妄想彼女
飛烏龍Fei Oolong
第1話
「今日は楽しかったね」
ベンチに座る僕の隣で、彼女がそう言って微笑む。空はすっかり夕暮れ時で、茜色と藍色のコントラストがとても綺麗だ。
駅から少し離れたこの公園は、時間も相まって人通りはまばらだ。小さな木製のベンチに僕と彼女の二人きり。時折吹く風が、腰まで伸びた彼女の艶やかな黒髪を優しくなでる。
「今日はありがとう、あの水族館行ってみたかったんだ」
「うん、僕も。話に聞いてたけど、本当に綺麗だったね」
「特にクラゲのところ! 幻想的でロマンチックで、綺麗だったなぁ」
彼女はその光景を思い出すように顔を上げる。夕日に照らされて、長いまつ毛に縁取られた瞳の奥がキラキラと揺らめく。
すっと通った鼻筋の下には、薄桃色のぷっくりとした唇。剥きたての桃のようなその唇は、今日見たどのクラゲよりも柔らかそうで、愛らしい。
そしてその愛らしさに少々不釣り合いな母性溢れる胸元。水色のワンピースに窮屈そうに収まるその胸が、彼女の呼吸に合わせて柔らかく上下する。
ついつい見とれてしまっていると、彼女は照れたように「えへへ」と笑った。
「そんなに見つめられると照れちゃうな……」
はにかむ彼女の笑顔は夕日に照らされて茜色に染まる。その夕焼けに負けないくらい頬を真赤に染めて微笑む彼女を見て、僕は自然と彼女の事を抱きしめていた。
「ちょっと! ど、どうしたの、急に……」
突然の事に彼女は一瞬身を固くしたが、すぐに緊張も解けて僕の事を優しく抱き返してきた。マシュマロみたいにやわらかな彼女の身体からは、何かの花みたいな、さわやかで甘い香りがした。
「まなみちゃん、好きだよ。愛している」
僕は彼女の耳元で囁いた。彼女の肩がびくっと震える。一際存在感のあるその胸の奥で、トクントクンと鼓動が早くなっていくのを感じた。
「うん、私もだよ」
「私も、なに?」
「もう! いじわる!」
彼女の華奢な手が僕の胸元をぽんぽんと叩く。胸に伝わるその刺激が心地良い。
「ごめんごめん、ちょっと調子に乗りすぎたね。機嫌なおして——」
そう言いかけた時、不意に彼女の顔が近づいてくる。頬をすりよせるように口元を僕の耳に近づける。触れ合う頬は熱く、ほんの少しだけ汗ばんでいた。
「私も、君の事好き。大好き、愛してる。ずっと、一緒にいてね……」
耳元から聞こえる彼女の声。ささやくような、歌うような声。その声が彼女の熱い吐息と共に僕の耳の奥にとろりと流れ込んでくる。頭のてっぺんからつま先まで、しびれるような感覚が駆け巡り、思わず身体が震えた。
この時間がずっと続けば良いのに——。沈む夕日に照らされながら、僕とまなみはお互いを確かめ合うように、一層強く抱きしめ合った。
僕が話し終えて一息つくと、僕を取り囲む数人の男共が嗚咽を洩らす声が聞こえた。
教室の一角、僕の机を中心にクラスの底辺メンバーが集まっている。時刻は昼。飯も食べ終わり、教室のあちこちで各々が自由時間をきままに過ごしている。そんな中での僕らの光景、すすり泣きく陰キャ男子共の図は、控えめに言って地獄だろう。
「な、泣く事ないだろう?」
「うるさい! なんでお前だけそんな美味しい思い出来るんだ!」
「そうだ! お前みたいな超絶陰キャに、そんな最高な彼女ができるなんて……」
「陰謀だ! 天変地異だ!」
男共は目を血走らせながら身体を乗り出して叫ぶ。なんとも失礼な事をいう奴らだ。お前らだって底辺ド陰キャだろうが——。
「なになに? なんの話?」
突然、一人の女子が話しかけてきた。健康的に焼けた小麦色の肌が、大きく開いたシャツの胸元から見え隠れする。短いスカートからすらりと伸びた足はきゅっと引き締まって、何かスポーツでもやってそうな感じだ。
明るい茶髪のポニーテールを揺らす彼女とは、みんな普段話す機会もほとんどない。なぜなら、僕らと違いカースト最上位にいるからだ。そもそも住む世界が違うのだ。
「さ、斎藤さん。ごめん、うるさかった……?」
「は? 別にそんなん言ってないし。なに話してんのか気になっただけじゃん」
斎藤さんは細く整えられた眉をひそめて不機嫌そうな視線を向ける。普段聞きなれない強めの語気に思わず身を固くしてしまう。
「で? なんの話?」
「えっと、こいつの彼女の話聞いてて」
「ええ! アンタ彼女いんの? いがーい」
いわゆるコイバナだとわかると俄然興味があるらしく、斎藤さんは身を乗り出してきた。
存在感のある谷間がさらに強調され、僕の目の前に飛び込んでくる。ちらりと薄水色の下着が覗き見えてしまい、僕は慌てて視線を外した。
「ねえねえ、どんな子? 写真見せてよ」
「いや……彼女、写真撮られるの苦手で……」
「はあ? ないの? 一枚も?」
「う、うん。一枚も……」
「マジぃ? もしかしてアンタの妄想なんじゃねえの?」
「ち、違います! 本当に、います……」
思わず上擦りそうになる声を必死で抑えてそう言った。
「じゃあいつどこで知り合ってか言ってみ?」
「えっと……——」
キーンコーンカーンコーン
僕が次の言葉を探していると、始業のチャイムがなった。僕の周りにいたやつらは名残惜しそうに自分の席へと三々五々戻っていく。危なかった——。僕は人知れず安堵の溜息をついた。
そう、僕の彼女“新条まなみ”はこの世に存在しない。
僕の妄想から生み出された、架空の彼女なのだ。
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