20 及川 浬
厚みのあるディスプレイのノートパソコンに 文字を打ち込む作業は、ドアを開けることよりも困難を極めた。
腹から溢れたものを、それを受けた腿の感触を思い出す度に、腹の底から
指先だけに集中しなければならない。
充満する感情と思考を、キーボードに触れる 指先にだけ滲み出させる。
そうしなければ、文字を打ち込むことが出来ない。
ディスプレイには、どうにか打った “今田” という文字が表れたが、表れた途端に消えていく。
届いているのか... ?
“来いよ” と打ち込み、表れても、それは途端に消えた。
文字が消えると、メモのような画面だったものも消え、暗くなる。
ディスプレイは何も映さない。本来なら映るはずの俺の顔も。
途端に消えても、諦める訳にはいかない。
どうにかして、どうしてでも、ここに誘き寄せる。
俺にした事を思い知らせてやるために。
文字を打ち込むと、メモのような画面になって 文字が映り、途端に消える。
打ち込むことを止めると、電源を落とした時のように画面は暗くなる。
だから、打ち込み続けるしかない。
打ち込み続けていると、突然 画面が明るくなった。緑の色が縁を彩っている。
... これは、あのメッセージアプリの画面じゃないのか?
俺を ここに呼び出した...
だが、そこにあるはずの会話の文字はなく、空のページだ。
今田のじゃないのか? 誰に繋がっている?
上部に記載されているはずの名前の欄には、何も書かれていなかった。
... いや、誰でもいい。
こいつに、今田を連れて来させる。
相手が誰でも、そいつが開くメッセージアプリの名前の欄は、俺の名前が入っているはずだ。
及川 浬からのメッセージだと分かるだろう。
集中して打ち込んだ “今田と” という文字が消えると、“あの男を” と打ち込む。
それが消えると、“連れて来い” と打ち込んだ。
何度も繰り返していると、メッセージアプリの画面が消え、元の何もないメモのような画面に戻った。
それでも打ち込む。諦めるものか。
病院の受付側の壁を通り抜けてきた男が、黙って俺を見ている。
全身が白いが、眼鏡をかけ、白いワイシャツに くたびれたスーツパンツを履いている。
無視していると 右側の壁の向こうへと消えた。
俺は、あんな風にはならない。やることがあるからだ。
男が消えた壁から画面に目を戻すと、また画面が変わっていた。
白い画面には、淡い緑の簡素な飾り縁が付いている。
“羽加奈 南 羽山病院
診療科目 内科、消化器内科、外科
診療時間 月火木金、9時から18時、水・土、9時から13時”...
この病院のホームページじゃないのか?
このパソコンは、この病院の過去のものだ。
あっておかしくないが、どうして出たんだ?
画面は、ホームページの下へとスクロールされていく。
地図、院内の見取り図の下に、診療科の紹介などが続くが、その下の “お問い合わせ” の更に下には、メールを表しているのか 封筒のマークが点滅していた。
開いてみると、画像が映し出された。動画だ...
暗い部屋が パッと明るくなった。この事務室だろう。誰かが照明を点けたようだ。
そいつが グレーのデスクの引き出しを開けている。
引き出しの中には、書類のような用紙やペン、クリップなどが綺麗に整頓されてあった。
その中から、白衣の袖の手がメモ用紙を取ると、ペンは その手の主が どこからか取り出したのか、メモ用紙の真ん中に細く几帳面な手書きの文字が ゆっくりと書かれていく。“忘れないよ” と。
同じメモ用紙の右下に書かれた日付は十数年前。
隣に書かれたのは 名前なのか? “高坂” とある。
メモを書いた主が視線を上げると、今 目の前にあるパソコンのディスプレイに顔が映った。
あの白衣の男だ。
白く痩けた顔の中の眼は、憎悪で血走っている。
そうか... これは、あの白衣の男を映したパソコンなのか。自死する前に。
メモは、開いた引き出しに そのまま仕舞われた。
あの男が恨んだ事務員の ひとりなのだろう。
動画が消えると、院内の見取り図の場所まで戻った。
『きみ、ころされてたね』
背後の声に振り返ると、さっき壁に消えた男が立っていた。
男は『ころされてた』と 繰り返した。
... 白衣の男は、“ドアや壁を擦り抜けるような者は、自分が誰だったかも忘れている” と言っていたが、そうじゃないのか?
『見てたのか?』と 聞くと、男は また
『ころされてた』と 言う。
『ころされてた。ころされてたよう。ころされてた。ころされてた』
忘れてるな。
ただ、たまたま目撃したことを言っているだけだ。
考えてみれば、殺された俺に わざわざこうして “殺された” と繰り返すのも、意味が無い行動だ。
『ここで、高坂先生が ころした?』
男は、俺の背後から パソコンの画面を見ていた。
画面に目を向けると、院内の見取り図の中に表れた赤い点が移動していて、この事務室から あの地下の部屋へと辿り着いた。
『ころされた。高坂先生に ころされた。高坂先生は たくさんころした。
わすれない。わすれない。わすれないよ』
このパソコンは、こいつの物だったのか?
「... ねぇ、マジでヤバくない?」
壁の向こう... 受付のカウンターよりも向こうから、声がした。生きている奴の声だ。
背後にいた男が ふつりと消えた。
「大丈夫だって。もう、テープも外されてんじゃん。まだ明るいしさ」
「オレら、事件後 一番乗りじゃね?」
誰だ? 今田じゃない。
パソコンの画面は メッセージアプリの画面に戻っていたので、“今田を” と打ち込み、消えてもすぐに “あの男を” と打ち込んでいく。
「入るところから撮れよ」
“撮る”... ?
強力な懐中電灯のライトと ビデオカメラを持つ女と、不格好な頭をした男が持つメスが、白く輝いて見えたことが甦り、冥く濁る重たいものが 手のひらや口から溢れ出した。
腹を裂く。裂いてやる。俺がやられたように。
パソコンにも それは文字になって表れ、画面が明滅し始めた。
壊す訳には いかない... そう分かってはいても、溢れ出すものを止める手立てもない。
「... みなさん、最近 起きた痛ましい事件を ご存知でしょうか?
僕達は今回、その事件が起きた廃病院に潜入しています」
冥いものを溢れさせたまま、事務室のドアを開けると、「いやっ」という 女の声がした。
「おぉ... 」
「もう、音がしました。
この病院では、過去に 何人もの患者が医療ミスで亡くなり、その担当医が自殺をした という噂もあるそうです」
スマホを持った男が 二人と、喋っている男が 一人。女が 一人いる。
「ですが 僕らは今日、この逢魔時に、事件が起きたという あの地下室で、霊との交信を試みたいと思います。
それでは、早速 現場へ向かいます」
今田と そいつ等は、地下への階段の方へと向かっていく。
追わなければ。追って、あの部屋で 腹を裂いてやる。
止めどなく溢れ出したものが 足を重くする。
クソッ... クソ...
「この扉の先が、地下へと続く階段のようですね。開けてみます。
... 見てください、これ。中は真っ暗です」
「待って、今... 」
階段には、白衣の男が居た。
『あぁ、また... 』と、俺に言っている。
階段の前に居る奴等は、何かを感じた という程度で、白衣の男が見えないようだ。
俺には、そいつ等の背中越しにも男が見えるのに。
『こいつ等は、君を殺した者ではないよ。
あの携帯の持ち主でもないねぇ』
いいや、嘘だ。女は今田だ。俺は、呼び続けていたのだから。
「... 今、中から、風が通ったような感覚がありました。この先は地下なので、そんなはずはないのですが... 」
立ち止まっていた奴等は、おそるおそる階段を降りて行っている。
重たい足を引きずるようにして 後を追う。
『とにかくねぇ、叫ぶのをやめてくれないかな?
頭に響いて敵わないよ』
叫ぶ だと? 俺は何も...
「あっ! ヤバッ!」
「これ、今 照らしてるとこ! 見えますか?
“霊安室” と書いてあります!」
「ここから、異常に寒くなってきてます... 正直、もう帰りたいです... 」
... いいや、こいつに構っている暇はない。
早く追わなくては。
冥く染まった重い足を引きずりながら、一歩 一歩 階段を降りる。
階段を降りた先... その奥の方で、ドアが軋み
「キャアッ!!」
「うわあッ!!」... という悲鳴が響いた。
「... これ」
声を震わせている男が
「血の 跡... ?」と 続けている。
「ちょっと、一回 止めて」
階段を降り切ると、そいつ等は奥の部屋の前で
「これ、いくらなんでもヤバくないか... ?」
「もう充分じゃない?
動画 上げても、削除されるだろうし... 」と、震えながら話していた。
「いや、やろうぜ。
ヤバくねぇと再生数も登録数も稼げないだろ。
誰かに撮られる前に やらないと。
こんな面白いことないしな」
面白い?
俺が、死んだ事を言っているのか?
足に纏わりつき、重く溜まっていた冥い何かが 床を這い進んでいく。 許せねぇ...
それが壁をも這い上り、天井に到達して通路を覆い込むと、サーー... という 妙な音が響き出した。
これは、血液が流れている音だ。あいつ等の。
俺にはない音...
一人が無言で走り出し、俺の前を通り過ぎると
「おい!」「イヤッ! 待ってよ!!」と、他の奴等も走り出した。
女が 俺の目の前、階段の前で へたり込み、男 二人が
「おい!」「立てよ、逃げるぞ!」と 支え起こしている。
いいや、待て。行くな。面白いんだろう?
同じ目に合わせてやるから。
女は、支えられても 階段に足を乗せられず
「違う、違う... あたしじゃない... 」と、泣き喚いている。
「ちょっと、お前... 」
「マジでヤバいんじゃねぇの... ?」
がぼがぼと冥いものを吐き出しながら
『今田... 』と呼ぶと、男 二人は 女を引きずりながら階段を昇り出した。
「違う、あたしは、その人じゃないぃ...
お願い、信じて... お願いします おねがいします... 」
そいつ等が階段を上り切ってしまう。
“自分は今田じゃない” と言い張る女も。
それなら...
『今田と... あの男を... 連れて来い... 』
俺の口から溢れ出て落ち、這うものが、そいつ等の背を追う。
... “いい加減にしろよ!!”
突然 響いた声が、通路の
誰だ? あいつ等の声じゃない 男の声だ
あの、不格好な頭をした男か... ?
いい加減にしろ だと... ?
『... おまえ ... おまえが』
俺を、殺したんだ
バンッ! と 音を立てて、階段の上のドアが閉じた。
********
今田... 来いよ... 戻って来い...
事務室のパソコンの明滅は止んでいた。
もう 一度だ。もう 一度... いや、今田と あの男が ここに戻るまで、文字を打ち続ける。
俺は ここに居る...
途端に消えても、今田と あの男が戻るまで、やめる気はない。
地下の... 血溜まりで...
同じ目に... 合わせてやる...
腹の中身を... 見せてやる...
サーー... という、血液が流れる音がする。
俺にはない音が。
音は、壁と 受付のカウンターの向こうから聞こえてきた。
右側、硝子が割れている入口の前に、誰かが立っている。
「及川 くん... 」
やっと...
今田だ。
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