#10 Past
チカゲが住むアパートの向かいにある建物。その屋根でヴェルザンディは膝に頬杖をし、座っていた。窓辺に座り込んだまま動かないチカゲを静観する。
その隣に淡い緑の光が集まり、人型になった。
『呼んだ? ヴェルザンディ』
薄緑のドレスを両手で押さえながら、茶色のショートブーツが屋根に降りる。清楚を思わせるような綺麗な花の冠。月のような白い瞳はとても静かで、口許は嬉しそうに少し緩んでいた。
『わざわざ来てもらってすまん。ウルズ姉は、確か過去と偶然を司る女神だったよな』
『ええ、そうよ』
ウルズはヴェルザンディの隣に座る。足を広げる彼女とは違って、ウルズはお淑やかに膝を閉じた。
『あそこの部屋にいるチカゲ・リンデルの運命が狂わされてんだよ』
『どうしてわかったの?』
『アイツの影に黒人形が埋められてた』
言って、胸に丸い穴が開き、動かない黒い人形をウルズに手渡す。
触ると、ふにゃっと体がしなり、もう二度と動く気配はない。
指で強く擦ると黒色は薄れ、そこに書かれているルーン文字を見つける。表面が濡れているように青く光っている神威が犯人だ。
『オージン様の黒人形ね』
『アイツの女のヴィヴィは、ワタシが着いた頃には、もう死んじまってたから黒人形は回収できなかった……が、恐らくそれもオージンの仕業だろ。今確実に言えるのは、ヴィヴィの《死の祝福》内容が変わってたことだな』
『いくらオージン様でも、私たちが下した決定には逆らえないはずよ』
黒人形をヴェルザンディに返すと、彼女はそれを握り潰す。黒と青の砂となり、風に
『オージン単体の力では無理でも、知恵の泉からいくらでも裏技やら悪知恵やらを搾り取れるだろ』
『……確かに、そうね』
『問題なのは、なぜオージンが人間の運命を狂わせる必要があるかだ。あのチカゲ・リンデルに原因があると考えてるんだが、よくわからんくてな』
『だからあの子の過去が知りたいの?』
『うん』
『それだけ?』
ウルズは白い瞳で彼女の顔を覗き込んだ。さらりとオリーブブラウンの髪が落ちる。
神が嘘をつくなよ、と言わんばかりの圧力に負け、ヴェルザンディは重たい口を開いた。
『……先月発売されたゲームの『
『……………………』
ヴェルザンディの答えを聞いたウルズは、電源が切れたように表情が消え、黙った。
本に挟んでいるしおりとチカゲの体は赤い糸で繋がっている。その本は彼の人生を記した
ヴェルザンディは『自分で読みたい』と懇願するが、伸ばした手を叩かれた。
『そうねぇ』現在を示すしおりより手前のページを
『あの子の過去に私が気になるのは、八歳の時に大きな交通事故に遭ってることね』
『事故?』
『その事故で大量出血をして、輸血を受けているわ』
『輸血……』
チカゲを眺めながら、ヴェルザンディはふむと考える素振りを見せる。
『気になるところはここね、その輸血した血が誰のものか』
『誰なんだよ』
『わからないのよ』
『わからない? 病院側が誰の血か把握してないってこと?』
『いいえ。この本自体に、その血の所有者の名前が黒く塗り潰されているの』
『神の所有物なのに、あとから塗り潰したってか?』
ヴェルザンディは舌打ちをする。
『まず私がこんな雑なことはしないし、
前例がなくて自信はないけれど、と付け足す。
『運命を変えるってんなら、やっぱり
『神族なら、それなりに位が高い者でないと、
ヴェルザンディは立てていた右膝を伸ばし、両腕を空に上げ、体をグイッと伸ばした。
『輸血された血が誰の血なのか、気になるな。んー、オージンが関わってんなら、神の血とか?』
『まさか。そんなことをすれば、人間の器が耐えられないわ』
ヴェルザンディに向けていた視線をチカゲに移す。その表情と声色に皮肉の色が帯びる。
そんなウルズを見て、ヴェルザンディもチカゲを見下ろした。
『オージンの実験か』
『私が知ってるのはその結果だけよ。……本当、全て忘れられたらいいのに』
『小人族を絶滅に追い込むぐらいの実験だったしなァ』
あ、と何かを思い出したようにウルズは声を漏らす。
『人間は巨人族の血なら適応することがわかってるわ』
『巨人族の血ねェ……』
両膝に頬杖を突き、『うーん』と唸る。ヴェルザンディはぼそりと呟いた。
『黒塗りは原初のアウルゲルミルの血って書いてあったりして』
ウルズは一瞬目を剥いたが、一呼吸置いてから冷静さを取り戻す。
『原初のアウルゲルミルで世界を作ってから、どれくらいの時間が経つと思ってるの。その血が今もあるわけないじゃない』
ヴェルザンディは考え込むように口を閉じる。
『急に黙り込んじゃってどうしたの?』
『いやァな……今の人間は、確か牝牛アウズフムラから生まれたんだよな?』
『そうだったと思うけど』
『じゃあ、アウルゲルミルで作った人間はどうなった?』
『オージン様は滅びたとおっしゃっていたけど……まさか生き残ってると言いたいの?』
パタンッと本を閉じた。これ以上本を持っていても意味はない。ウルズが手を離すと、本も糸も消えた。
『オージンだけの
『そうね』
『世間的にアウルゲルミルの血が滅んだと認識されないと、オージンに都合が悪いと仮定する。何らかの理由で、アウルゲルミルの血か、それに酷似した血が存在して、その血をチカゲ・リンデルに輸血しなければならなかったとしたら』
『仮に誰かが
『そうだ。オージンは原典を書き換えたがってる。原典を書き換える為のインクは、原初のアウルゲルミルの血か、同等の価値あるものじゃねえとダメだってロキが言ってたしな』
ヴェルザンディは目を細め、ニヤアァァと赤い唇を歪ませた。『ああ、あと』と前置きをして話を続ける。
『アイツを助ける為に抱えた時、人間族なのに濃い巨人族のにおいがした』
『わからないことだらけね。真実はどうであれ、知らぬうちにオージン様の計画に巻き込まれてるなんて可哀想に』
ウルズは慈悲深き眼差しをチカゲに送った。
そんな彼女と反対に、ヴェルザンディは嬉しそうに立ち上がる。
『原典を書き換える為のインクを先にオージンに見つけられていたのは
『どうする気なの? 乱暴な真似をしちゃあダメよ』
『そんなことはしねえよ』
そうだなァと、考えに
『まずはチカゲ・リンデルの良き隣人になろう』
ニコオォォと豪快に笑った。
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