ヨシおじさんとぼく
狐
背徳的カーリング
今考えると、普通に関わってはいけないタイプの親戚だったんだと思う。
父さんの弟であるヨシおじさんは無職だ。父さんの実家に居候しているが、お盆に親戚が集まるたび、「明るいことだけが長所のゴクツブシ」とか「脳の代わりにババロアが詰まってる」とか色々言われていた。それても、僕は子どもの目線に立って遊んでくれるヨシおじさんのことが好きだった。
「なぁ、ケンタ。カーリングやろうぜ」
「ユウトね。いい加減名前覚えて……」
「鳥みたいな顔してるから、お前はケンタだよ!」
あの頃は冬季オリンピックのおかげでカーリングが俄に注目され始めた頃だった。世俗に疎いヨシおじさんでもその楽しさは知っていたようで、しきりに僕をカーリングに誘う。よりによって、氷も何もない8月に。
「知ってるか? カーリングって、家で出来るんだよ」
僕たちは箒を持って廊下に集まる。ヨシおじさんは爪先で床を撫でると、手に持っていた容器からヌルヌルした液体を板張りの床に注ぎ始めた。
大人になった今ならわかる。ローションだ。肉体同士の接触を滑らかにする、あのローションだ。独り身のヨシおじさんがそれを持っている理由を当時の僕は知る由もなかったが、今ならなんとなくわかるようになってしまった。そんな大人の象徴、ローションだ。
ヨシおじさんは廊下に直でローションを撒くと、棚の上に置かれた陶磁器の皿を滑らせるように放り投げる。コマのように横回転しながら廊下を滑る皿を真剣に見つめながら、僕に鋭い声で叫んだ!
「ヤップ、ヤップ!!」
おそらく箒でローションまみれの廊下を掃け、ということだろう。モップならともかく、箒でローションを掻き分けられるかは疑問だったが、僕は言われるがまま皿の進路を確保する。L字廊下の長辺を駆け抜ける皿が、摩擦を無視するかのように速度を上げる。
「ウォー、ウォー!!!」
奇声を上げたわけではなく、これもカーリングの合図らしい。それを察した僕が掃くのをやめると、廊下の奥はローションが足りないのか皿は緩やかに減速していった。突き当たりの土壁にぶつかるか、という瀬戸際で回転は止まり、廊下にはナメクジが這ったような痕が残る。ヨシおじさんはその様子を確認すると、得意げに笑った。
「わかるか、ケンタ。チキンレースだよ。ケンタだけに……」
笑いのセンスはないが、遊びのセンスはある人だった。誰かが大切にしているかもしれないものを壊すかもしれないスリルは最高のスパイスだということを、幼い僕に教えようとしていたのか、ヨシおじさんは次々と実家の家宝らしきものでカーリングを始める。重そうな壺、祖父の大事にしている盆栽、高そうな酒瓶、etc……。どれも土壁に当たることなく、無傷で廊下を駆け抜けていく。
心が震えた。いや、バイブレーションした。まるで交通量の多い道を信号機なしで捌くかのように、丁寧に加速と減速を行う。スリルと背徳を味わいながら、僕はローションの輝きに夢を見たのかもしれない。大人になって僕がそれを愛用するようになったのは、間違いなくこの原体験のせいだ。
「……じゃあ、もっとデカいのでやるか」
ヨシおじさんに案内されて外に出た僕は、バケツ何杯ものローションを庭に撒く様子を見せられることになった。炎天下の野外でアスファルトに打ち水よろしくローションを撒く叔父の姿は、不思議と神々しかった。彼はその時だけ人間ではなく、ローションの妖精だった。
「今から兄貴の車を出す。アクセルを思いっきり入れて、良いところでブレーキを踏んでくれ。どっちがギリギリを攻めれるか、勝負だ」
「おじさん、僕免許とか持って……」
「細かいことは気にすんな、男だろ?」
私有地で助かった。生涯でそう思った体験は、この時以外ない。
もはやカーリングでもなんでもない、ただの交通インシデント誘発ゲームだ。初手でチャレンジした僕が恐怖から早めにブレーキを踏んだことを囃し立てながら、後攻であるヨシおじさんが運転席に乗り込む。その瞬間、ローションが思わぬ形で牙を剥いた。
ローション、つまり潤滑油だ。炎天下のコンクリートは想像以上に高温で、そこにタイヤの摩擦熱と排気ガスの熱が加わる。要するに、発火した。それはもう、めちゃくちゃ燃えた。
デロリアンばりのバーンアウト痕を刻みながら、父さんのワゴン車が燃えていく。慌ててドアを開け、飛び降りるヨシおじさん! 地面を転がって体をヌルヌルにしながら、なんとか脱出に成功する!
その様子を見て慌てて飛び出した父さんの顔が青ざめ、すぐに怒りの赤に染まった。まるで、信号機みたいに。
その日、僕は初めて大の大人が鮮やかに土下座をする様子を目撃する。
ローションの妖精の大きな背中は、小刻みにバイブレーションしていた。
ヨシおじさんとぼく 狐 @fox_0829
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