雨の日、バス停にて邂逅するは。
雛星のえ
彼女は、雨の日にしか現れない。
自分の人生は、まぁまぁ順調だったとでも言えよう。
一人っ子で生まれた相良は、両親の愛情をその身にたっぷりと受け育ってきた。
すくすくと成長し、試験を乗り越えて、第一希望の高校へ。勉強も、部活も、苦手な対人関係だって頑張って友達と言える存在を作り、何一つ不自由なく過ごしていた。
両親が、帰らぬ人となるまでは。
それはあまりにも突然の訃報だった。
相良が友人宅にて夜通しゲームパーティーを楽しむ傍ら、彼らは飛行機にて海外旅行を満喫していた。
その帰り、不幸にも機体は事故に見舞われた。原因は杜撰な管理体制による整備不良。操縦の自由が効かなくなった鉄翼は、そのまま山中へと墜落。生存者ゼロ名という、実に最悪の事故であった。
――独りになってしまった。
未成年である相良は、一人で生きていくことができない。生活能力こそ多少はあれど、法がそれを許さない。それ故に、母方の祖父母の家でお世話になることとなった。
元いた場所から、数本もの電車を乗り継ぐこと約三時間。都会の喧噪や人工の光であふれる世界とは打って変わって、一面緑色が見渡せる世界へとやってきた。
少しずつ気温が上がり始めてきた、高校二年生の初夏のこと。
そんな中途半端な時期に、広橋(ひろはし)相良(さがら)は引っ越してきたのであった。
一学年に二クラスしかないような転校先にて、自己紹介をし歓待を受ける。彼らは、新しい仲間となる相良のことを物珍しそうに見ていた。
クラスの人たちは気を遣って話しかけてくれるが、やはりそれでも、どこか遠慮や壁を感じてしまう。
それもそうだ。今まで団結していた輪の中に、突然部外者が乱入してきたのだから。
元より相良自身も、コミュニケーション能力はさほど高くない。親しい相手だからこそ流暢に話せるのであり、初対面の相手にはしどろもどろだ。だからこの場でも、それは遺憾なく発揮されることとなる。当然、悪い方向へと。
そうこうしているうちに転校生特典は終了する。周りが騒ぎ立てることも少なくなっていき、相良の周囲を取り囲んでいた人間も、最早姿は見られない。。
幸いにして、やれ仲間外れだのいじめだのといった騒動は起こらなかった。かといって「友人」と呼べる存在は一人としていない状態でもある。
空いた時間は机に突っ伏し寝たふりをするか、スマホゲームの周回に一人いそしむ。相良はそんな日々を過ごしていた。
――環境が変わって、一ヶ月ほど経過した頃であろうか。
どんよりとした曇天の中、相良は一人帰路についていた。
徒歩で往復する通学路。足裏から伝わるアスファルトの堅い手応えより、土の柔らかな感触が多いこの道すがら。どうにもまだ慣れそうにない。
不意に、埃っぽい湿気た臭いが鼻先を掠めた。
雨が来そう、と直感で理解する。降られる前にたどり着けるか、否か。歩くペースを少しだけ速めた。
山沿いの天気は変動しやすい。それがこの時期であれば尚更だ。しかしずっと平地で過ごしていた相良にとって、それはただ人づてに聞いた話。実体験を伴わないので、話半分に聞いていたにすぎない。
雨の予兆を感じてから数分もしないうちに、それらはポツポツと下界に姿を現した。
徐々に勢力を強めていく雨粒。本降りになるまで、そう時間はかからなかった。
相良は今朝の天気予報を思い返し、悪態をついた。
今日は一日中晴れますって、気象予報士のお姉さん言ってたじゃん!
だから、傘はおろか折りたたみ傘すら携帯していなかったのだ。自分の準備不足を呪うも後悔先に立たず。
不幸にも、家までは距離があるどころか、学校まで引き返そうにも遠い場所にいた。
一時的でいい。どこか、雨を凌げる場所はないものか。思考を切り替え辺りを見回せば、少し先に屋根付きのバス停があることに気づく。
脇目も振らず駆け込み、荒れた呼吸を整える。文化部所属の人間には、ちょっとした運動でさえ大変に感じるのだ。
まるでそれを見計らったかのように、雨は更にその勢いを増していった。バケツをひっくり返したような、とはよく言うが――。目の前の光景は、まさしくその通りであろう。大量の雫が、整備されたアスファルトや瓦を暴力的に叩く。どうやら間一髪、ピークは免れたようである。
突然降り出したかと思えばあっという間に激化し、その何事もなかったかのように晴れ間を見せる、特徴的な降り方。
恐らく、ゲリラ豪雨であろう。そうであれば、きっとすぐに止むはずだ。ここはおとなしく、太陽が顔を見せるか、もしくは小雨に落ち着くのを待つのが得策だ。
水分を吸ったワイシャツが重みを増す。身体中にへばりついて気持ちが悪い。リュックサックを下ろし、ズボンに入れたシャツの裾を取り出し、気持ち程度に絞っておく。
今度はちゃんと、折りたたみ傘を鞄に入れておこう。この雨じゃきっと頼りないが、ないよりはましであろう。
ふと横に目をやると、先客がいたことに気づく。完全に気配がしなかったので、一瞬仰け反り我が目を疑った。しかし、彼女は確かにそこにいた。
腰まで伸びたツヤのある黒髪。身長は相良よりもやや低めであろうか。彼女の頭と、自分の肩が同じ位置に並ぶ。
鼻筋はよく通り、瞳は女の子らしくつぶらで大きなもの。陶磁器のように滑らかな肌。誰がどう見ても、美人に分類されるのは間違いないであろう。
身にまとうのは、ノースリーブの白いワンピースという、実にシンプルなもの。
彼女は小屋内に設置された木製のベンチに腰をかけ、虚ろな瞳で外を見つめていた。
一体、何を眺めているのであろうか。
その様子をまじまじと見つめ続けていると、彼女は視線に気づいたのか――顔を上げこちらを見やり、首を傾げた。
「……私の顔に、なにかついてますか?」
「へっ!? あ、いや……」
突然声をかけられ動揺する。その証拠に、飛び出たのは素っ頓狂な声。
鈴を転がしたような、高く可愛らしい声色が相良を捉える。
まさか、美人だったから見とれていた、だなんて、恥ずかしくて口に出来ない。
彼女を見つめ続けていたに値する、合理的な理由。なんとかそれっぽい言い訳をしようと、口ごもる相良を彼女は不思議そうに見つめている。
……ダメだ、思いつかない。
観念した相良は、素直に白状することにした。
「ごめんなさい。貴方が、その……あまりにも綺麗だったもので、少々見とれていました」
「わた、私がですかッ!?」
白い肌が、徐々に赤みを帯びていく。彼女は両頬に小さな手を添えると、目を伏せた。
「ご、ごめんなさい。そんなこと、初めて言われたので……、悪い気はしませんけどッ! ……うぅっ」
なんだその反応は。やめてくれ、こっちまで恥ずかしくなってくるじゃないか。
相良は自身の体温が徐々に上がっていくのを感じた。
「えぇと、それで。君は一体、ここへ何しに来たんですか?」
「下校途中だったのですが、突然雨に降られてしまったので雨宿りを」
それはこっちの質問なのだが――、という言葉を飲み込んで、相良は返事をする。
彼女は納得したように、自らの拳をもう片方の手のひらに乗せた。
「ああ、確かに。この時期は特にすごいですもんね」
「そういう貴方こそ、ここで一体何を?」
「私も君と似たような理由ですよ。ふらふら歩いていたら、降られちゃって」
そう言って、彼女は恥ずかしそうに舌を覗かせた。
雨に降られたと言うけれども――。それにしては、服や髪が濡れていないように見受けられる。
もし彼女の言ってることが本当なのであれば、自分のように全身を湿らせていなければ、おかしいのではないか。
それとも、この状況を予期してここで雨宿りを? 地元暮らしが長ければ、いつ雨が来るかどうか、土地勘のようなものでわかるのではないか。
突っ込むだけ野暮だと感じた相良は、何も言わずに無理矢理自分を納得させることにする。
「……あ、雨、止みましたね」
その後も続いた会話。ふと外を見やれば、先ほどまでの天気はなんだったのか。日の光が姿を見せていた。
そろそろ帰ろうと、言葉と共に立ち上がる。リュックを背負いバス停を後にしようとする相良を、別れの言葉を告げるよりも早く、小さな声が引き留めた。
「あの、もしよかったら、なんですけど……またここに来てくれませんか? 君とお話しするの、すごく楽しいので」
「まぁ、俺でよろしければ……」
「やったぁ!」
彼女は、それはそれは嬉しそうに声を上げた。
会話内容と言えば、ただの世間話にすぎないようなことばかりだったはずだが。しかし相良自身も、身内以外で長話をするのは久々であったので、悪い気はしていなかった。都会に残してきた友人たちとは、残念ながらトークアプリ内の会話にとどまっていたので。
そこで、相良はふと思い出したように言う。
「そういえば、自己紹介がまだでしたね。広橋相良っていいます。貴方は?」
「私の名前ですか? えっと……私は」
どういうわけか、彼女は言いよどんだ。何故そこで言葉に詰まる必要があるのだろうか。
まさか、自分の名前がわからない……なんてことはないよな?
怪訝な目を向ける相良に、なおも唸る女性。
やがて、彼女は何かを思い出したかのような顔をすると、柔らかく微笑んで、こう言った。
「――ひみ。そう、呼んでください」
――その日から、相良とひみの、奇妙な交流が始まったのだった。
彼女はとても不思議な人だった。
まず、決まって現れるのは雨の日。時間は問わない。雨が降れば、早朝だろうが夕方だろうが、彼女はそこにいた。
今にも壊れてしまいそうな古ぼけた椅子に腰を据え、花のような笑顔を浮かべながら相良を出迎える。ノースリーブの白いワンピースを身にまとい、黒髪を揺らしながら。
そして、彼女はびっくりするほど世間に疎かった。
第一に、バスを知らなかった。
「そういえばここを行き来する、大きな鉄の箱があるのですが……これは一体何なのですか?」
ひみと合うようになってから、数日後のこと。彼女は相良にそう質問してきた。
――嘘だろう? バスを知らないのに、ずっとここにいたと言うのか!?
驚きを隠せない相良であったが、そういえば彼女は、雨宿りのためにここに来たのだと、言っていた。
だからといって、バスを知らない理由にはならないが……。そう思いながら、それはそれは懇切丁寧に説明をした。
話を聞いたひみは、それは便利だねぇ、機会があったら乗ってみたいな、と笑った。
次に驚いたのは、スマートフォンに馴染みがないことであった。いくら最寄りのコンビニが三キロほど先にあるからとはいえ、駅に発着する電車が一時間に一本しかないとはいえ、無線くらいは拾える町だ。クラスメイトだって、当たり前のように持っている。
ある日祖母に帰りが遅くなる、と一報入れようと、鞄のポケットから取り出したとき。
「なんですか、それはっ!」
それが、スマホを目にしたひみの第一声であった。
誰もが当たり前のように所持しているものを、それはそれは物珍しそうに見ている。
興味津々と言ったように目を輝かせているものだから、相良は試しに「触ってみます?」と、彼女に差し出した。
恐る恐る伸ばされた、華奢な指。スマホを受け取ったひみは、相良の手ほどきを受け横へ縦へと指を滑らせる。
「う、うぉおお……これ、光ってる、横に動かすと、見えるものも変わって……ひゃぁああ!? なんか急に音が聞こえてきたよ!? しかもこの中で、人間が踊ってる! 一体どういう仕組みなんだろう……ともかく、この四角いの、すごいんだねぇ!」
スマホという存在を知らなかった、初めて触った――。小さな子供のような反応を見せる彼女。
大げさな言い方をしてしまえば、まるで違う時代を生きていた人のようにも思えるが……まぁ、そんな非科学的な話は、ありえないであろう。蝶よ花よと育てられてきた、よっぽどの箱入りお嬢様に違いない。
相良はそんな彼女を、優しく見守っていた。
ひみの元に通うようになってから、二ヶ月ほどが経過した頃であろうか。
打ち解けてきたのか、彼女の話し方も大分砕けたものになってきた。それでもやはり、相良の方は、ひみが「年上のお姉さん」である手前彼女をさん付けで呼ぶことや、丁寧語で話すことから卒業できなかったのではあるが。
そんなある日、相良はひみにぼやいていた。
「友人って、どう作るんですか」
――あれ? 今、俺なんて言った?
口に出してから後悔する。こんなことを、彼女に言うつもりではなかった、と。
それを聞いたひみは、少々意外そうな顔をしていた。
「……え、相良くん、友達いないの」
瞬きを繰り返し、口がわずかに開かれる。心なしか注がれる目線に哀れみの情が混じっているような、そんな気がしていたたまれなくなった。
今のは忘れてほしいと、相良が声をかけるよりも早くひみが言う。
「う~ん、私はね、町の人皆が友達みたいなものだったからなぁ。特にそういうのは苦労しなかったなぁ~……」
人差し指を口元に当て、何かを想起するかのように目線を上へ。
町の人全員とは、恐れ入った。彼女は見かけによらず、コミュニケーション能力が高いのであろう。
それもそうかと、一人納得した。
対人が苦手な自分でさえ、まるで旧友かのように話すことができたのだ。彼女は存外、相手の懐に入り込むのが上手いらしい。
ひみは相良と視線を合わせると、口角を吊り上げ、優しく語りかけた。
「でもきっと、君のこと、気にかけてくれている人は、近くにいるはずだよ」
――本当にそんな都合のいい存在が、果たしているものだろうか。
そうは思ったが、彼女の面子を立てる意味でも、そして慰めでもかけてくれた言葉を無碍にしないためにも、相良はそっと口をつぐんだ。
相良が、うっかりひみに爆弾を投げてから三日後のこと。
昼休みを終え、迎えた五限目。小太りで中年の教師が、壇上で子守歌を紡いでいた。ボソボソと小さな声で語られる旋律は、どうやらこの町の歴史のようだ。
決して心地よいはずではないが、昼食後ということもあり、周りの多くは船をこいでいた。中にはもろ机に突っ伏し爆睡する者も。
当然のごとく、相良の耳にも入ってはいない。干ばつが、ご先祖様が、儀式が――。いかにも昔の話といったそれらは、右から左へと流れていく。
ふと窓の外に目をやると、午前とは打って変わって、分厚い雲が空を覆い隠していた。
今日も雨が降りそうだ。そしたら、またあの場所にひみさんがいるかもしれない。
辟易するような空模様。いつしか相良は、その雨すら愛おしいと思っていた。
待ちに待った放課後、案の定世界は水流に覆われた。
周りの人は口々に最悪だ、とか、嫌だな、などとぼやくが、相良の心地はまるで真逆であった。
まぁ、雨を喜ぶ人間の方が珍しいのかもしれないが。
「なぁ、広橋」
心躍らせ彼女の元へ向かおうとする相良を、クラスの人間が引き留める。
視線を向けると、そこには男女が怪訝そうな顔をして立っていた。
名前は確か、女子生徒が三枝(さえぐさ)梨紗(りさ)、男子の方が桜井(さくらい)祐介(ゆうすけ)、と言っただろうか。
祐介の方が、重々しく口を開いた。
「おまえ、最近よくあのバス停にいるのを見かけるんだけど……」
「それが何か?」
さも当たり前のように返事をした相良に、彼は何か思うことがあったのであろう。一瞬ではあるが、わずかながら肩が震えたのを見逃さなかった。
祐介の両拳が握られる。
次いで、何かを決心したかのように、ゆっくりと口を開いた。
「……それで、一体、誰と話してるんだ?」
「は?」
相良は面食らう。一体、彼は何を言っているのであろうか。
誰と? 誰とってそんなの、ひみさんしかいないだろう。彼女以外に、誰がいる?
しかし、それは相良自身が知り得ている情報だ。自分が掴んでいる物事を、相手が把握しているとは限らない。
相良は不服ながらも、彼らに説明をすることにした。
「あそこに雨の日にしか現れないっていう、変わった女性がいるんだけどさ。名前は『ひみ』って言うんだ。その人とだけど……何か?」
相良がそう返答すると、彼らは揃って顔を見合わせた。
そして、梨紗の方が申し訳なさそうに口にする。
「あのね……気を悪くしないでほしいんだけどね。この間偶然、広橋くんのこと見かけたの。広橋くん、誰かと喋っているから、お友達ができたのかな? って思ったんだけど……そこには誰もいなくてね……。君が、その、一人で……」
――背筋が凍る。
言いよどんだその先は、彼女が言わんとしていることは、容易に察せられた。
嘘……だろう?
どういうことだ。意味がわからない。
だって、彼女は確かに、そこにいる。
それなのに、どうして
「……嘘だ」
率直な感想は、包み隠すことなく表へと出た。
「そんなの嘘だ。だって、ひみさんは確かにあそこにいる。雨の日に現れて、確かに俺と話をしている!」
「ひみ……もしかして」
「広橋くん、この後、時間ある?」
梨紗の言葉に、何故だかとても嫌な予感がした。
心音が大きくなるのを感じる。まるで、耳元に己の心臓があるかのように、ドクドクと耳障りな音が響いて止まない。
そんな気持ちとは裏腹に、相良は首を縦に振っていた。
――彼らが言うことの意味を、知らなければならない。そう、思ったから。
連れてこられた先は、別棟に位置する図書室だった。たくさんの書籍たちが、所狭しと棚に陳列している。
彼らに案内されたのは、机上に作られたある一角。『この町の歴史』と名づけられており、本が数冊置かれている。その上には画用紙に手書きで、タイトルやざっくりとした説明がなされている。
「これは、あくまで私たちの推測に過ぎないから……。間違っている可能性もあるんだけれど」
「広橋は最近来たばっかりだから、知らねぇだろ。俺ら地元民はそれこそ小学生のときから、嫌ってほど聞かされるんだぜ。この村の伝承を」
真ん中に鎮座している本を、その手に。
ハードカバーに装丁された表紙をめくり、中に目を通していく。
……あぁそうか、これが彼らの言いたいことだったのか。
――だから彼女は、あんな反応を。
……そうであれば、これまでの物事、その全てに説明がつく。
人間とはなんと残酷で、醜く、それでいて――。
祐介、梨紗と別れ、相良はまたあのバス停へと来ていた。
中には、案の定ひみの姿が。彼女は相良に気がつくと、ひらりと手を振って出迎えた。
「こんにちは、って、ありゃ。相良くんどうしたの? なんだか、ずいぶん元気がなさそうに見えるね」
けれど、俺は。
相良は決心を胸に、震える声で彼女に話しかけた。
「……ひみさん」
「今から、俺の長い長い話を、聞いていただけますか」
彼女は相良の改まった態度に対し、面食らったような顔をしていた。
首が縦に振られたのを確認してから、相良は彼女の隣へと腰掛ける。
視線を合わせることはしない。お互い、視界に入れるのは灰色の空だけだ。
「……これからお話しするものは全て、あくまで俺の推測の域を出ないのですが」
そう前置きをして、相良は話を進める。
彼女の正体を。この町の、真実を。
「この町は昔、とある一つの村だった。人々は農作物を育て、狩猟をし、慎ましくも暮らしていた。そんな生活を続けること、数十年。この土地には雨が降らなくなってしまった。人々は困り果てた。農作物が育たなければ、自分たちは暮らしていけなくなる」
一旦言葉を句切る。機嫌を伺うように、彼女を横目で見やる。
ひみは、真剣な顔で真正面を見ていた。
「そこで人々は、雨乞いの儀式を執り行った。しかし、それには残酷な代償が必要だった。その代償の正体こそが、貴方だった。”人身御供”――つまり、生け贄として、この土地に捧げられた人間」
隣で彼女がわずかに動いた気配がした。
申し訳ないと思いながらも、その先を口にする。
「だから、あなたの『ひみ』という名前も、恐らく本名ではないのでしょう?」
「……そうだよ。うん。正解」
しばしの沈黙の後に、放たれた言葉。それは普段の明るい彼女からは考えられないほど重々しく、そして冷酷であった。
「ありがとうと言うべきなのかは、わからないけれど。相良くん、私、君のおかげで、全部、思い出したよ」
そう言って、『彼女』はポツポツと語りだした。
*******
――私は、確かにこの時代の人間じゃない。景色も文明も、何もかも変化してしまった。だけど正真正銘、この土地この村で生まれ育った。そう断言できる。
農作物を育て、動物を追いかけて、木の実を拾ったり。そうやって家族や村の人たちと日々を過ごしていた。その生活は決して裕福とは言い難かったけれど、悪いものではなかった。
けれどもある年。突如として、雨が降らなくなってしまった。
水がなければ困ってしまう。作物は枯れ果て、食い扶持に困ってしまうからだ。ある程度の蓄えがあるとはいえ、いくら持つかもわからない。村人たちは焦燥に駆られた。
そのうち、どこから聞きつけたか、人々は雨乞いの儀式を行うこととなる。
しかし、その儀式には、人身御供――生け贄が必要だった。
どういった人が対象だったのかは、覚えていないの。けれど、神様が好きそうってことで、若い女性の中から選ぶことになったんだと思う。
ほら、神様ってスケベじじいだって、言うじゃない?
空想の産物に責任を転嫁するのもどうかと思うけれど、でもきっと、そっちの方が都合がよかった。
非力でか弱い存在なれば、抵抗も意味をなさないから。
そして、無残にも――白羽の矢は、私に立つこととなる。
拒もうと思えば、逃げだそうと思えば、できたかもしれない。でもそうしたら、私以外の誰かが犠牲になるのは必然。
だったら、私がやるしかない。気乗りはしなかったけれど、その重要な役目を、その身に引き受けた。
両親や親戚はその目に涙を浮かべ、何度も何度も謝罪の言葉を口にしていた。中には同情や哀れみの目線を向る者も。私が視線を合わせにいけば、彼らは揃って静かに目を伏せる。
ごめんな、本当にごめんな。
そうやって謝り倒す彼らを、幼い弟妹たちは不思議そうな顔して見ていたのを、今でも覚えている。
私が人間として過ごすには、最後となった日の夜。
自分から、いいよ、だなんて返しておいて、私は言い知れぬ不安でいっぱいだった。
なかなか寝付くことができない。時間だけが、いたずらに過ぎていく。
最期にこの町を目に焼き付けておこうか、なんて思い、ひっそりと抜けだし夜の世界を散策する。
その最中、私は彼と出会った。
どうやら彼も私と同じく、眠れないから散歩をすることにした、らしい。というのも、私はその時のことを、曖昧にしか覚えていないからだ。
歩幅を合わせ、二人しかいない世界を闊歩する。
交わされる言葉の中、不意に彼がその足を止めた。
本当に、いいのか、って聞かれた。
その問いに、私は何も答えなかった。同じく歩みを止め、振り返って。薄く笑って、彼を見ていた。
沈黙を肯定と捉えたのであろう。彼は、そうか、とだけ呟いて俯いた。
その下、どんな顔をしていたのだろうか。
見ておけばよかったかな、だなんて、後悔と疑問だけが残っている。
そして、やってきた儀式当日。厳かに執り行われるそれは、日没後に催された。
襦袢に身を包んだ私は目隠しをされた。両手首を紐のようなもので拘束され、優しく引っ張られ、それに従って歩みを進める。
どこかで鈴の音がする。シャラシャラと、耳障りのいいそれは、視覚を奪われているせいか普段より明瞭に聞こえた。
誰かがお経にも似た文字列を読み上げる。意味はわからない。けれどきっと、神様に捧げる大事な言葉なのであろう。パチパチと、焼べられた薪が燃えさかる音に混じって。
やがて、その時間は訪れる。
深く掘られた穴に足を、全身を沈めていく。
シャリシャリと、せわしなく土が被せられる音。初めは足首を覆っていたそれらも、堆積すれば顔を覆い尽くすように。
私は、生け贄として、生き埋めにされた。
私の胸中には、ずっとずっとどす黒いものが渦巻いていた。
痛い。苦しい。辛い。息ができない。
ああ嫌だな、やめておけばよかったな。
私だってやりたいこと、もっとたくさんあった。長生きしたかった。
――寒い。でも暑い。寂しい。真っ暗で、何もないの。怖いよ。
そう思い続けて、誰かに会いたくて、――助けて、ほしくて。
幾ばくが経過したのであろうか。気がついたら、君に――相良くんに出会ったのだ。
人に出会うのは実に久しぶりであった。この際、自分が死んでいるだとか、成仏できていないだとかは関係ない。
だからついつい、話し込んでしまった。彼にとってはなんてことのない、ただの世間話にすぎなかったであろう。けれども私は、本当に楽しくて仕方がなかったのだ。
相良くんに私の名前を問われた。そこで名乗ろうとして、はたと気づく。
自分の本当の名前を忘れてしまった。
それらしいことを、唯一覚えているのは、最後の最後。村の人が呟いていた、「ひ……み……」という言葉だけだった。
今になって思えば、そう――”人身御供”、儀式の最中にあげる祝詞の一部か何かだったのだろうか。そんな大嫌いな、忌々しい言葉を自分の名前に使うとは、なんという皮肉であろうか――。
*******
「これが私の全部だね。なんとなく、さ。君の持ち物とか、景観とか、見たこともない陸を走る大きな箱とかを見て、ああ、ここは私の生まれた時代じゃない、っていうのには薄々気づいてはいたんだ。まさか、そのさらに先の未来にまで来ていたとは、思わなかったけれども」
袖口で溢れ出てきた涙を拭った。
まさか、彼女が。
目の前にいる彼女が、こんな過酷な昔話を背負っていただなんて、一体誰が想像したであろうか――。
「……ひみさんはこの後、どうなるんですか」
相良はずっと懸念していた。だからこそ、この話を本人に伝えるのを躊躇していた。
幽霊にしろ、妖怪にしろ、この世に存在するべきではないものたちは、その真相を伝えられたが最後、二度と姿を見せなくなってしまう――。それが創作でもおとぎ話でも、必ずと言っていいほど付与された「お約束」であった。
それ故の憂慮、危惧、恐怖。
もし、それにより、目の前の彼女が消えてしまったら。
もう二度と、会えなくなってしまったら……――。
「わからないかな。私に気づいてくれたのも、声かけてくれたのも君が初めてだったし」
相良の問いに、ひみはゆるゆると首を振るだけだった。
幸いにも、これまたお約束である、彼女の身体が透けたり光り輝く粒子になったりと、そういった現象は起きていなさそうだ。……この発想自体、漫画やアニメの見過ぎではないかとも思うが。
とりあえず今のところは大丈夫そうだと、胸をなで下ろす。
「……辛くは、なかったんですか。苦しいとか、嫌だとか。後悔、だとか。そういうのはないんですか?」
「あはは。確かに苦しかったよ。生き埋めにされるって、とても辛くて寂しいの。でも、こうやって相良くんたちが今を生きているんだもの。だから、よかったのかなって思ってる」
そこで、ひみはふと思い出したように言った。
「そういえば、相良くんの身内は、この町に系譜があるのかい?」
「母がこの町の出身なんです。母はここを飛び出して、都会へ出ましたけれども、先代まではずっと、ここで暮らしていたそうです」
「そうか。そうなんだ。……うん、やっぱり、後悔はしていない」
彼女は、白い歯を見せて微笑んだ。
「そっくりなんだ、相良くん。私が密かに好意を寄せてた人に」
――――――
「おーい相良ぁ、このマルチ手伝ってくれぇえ~」
放課後、ホームルームが終了するなり、祐介が声をかけてきた。彼はスマホを片手に、相良の机上へと身体を滑らせる。
恐らく、昨日から期間限定で実装されたクエストのことであろう。相良は頷くと、アプリを起動して準備をする。
「わかった。火力役を積んでいけばいい?」
「そうだなぁ~回復も出来るとありがたいけれど、とりあえずゴリ押しでいいかなぁ」
「了解……あ、このクエスト、ごり押しは難しいっぽい。失敗報告が何件も上がってる」
「えっ!? じゃぁサポーターよりにした方がいいのか……?」
「祐介、あまり広橋くんを振り回さないの」
梨紗が祐介の頭を軽くはたいた。
なんだよ! なんてかみつく祐介を見ながら、相良は苦笑する。
「……あ、雨、降りそうだね」
つられて窓の外を見やる。灰色に覆い隠された世界は、今にも水を
反射的に立ち上がる。……が、すぐに思い直し、席に着いた。
「なんだ、今日もまた彼女のところに行くのか?」
「ううん、そうじゃないんだ。ただ習慣でさ。もし行ったところで……会えるかは、わからないけれど」
「相良くん、行かないの?」
「うん……」
煮え切らない態度に何かを察したらしい祐介が、わざとらしく身体をくねらせた。
「はぁ~ん。祐介くんフラれちゃったな。寂しいなぁ。相良くんと遊びたかったなぁ~。でも仕方ないよなぁ。可能性はゼロじゃないよなぁ」
「えっ……」
「行ってきなよ。私が代わりに一緒にやっておくからさ」
「……ごめん祐介。明日、昼休みにでも必ず埋め合わせするから!」
手を合わせ謝罪後、急いで昇降口へ向かった。背後から、絶対だぞー、と祐介の声が聞こえる。
あれから、様々な変化が起こった。
まず友人ができた。それが、件の三枝梨紗と、桜井祐介であった。
彼らはあの日、ひみの正体について指摘してきた。それ以降、積極的に話しかけてくるようになったのだ。
真実への罪滅ぼしか、贖罪か。はたまた、単に自分と関わりを持とうと思ってくれていたのか――その心の内は、相良の知ることではない。
ここでもやはり相良によるディスコミュニケーションが発揮されてしまうのだが、それでも彼らは、辛抱強く相手をしてくれた。
そのうち、相良と祐介の間に共通点が生まれることとなる。というのも、同じアプリのゲームを遊び、更にはそれを趣味に持ち合わせていたのだ。
そこから先は早かった。すぐさまフレンド登録をし、協力プレイにいそしんだ。それを梨紗が眺める。やがて彼女も同じアプリをインストールし、三人で遊ぶことが常となっていた。
あれだけ頭を固くして、悩んでいたのが馬鹿らしい。
ああなんだ、こんなに簡単なことだったのだ。
あの時彼女がかけてくれた言葉の意味が、相良はようやく理解できた。
そんな彼女はというと、あれから姿を消してしまっていた。
雨天時は必ずと言っていいほど現れ、錆び付いたベンチに腰掛け相良を出迎えてくれた彼女。今やその跡形もなく、
やはり、お約束はお約束であったのだろうか――。
それでも相良はもう一度会えたらと、そう願い、雨が降るたびあのバス停に足を運んでいた。
そろそろ季節が移り変わろうとしている。あれだけ突発的に降っていた雨も、ある程度予報通りに落ち着くものへと変わろうとしていた。
そしてそれは、叩きつけるような暴力的なものから、風を伴い視界を遮り行く手を阻むものへと遷移する。流石に台風級のものになってしまえば、外に出ることすら困難となってしまう。
――もう、終わりにしようと。
これはきっと、彼女が私のことなんて忘れてくれ、とでも言っているのだろうか。はたまた、あの彼女ですら、ひとりぼっちで寂しい思いをする相良の見た、都合のいい幻覚か。そう思えてしまうほどに。彼女の存在が薄く、儚く消えていく。
けれど、相良自身は忘れたくはなかった。
命をかけてこの町を守ってくれた、未来をつなぎ止めてくれた。
自らを犠牲にして、他の皆を生かす選択をした。
自分たちが今確かに、ここにいる証明をしてくれる彼女のことを。
どうしても――……いや、決して忘れてはいけないと、そう思うのだ。
ぬかるんだ大地を踏みしめ、息を荒げながらバス停にたどり着いた。
相も変わらず、ここには誰もいない。相良はベンチに腰を下ろす。
彼女は――ひみは、ずっとここに座っていた。
相良の話し相手になってくれた。新しい環境に馴染めず、孤独と諦観を抱く己のよき相手であった。
暗い話も、明るい話も。何だって聞いてくれた。初対面の相手と対話が苦手な自分が、唯一きちんと話せた相手。
一度だけ。もう一度だけでいいから。
相良は目を閉じ、両手を合わせ祈る。
「こんにちは。お隣、いいですか?」
――その、願いが届いたのだろうか。
鈴を転がしたかのような、高く愛らしい声が響く。
聞き心地がよい音色。
耳朶に触れ溶けていく。
反射的に顔を上げる。
腰まで伸びた綺麗な黒髪。
つぶらな瞳に、柔らかそうな肌。
白いワンピースからスラリと伸びる手足。
――ずっと渇望していた。
顔を見たかった、声を聞きたかった。
自然と破顔するのを感じ取る。
「どうぞ。喜んで」
相良は言葉を返す。その声は、歓喜に打ち震えていた。
彼女が隣に腰を据える。花のように、可憐な笑みをたたえながら。
彼女が現れるのは、決まって雨の日。自らの命と引き換えに、未来を繋いだ証と共に表舞台へと降り立つ。
ポツポツと水滴がアスファルトを叩く音がする。微量ながらも姿を見せつつあったそれは、世界をあっという間に水の世界へと染め上げる。
今日もまた、そんな雨が降っているのだった。
雨の日、バス停にて邂逅するは。 雛星のえ @mrfushi_0036
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