていったらこの程度の痛みでは済まないだろう。

 昼間に見た夢の続きが、まさに夜に来た。ということは、次に眠った時が自分の最期と見て間違いない。今度眠ったら、自分はあの壁に挟まれてぺしゃんこになって死ぬのだ。何故か確信があった。夢の中で死んだら最期、現実の自分も同じ姿になって死ぬのだと。


「い、嫌だ、嫌だ……!あんな、あんな痛くて怖い死に方……!」


 情けないなんて言われる筋合いはない。誰が、全身の骨をぐしゃぐしゃに潰されて死ぬ死に方を良しとするだろう。誰がそんな苦しくて痛い死に方を笑って受け入れられるというのだろう。

 冗談ではなかった。ただ死ぬだけでも嫌なのに、そんな無惨な最期など。


――次に眠ったら、もう終わり。……一生眠らないで生きるなんて、そんなこと、できるはずが。


 もう、冷静な判断力は残されていなかった。スマホにて、母親に向け詫びのメールを打ち込んで送信。そのまま寝間着姿で、ふらふらと立ち上がりベランダへと歩いていく。宗介の部屋はボロアパートの四階。少々心もとない高さだが、それでも死ぬには充分だろう。

 ここから落ちて死ぬ方が、きっと壁に落ちて死ぬよりマシなはずだ。頭から落ちれば即死できる可能性もある。きっと、まだ楽な死に方に違いない。


――あんな死に方を、するくらいなら、いっそ。


 窓の鍵を開け、ベランダへ出る。そして、錆びた手すりを乗り越えた。涙と鼻水にまみれた顔に、朝の風がなまぬるく吹き付ける。

 もう終わりだ、何もかも。


「う、ううっ……!」


 そして。宗介は自宅のベランダから、飛び降りた。これが唯一できる抵抗だと、そう信じて。しかし。

 飛び降りた瞬間、一瞬、ほんの一瞬意識が飛んだのだ。夢は己の好きな最期を選ばせてくれるほど生易しいものではなかった。僅かなその時間に、宗介をあっさりと残酷な悪夢に引き戻したのである。

 ついさっき見たばかりの、夢の続きへ。




「が、がああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?」




 みしみしみし、と軋む音が聞こえたのは僅かな時間だった。あっさり、二枚の壁は宗介の肩と、胸の骨を圧迫して砕いていく。横から潰されたのがさらによくなかった。これでまだ、壁の方を向いていたらもう少し長く生きながらえたかもしれないのに。

 悲鳴は長く続かなかった。砕けた肋骨が肺を突き破り、声さえ出せなくなったからである。砕かれたのは肋骨や肩甲骨だけではない。骨盤も挟まれ、無慈悲にバキバキと音を立てて砕けていく。宗介が血を吐いて悶絶するのと、下半身の穴から潰れた内臓が圧力で飛び出すのがわかった。

 腕の骨、頭の骨、足の骨。それらも容赦なく潰されて、中に詰まっていた血肉を噴出させていく。


――な、なんで。なんで、夢……。


 凄まじい苦痛の中。宗介の目が、ぐるん、と裏返るのと。現実世界で宗介の体が地面に落下するのは同時だった。

 しかしその体は既に、四階程度の高さから落ちたとは思えないほどぐしゃぐしゃに潰れた肉と骨の混合物と化していたが。




 ***




 何で、自分はツイていないんだろう。目覚めた時、杏樹は最初にそう思ってしまい、そんな自分を恥じた。

 屋敷のパソコンで見た風景。屈強な男性が、真っ白な部屋で壁に潰されて殺される様子だった。杏樹よりずっと体格もよくて、パワーもありそうな男性が、天井の扉を開けることも壁を押し返すこともできずに潰されたのである。

 肺が潰されたせいか悲鳴も途中から出なくなり、ただひたすら挽肉を作るような音だけが響いていた。最後はもう、人間ではなく赤いペースト上の何かにしか見えていなかったというほどである。そして、杏樹はその場であまりの酷さに嘔吐してしまい――そこで目が覚めたのだった。


――な、泣くな。泣くな。


 現実世界の自分は、足元に吐瀉物が広がっていることもない。いつもと同じようにパジャマで、布団の上に寝転がっているだけ。そして、彼に比べて自分はずっと幸運なはずだ――まだ黒幕に捕まっておらず、実際に拷問されて痛い目を見たわけでもないのだから。

 それなのに、その光景をたまたま見てしまっただけで“己はなんて運が悪いのだ”なんて思ってしまった。画面の向こうのその人を助けようとも思わず、その人に心を寄せることもせず。いくら、名前も知らない見知らぬ他人であったとしても、同じようにこの怪異に巻き込まれた被害者であったはずなのに。


――情けない。


 食欲もなかった。とはいえ、今日は昼からエミシと朝とともにみぞる村へ向かう手筈となっている。少しでも腹に入れておかなければ、昼ごはんをいつ食べられるかどうかもわからない。仕方なく、コップにお水を入れて、冷蔵庫からカップヨーグルトを取り出した。こんなものでも、食べないよりはマシなはずである。


――エミシさん、怒ってるかな。四階で待ってろって言われたのに結局合流できなかったし……かといって四階の探索もろくに進まなかったし。おまけに、人を一人見殺しにしたようなもので……。


 あの獄夢から抜け出して生き残るためには、なんとしてでも黒幕を見つけて怪異の根本を退治しなければいけない。みぞる村の調査はまさに必須。わかっているのに、杏樹の心は沈んだままちっとも前向きになってくれそうになかった。

 想像以上に、精神が擦り切れていっていると感じる。本来ならばリアルから逃れて心を休めることができるはずの睡眠が、今や杏樹たちを切り刻む最大の凶器になっているのだから。もし本当にこの悪夢を生きた人間が作ったのだとしたら、ヘタな怪異よりよほど悪質なのかもしれなかった。人間の心の弱さを、あまりにもよく知り尽くしているではないか。


――なんとか、しなくちゃ。


 苺ヨーグルトをすくい、口に運んだ。そこまでしたところで、己が顔を洗うことさえ忘れていたことに気づく。頭がまったく回っていない。大好きな苺ヨーグルトの味さえ今はよくわからない。首を振って無理やり意識を覚醒させると、喉にかきこむようにして水で流し込んだ。


「……しゃっきりしろ、私。生き残りたいんだろうが」


 あえてはっきりと口に出して、前を見た。食器棚の硝子には疲弊しきった己の顔が映っている。

 あらゆる道を考え続けなければいけない。それこそが、人間の唯一の武器なのだから。

 人間にしか持てない、最大の武器なのだから。

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