獄夢
はじめアキラ
第1話・逃走
とにかく今は、時間を稼がなければいけなかった。ドアの前に、ずる、ずる、と重たい椅子を運び、ようやく一息をつく。
見たところ、この部屋の出入り口は一箇所だけのように思えた。とりあえず、このドアさえ破られなければしばらくは安全なはずだ。
――落ち着け、落ち着け、落ち着くのよ私。
「ふ、う……」
ドアの前に運んだ椅子に座り、額の汗をぬぐいながらため息をつく。改めて、月明かりが差し込む部屋の内部を見回した。そろそろだいぶ目も慣れてきている。暗いが、部屋の中の大よその景色くらいは把握できる状態にあった。
多分、書庫か何かであったのだろう。重たい本棚が、さながら柱のごとくいくつも立ち並んでいる。まるでちょっとした図書館だな、と自分が子供の頃入り浸っていた場所を思い出した。クラスが荒れていた時期。どうしても教室に入るのが嫌で、保健室と図書室を行ったり来たりしていた小学校の頃。こんなことになった今となっては、あんな辛い思い出のあった小学校時代さえ懐かしく思えてしまう。
ああ、でもどうせ時を巻き戻すのなら、大学生の頃が一番楽しかったかもしれない。もう何十年も会ってない、テニスサークルの仲間達は今どうしているだろう。お互い随分おじさんとおばさんになってしまった。自分のようにくだらない男と結婚して、退屈な主婦生活を送っている者もいるだろうか。それともみんなは、自分よりずっと充実した毎日を過ごしているのだろうか。こんなことなら、焦って結婚なんかするべきじゃなかった、と後悔しきりである。
夫は暴力的だったり浪費家だったりするわけではないが、あまりにも刺激の少ない地味で真面目な男だった。自分がそんなことを思っているから、セックスレスになんてなっているのかもしれないが。
――ちょっと、落ち着いてきた。……よし、よし。自分なりに、状況を整理してみよう。
今のところ、“あれ”の足音は聞こえない。きっとまだこっちの方には来ていないのだろう。来ても、この部屋にいることがわからなければドアは開けられないはずだし、こうして鍵をかけて椅子の簡易バリケードも作っているのだから場所がわかってもそうそうブチ破られる心配はないはずだ。
天井を見上げながら、これまでのことを考えてみる。
きっかけは、久し振りに妹とお茶を飲んだことだった。昔から姉妹仲は悪くない。アニメや漫画、ドラマ、芸能人の趣味が近くて話が合うというのが最たるところだろう。他にも子供の頃は一緒に怪談クラブに入っていたこともあり、怖い話なんかも大好きだった。――そんな妹とはお互いの生活などもあって、一年以上会えていなかったわけで。当然、お互い趣味の話や、日常の愚痴で盛り上がることになったのである。
そう、その時彼女が言いだしたのが“拷問屋敷”の話だったのだ。
『どっかの村に、拷問屋敷?とかいうのがあるんだって。私もあんまりよく知らないんだけど』
彼女の話は結構大雑把で、尻切れトンボなことが多い。この時もまさにそのパターンだった。
『なんでも、どっかの辺境の村?にサイコパス男が住んでてね。大きな屋敷に一人暮らししてて、村の人を次々誘って、人を拷問して楽しんでたとかなんとか。屋敷には、世界中の拷問道具があって、とにかくいろんな方法で人を殺すのを楽しんでたんだとかなんとか?そいつに目をつけられると、男が目の前に現れて拷問屋敷に人を連れ込むんだって話?』
『何で疑問形ばっかりなのよ』
『だってよくわかんないんだもん。そういう話があるってことは、その男の人って悪霊だったってことなのかしらねー。あるいは、生きていて今も新しい獲物を探してる、とか?』
その時彼女から聞いたのは、そんなざっくりとした怪談?都市伝説?そのようなものだった。もうちょっと詳しく調べてから話しなさいよ、と百合絵は笑って、話はそこで終わったのである。
その日の夜、なんとなく興味を持って“拷問屋敷”について調べてみた。
すると、本当にそういう屋敷が過去にあって、殺人狂の男が住んでいたという話があったということらしい。正確には男は殺人狂というより、人が苦痛に悶え苦しむのが大好きというタイプであるようだった。歴史上、拷問というのは必要な情報を吐かせたり、無理矢理自白を引き出すために行うことが基本である。が、男はただその人物を苦しめるために拷問をやりたがるのだそうだ。――当然、自白して終わることもできない。拷問された人物が廃人になるか、あるいは死ぬかするまで拷問は終わらないのだから。
男は人間の受ける、ありとあらゆる苦痛に興味があったという。そして、苦しむ人の姿を観察することに性的興奮を覚える変態だったのだそうだ。
ゆえに、お金だけはありあまっていたその男は、世界中から拷問器具を取り寄せて屋敷中に設置していた。そして村から一人ずつ住人を呼び寄せては、彼等を拷問して殺し、その死体を庭に埋めるということをしていたのだという。
――でも、そんなこと繰り返していてバレないはずがない。……男の犯行はやがて露呈し、警察に捕まって……やがて、死刑が執行された。しかし男は最後まで、自分に罪はないと主張していたのだという。
『ふざけるな!俺は人が苦しむ顔を見ていたいだけだ、殺したかったわけじゃない!連中はもっともっと頑張ってほしかったのに勝手に死んだから、仕方なく庭に埋めたわけだ!よって殺人罪ではなく、俺が死刑になるなどありえない!この刑は不当だ、不当だぁ!!』
当然、そんな無茶な主張が通るはずもなく。男は絞首刑に処されて、死んだ。
しかし彼はまだまだ人を拷問したりなかったという。ゆえに、その強い未練からあの世に行くこともなく、まだこの世界にとどまり続けているという。
そして未だに、屋敷に人を呼び寄せ続けているのだそうだ。新たな拷問を行うために。その様子をじっくり観察し、悦に浸るために――。
――本当に気持ち悪いわね、って思った。でもその時はそれだけだった。まさか自分が、なんて思ってもみなかったんだもの。
確かに恐ろしい話だが、仮にそれが本当だったとしても屋敷とやらに近づかなければ何も問題はあるまい。実際、その拷問屋敷とやらがどこにあるのかもわからないのだから(一説によると山梨県の山奥のどっかの村にまだ屋敷が残っているらしい?)、その場所に近づきようもない。
この手の怪異は、実際に現場に近づかなければ被害を被ることはないものだ。百合絵はオカルトな話は大好きだったが、あくまで動画を見たりサイトめぐりをするのが好きというだけ。実際にホラースポットに足を運んで、怪異に巻き込まれたいと思うほど物好きではなかったのである。
ところが。
その日の夜、百合絵は夢を見たのだった。月明かりが差し込む薄暗い屋敷の中にぽつんと一人で佇んでいる夢を。
――最初はただの夢だと思った。
ぎゅ、と両腕で自分の肩を抱きしめながら百合絵は思う。
――あんな話を調べて寝たから、ついつい夢に出てきちゃったんだって。……でも、実際は違った。これは、ただの夢なんかじゃなかった。
最初の夜。屋敷の中をふらふらと歩いていたら、ふと中庭がある場所に辿りついたのである。満月だったようで、青白く光る庭は存外明るい。ただし、芝生の上には枯れた枝やら小石やらが散らばり、ボロボロの雑草が生え、立っている樹木は今にも倒れそうなほどしなびている状態。到底、まともに手入れされているようには見えなかったが。
中庭の広さは、おおよそ二十畳くらいだろうか。おおよそ正方形のような形をしているようだった。だが、庭を詳しく観察することはできなかったのである――それ以上に目を引くものに気づいてしまったがために。
『いいい、うううううう、うううううううううう!』
それは、真っ黒な人影。
その人物が、ずり、ずり、と別の何かを引きずっているのである。傷だらけで血まみれ、痣だらけのそれがなんなのかすぐに分からなかった。ただ、軋むような呻き声を出し続けていることに気づいて思わず息を呑んだのだ。
『うううううううううううううううううううううううううううう、うううううううう、ぐううううううう、痛いイ……!』
それは、人間だったものだった。
一体どれだけ長い時間、小枝や小石だらけの芝生の上を引きずられていたのだろう。目鼻は削れ、真っ赤な口が開くばかりのそれは、もはや男か女かもわからなかった。いや、長い髪にスカートを履いていた気がするから、多分女だったのだろうか。
その黒い影は、女を肉塊になるまで引きずっていたのだ。女を苦しめて殺す、そのためだけに。
――私に気づくと、そいつは女を引きずりながら追いかけてきた。
思い出すだけで、震えが止まらない。百合絵は慌てて逃げた二階まで逃げたところで、最初の晩は目が覚めた。
ああ、なんて恐ろしい夢だったのだろう。その朝は、夢であることを理解して安堵したのだが。
問題は、その次の夜も、さらに同じ夢を見る羽目になったということだ。しかも、二階の廊下へ駆け込んだところから。夢が続いていたのだ。百合絵は再び、その人物から逃げなければならないと気が付いたのである。
――こういう話は聞いたことがある。夢の中だからって侮っちゃいけない。あいつに夢の中で捕まったら、間違いなくろくなことにならない……!
二回連続で見ただけならば、まだ偶然だと割り切ることもできたかもしれない。しかし、それが何日も続くとなれば話は別だ。
明日こそ、お祓いに行こう。とりあえず今夜は耐えなければいけない――そう思って百合絵は今、この書庫に籠城しているというわけである。
――だ、大丈夫よ。今までだって逃げ切れてきたんだから。時間が経てばまた夢から醒めることができるはず。そうすれば現実に戻れる。私は助かるんだから……!
時間さえ稼げばいい。というか、対策はそれしかない。元より体力がある方でもないのだから。
祈るようにぎゅっと目を閉じた、まさにその時だった。
ドン!
「!?」
何かを叩くような、重たい音。百合絵はぎょっとして顔を上げ――次の瞬間絶叫していたのだった。
「きゃあああああああああああああああああ!?」
ドアさえ塞げば安全?何でそう思ってしまったのだろう。この部屋には、窓があったというのに!
そう、月明かりが差し込む書庫の窓。その向こうから、真っ黒な影がこちらを覗きこんでいたのである。そしてどん、どん、と窓を叩いているのだ。
「や、やめ、やめてっ……!」
椅子をどけて、廊下に逃げなければ。そう思うのに、椅子から転げ落ちた途端、腰が抜けて立てなくなってしまった。
早く、早く、早く。
心ばかり焦っているうちに、どん、どん、と窓を叩く音は大きくなっていく。次第にそれは、肉を激しく打ち据えるような音へと変わっていく。
まずいと思った瞬間、びしり、と硝子に罅が入るような音が。
「いや、いや、いや……!」
尻もちをついたまま、百合絵は窓から離れようと後ずさる。
硝子が粉々に砕ける。その窓からゆっくりと、黒い悪魔が部屋の中に侵入してくる。
その手に持っているのは、大きな鋸。捕まったら、自分もきっと。
「いや、いやあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
悪夢の館の中。百合絵の絶叫は、長く尾を引いて木霊したのである。
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