杠葉の頬——早瀬

     2


 ――まったく、呆れてしまうな。


 早瀬は新調した私服――シンプルなホワイトカットソーに動きやすいパンツ――で街を歩いていた。こんなことなら、だれか友達を連れてくればよかったなと後悔している。ひとりで歩いているのはつらい。だが、二人で歩いていて沈黙する方がつらい。


 早瀬は基本的にみんなにいい顔をしているいわゆる八方美人だ。誰に対しても平等といえば聞こえはいいが、一線を引いているからとくに仲のいい人がいるわけではない。


 まぁ、自分のことを考えながら歩くのも悪くない。この間やってみた、自分を客観的にみるやつは意外に楽しかったな。


 昨日、帰りに靴箱を見たらローファーがなかった。


 早瀬はその原因を知っている。べつにいじめられているわけではない。




 その週末。家でゲームしていたら、無性にアイスが食べたくなって、冷蔵庫を覗いたがもうじき冬がやってくるので家にアイスがあるわけがなかった。


 そこで諦めてもよかったのだが、数分後にはやはり食べたくなる。

 早瀬は仕方なく、スマートフォンだけを持ってコンビニへ向かった。


 コンビニは冷房が効いていたが、夏場よりは弱くなっている。アイスケースから棒のついたバニラチョコレートアイスを手に取り、電子マネーで支払う。




 スタバの前を通りかかったときだった。

 見慣れた前髪に上の部分だけ黒ぶちの眼鏡。三つ編みの黒髪は下ろしてあり、私服だから見間違いかもしれないと思ったが……。


「あれは……委員長杠葉?」


 普通のミルクティーにクリームが載っているフラペチーノを右手に持ち、席を探している杠葉椛の姿がガラス越しに見えた。数分探して、やっと見つけた店の奥の空席に座り、周りの目をはばかりながらマスクを外した。


 早瀬は彼女の素顔に目を見開いた。涙が出そうだった。唇が震えていた。目尻が熱く、声も出ない。彼女の右頬に、薔薇の刺青があったのだ。それはとても美しく、だが同時に恐怖を感じるものだった。二つの大きく赤い薔薇のまわりに小さな花弁が上手い具合にちりばめられていてまるで芸術だ。


 杠葉が常にマスクをしていて素顔を見せないのにはそんな理由があったなんて。もしかして、彼女はヤバイ組織の一員とか、そっちの人なのだろうか……?


 その日、早瀬は気の抜けたような顔で帰宅した。杠葉に声をかけることなく、特に店に立ち寄ることもなく、家に帰ったのだ。


 曖昧な情報目撃物に踊らされるより、ゲームの続きをしたほうがよさそうだ。


 そして、早瀬は月曜日の放課後、杠葉と二人きりになったタイミングで、白部のこと、彼女自身のことを訊こうと思った。杠葉にとって、素顔を見られたことは不本意だったはず。早瀬に対して口止めしてくるに違いない。早瀬はなんだか特別感を覚えた。みんなが見ていないものを見たときの優越感というものだ。


 例えばこれをネタに脅したとして、彼女はどう答えるだろうか。


 良くない良くない。興味本位でこういう漫画のようなことを考えてしまう。思考が悪い方へと向かっていくのを必死に抑え込んだ。


「今日は一年生の全ての学級委員で文化祭のアンケートを集計するらしいから、放課後は大きい会議室に向かうように、だって」


 担任のかがり先生の連絡を受け、杠葉に直接伝えた。杠葉はわずかにうなずいた。彼女は顔を上げて早瀬の顔を覗き込むと、心配そうな目で首を傾げる。


「なにか、がっかりするような、ことでも、あった、のですか」


 とてもとても小さな声だった。空気の方がうるさくて、消えてしまいそうなくらい。


 たしかに、がっかりしなかったといえば嘘になる。


 何人もまわりにいたのでは、杠葉についての話ができない。


「杠葉は本当に、細かいところまで気がつくな」


 愛想笑いを浮かべて、大丈夫、と答える。


 会議中、杠葉は一言も話さなかった。他のクラスの委員たちは不審に思っていたが、早瀬が杠葉の分まで話してやろうといつになく饒舌じょうぜつになった。


 けっきょく、来年度の文化祭に向けて改善点を洗い出して文化祭実行委員会に提出し、お開きになった。


「杠葉っていつも電車で帰ってる?」


 彼女は靴箱からローファーを掴んだ手をとめ、うなずく。


「じゃあ――――」早瀬はほっとした表情で「今日は一緒に帰ってもいい?」


 二人きりになるチャンスを待たずに自分で作ってやる。


 満員電車の中、二人は話すこともできずにただ詰め放題のパッケージの中身のように押しつぶされていた。早瀬はいつも電車通学ではないから、この時間、こんなに混雑しているなんて思わなかった。


 三駅ほど詰められて、やっと下車したときにはもう一八時を回っていて、辺りは薄暗くなっていた。


 杠葉はここから自宅の近くまで市営バスに乗って帰るようだ。ただ、バスが来るまで少し時間があって、杠葉は視線を落としたまま言った。


「あの、なにか、話すこと、ありましたか」

「え!?」


 まさか気づかれていたのか?


「今日、ずっと、変です、よね。なんでも、聞きますから、なんでも言って、ください」


 バスが来るまでの数分間。雰囲気が悪くなってもすぐに帰れる。今しかない!


「杠葉さ、この間スタバにいるのを見かけたんだけど、杠葉の頬に刺青があるのを見てしまって……」


 躊躇いながらそう答えると、彼女の目が大きく見開かれた。


 早瀬から視線を素早く逸らすと、うつむいたまま、口を閉ざしてしまった。


 それからバスが来るまで、二人の間に沈黙が流れた。


 やがてバスがやってきた。それに気がついた杠葉は、没個性的なスクールバックの中から素早くシンプルなメモ帳を取り出すとブレザーの胸ポケットに刺さっていたボールペンで走り書きし、早瀬に手渡した。


『お願いです。黙っていてくれませんか。

 この頬は研究材料なのです。詳しくは、言えないですけど、秘密にしてほしいのです。』


「え、ちょ、なに、これっ!」メモを読み終わったころにはもう、杠葉はバスに乗り込んでいて、彼女の姿はなかった。窓越しに彼女が頭をぺこっと下げたのを見て、何も言えなくなってしまった。


 まあ、とりあえず二人だけの秘密ということなら別にいいか。


 ……ん? 頬が研究材料? なにそれ?


 でも、それならあの刺青が、なにかの病気によるものだってことなのだろうか。


 たしかに杠葉が刺青を入れると思えないし、深刻な理由があるかもしれないという可能性を考えることができなかった。


 早瀬は、杠葉に対してデリカシーのない発言をしてしまったかもしれないと反省した。


 翌日、メモについて了承したことと共に謝っておいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る