太陽の所為

枕露亜

短編:太陽の所為

『7月7日』


 七夕の日。毎年この日になると、うちの町内では織姫と彦星の観測会が開かれる。

 観測場所は、名もない公園。遊具のない空き地のようなこの公園は、近所の幼稚園児、小学生には恰好のいい遊び場として使われる。

 それ以外に定期的に催しが開かれる。そのメニューの一つとして、星の観測会がある。年に七回、春の大三角、火星観察、木星土星観察、夏の大三角、冬の大三角、北極星観察、そして、今日の織姫と彦星観察。

 星々を覗く望遠鏡は、有志で集って用意する。だから、専門家やプロの写真家のようなシロモノではないし、そんなに解像度が良いものが見られるわけではない。

 でも、訪れる子供たちを夢中にさせるには十分なくらいだ。

 僕も昔はその子供たちで、この観測会のポスターを見せられて、虹彩に瞬く星に魅せられた一人だった。そして、今では観測会で自前の望遠鏡を貸す運営メンバーの一人だ。


 公園に着くと、先に来ていた運営の人達に会釈をして、自然と足早にそこから去る。子供時代から変わらないものはあるが、人付き合いは、あの頃よりも苦手になってしまった。

 少しベンチから離れたところで、一旦、望遠鏡を下す場所を適当に探す。さっきの夕立で地面が濡れていたため、公園中央の雨避けにと建てられたパラソルの形をした東屋の下に立てかける。

 楽しく談笑している簡易休憩所のメンバーに入り込む余地は、僕には見えず、東屋下の、麦わら帽子のつばのようなところに乗っかる。

 空を見上げると、太陽が住宅街へ沈み、地平の向こうに帰っていた。藍色が満遍なくぶちまけられ、暗くフォーカスのかかった不格好な雲が所々にある。観測するとしては、まずまずの天気だ。

 腕時計は既に、長針と短針の蛍光塗料が鈍く怪しげに光っている。予定の時刻まで、あと30分。そろそろ子供たちが集まり始める頃合いだろう。

 僕は少しの間、深い紺が空に滲んでいく様子を眺めながら、空と、宇宙と、ある少女のことを考えていた。



 次第に、公園の喧騒が無数のさざめきとなって、水のある空気を震わせる。

 何処かに落としていた思考と眼を目の前に戻すと、けっこうな数の子供たちがこの場へと集まってきていた。

 空には淑やかな暗闇が訪れ、夏特有の肌にまとわりつく気怠げな空気が、辺りを漂う。

 そろそろだ、と僕は立ち上がり、うろうろと歩き回って、夜を楽しむ子供たちに声を、集合の号令を掛ける。

 今年の子どもたちは意外にも、素直に言うことを聞いてくれた。観測会における僕の役目はこれで終わり。あとは、運営のリーダー格のおじいちゃんが、子供たちを6人班に勝手に分けて、それぞれに望遠鏡一つと星空が大好きな有志の観測者を配置する。そこには、僕とあと数人の運営メンバーはいない。

 手際よく6人班に分けられ、5分程度で準備が終わった。そして、初め、と言うわけでもなく、どこからともなく言葉たちが紡がれていく。観測会のメンバーは誰しもが星の、夜空の魅力に子供たちを誘いたいのだ。

 僕はひと息ついて、さっき座っていた定位置へと戻る。これから僕は、この観測会が終わるまでの間、暇になった。横目で観測会の方を見ると、三日月に照らされた子どもたちの横顔は、薄く輝いて幾つもの下弦の月になっていた。

 懐かしく旧い匂いを感じながら眺めていると、肩を叩かれた。振り向くと、余った有志の観測者が手招きしていた。

 招きに応じて行ってみると、例年通り、余ったメンバーは同じだった。僕以外に、子どもたち相手に話すのが苦手な者がこの場に残る。

 僕の後に一人来て、その人は余り者の一人がここに残るのか、離れるのか、はっきりしておいてくださいと、呼びかけた。

 隣の人同士でどうする、と話が小さく上がる中、一年毎の時間割り通りに、僕はCO2を多分に含んだ温い息を吐いて、真っ先に手をあげる。


「……僕、ちょっと離れます。」



 昭和初期に建てられた古民家の暗い木目の木々を抜けながら、天ノ川の緩やかに流れる夜空の下、短針の速度で歩く。

 この土地は星好きにとっては嬉しいところで、夜の明かりが強くなく、天ノ川がはっきりと流れ、もちろんのこと、アルタイルとベガの逢瀬も見られる。

 夜空から視線を落とすと、眼に入るのは道の両側、まちまちに並ぶ屋台の車。油や煙で煤けたフライドポテトの文字に、息を潜めた自家発電機、オレンジ色の綿菓子製造機。どれもが細い月の光に当てられて鈍く賑やかに光っている。

 一瞬戸惑ったが、そういえば、明日はこの地域一番の祭、七夕祭が開かれる日であった。

 僕は屋台の賑やかな匂いを感じながら、旧く温かい古民家の森を抜ける。過ぎると、わりかし舗装されて、まだ新しいアスファルトが足の裏を掴んだ。

 右へと曲がり、陽の目を浴びなさそうな、何をしているのか一見して分からない小企業の群が左右に連なっていた。祭りの日に何かを出すのか、組立式のテントがそれぞれの敷地に置かれている。

 そこには、人を感じることが出来なかった。僕はそそくさと、この道を進んでいく。目的地は、もう何回か曲がった先だ。



 しばらくすると、眼の端に鬱蒼とした林を捉えた。

 さらさらと風に合わせて竹の葉が擦れ合い、涼しげな音が耳の溝を流れていく。苔が疎らについた石造りの鳥居が、林の揺れる葉に紛れて見えてくる。

 僕の胸は高鳴る、というより安心感とも緊張感ともとれない不思議な感覚がこみ上げてきた。

 夜風が頬をなで、木の葉がざわめき立つ。僕の正面にある鳥居はそこまで大きいわけでもないが、夜の静謐さと暗い笹の葉の合間から光る天ノ川、神社近くの池から緩かに流れる蛍の帯とも相まって、心がしんと鎮められる。

 ただ、心は外宇宙の蒼い中性子星のようだった。

 鳥居をくぐると、石の段が小山の傾斜にともなって続いている。僕は一段一段、神社の本殿に繋がる道を上っていく。

 今年も彼女はいる。

 石の段を9割方上りきったところで、のぼるペースをさらに遅くする。神社の周りを取り囲むように伸びている竹林が少し開けて、視界に段々と境内が入ってきた。

 そして、僕は見つけた。

 真正面に見える本殿の回廊。黒ずんだ材でできた御賽銭箱の横に、彼女は座って夜空を見上げていた。

 僕は僅かな月明りの下、綺麗な嘘のような光景に見蕩れ、安堵を覚えた。この名も知らぬ少女は、今年も相変わらず星を眺めていた。団扇を軽くあおぎながら、水色を基調とした涼しげな浴衣姿で佇んでいる。風でひらりと揺れ動く黒髪は、淡い川の色の紐で上に整えてあった。

 僕はきちんと、砂利の川に浮かぶ御影石を、一つずつ踏んで渡っていく。

 彼女は僕にちろりと眼を向けるが、感情の乗らない瞳で一瞥されただけだった。それ以上は気にすることなく、笹の葉のフレームで切り取られた天ノ川を一心に見つめている。

 その様子は幾度となく繰り返されたもので、僕には何かの儀式のように思えてすらいた。

 目に焼き付けた彼女の姿を更新する。

 渡り終えたあと、御賽銭箱の前に立って、ポケットから錆の強い五円玉を軽く投げ入れた。上の暗がりから繋がっている、鈴のついた赤と白の綱を握って揺らす。

 軽くも重くもない不思議な音色が辺りに浸透していく。余韻が耳に馴染んでいく中、作法通り二礼二拍手して合掌する。

 祈ることは、毎年同じ。

 風が凪いだ。顔を上げて手の平を剥がし、御賽銭箱を挟んで彼女と反対の廊下に腰掛けた。

 一年ぶりのため息をつく。

 空を見上げると、隣の彼女とはどうしても同じじゃない夜空が眼に入ってきた。


 しばらく、一夜限りの静かな宵の宴会にある僕は、満足と哀しさと虚しさの混合物だった。

 やけにじっとりとした風の所為だろうか。ふと、横目を向けると、彼女は変わらず夜空を仰ぎ、美しさの輪郭となまめかしく時々動く真白い咽を晒していた。

 小さく身じろぎするたび、はらはらと繊細に刻んだ宇宙に似た髪が肩からすり落ちる。

 僕は空と宇宙に魅せられて、心地よい暗澹たる深淵に吸い込まれて囚われていく。



 無粋な振動音がポケット越しの肌を伝わってきた。スマホを手にとって、もうどこに向けていたかもわからない眼を、メールの文面に眼を通す。

 パッと長方形の光の面が、顔を照らした。さっと読んで、羽虫が集らないうちに画面を暗くする。

 僕はさっきぶりのため息をはいた。思っていたより長く居座りすぎたようで、下に戻ってくるようにと催促のメールだった。

 徐に立ち上がって、僕は御影の石橋を渡る。思い上がりも甚だしいけれど、今年の織姫と彦星の逢瀬はこれまで。

 渡り終えて足を階段にかける直前、僕は後ろを振り返る。未だに少し形は違えど、彼女は10年前と同じように、夜空を見続けている。御寺の回廊に座り、淡い月光に照らされ星空を眺める彼女は、このまま放っておいたら、どこかへ消えてしまいそうな気がするのだ。

 そして、僕は思う。彼女は誰かから声をかけて欲しくて待っているのではないか、と。

 一瞬のスペースの後、内心僕は首を振る。また、思い上がりだ。そんなことは幻想であり妄想。彼女と僕の間には10光年の差がある。

 僕と彼女との間にはただ、現実世界がつながっているだけだ。

 すぐに前に向き直って、下り階段に足を踏み出す。階下には、うっすらと民家のぼやけた灯りが奥に点っていた。



 天を流れる川に橋が渡される日、僕は去年も一昨年も、磨り硝子で仕切られた夜を過ごしてきた。そして、恐らく来年も再来年も、このバスが永遠にやって来ない停留所のような夜を過ごすのだろう。

 そう、自分は諦観にも似たものを、漠然と感じていた。

 しかし、ふと3年後くらいのことを考える。世界の上とはいえ、広がりはする。僕と彼女の間には、どのくらい隔たりが出来ているだろうか。

 正直わからない。けれど、今までみたいに都合よく比例していかないことは、薄々気づいていた。

 だから、今年は必然だったのかもしれない。

 僕が夜空を見上げたとき、一つの光が尾を引いて消えていったのだ。流星。流れ星。

 そのときは一瞬のことで、僕はなにも考えていなかったように思えた。けれど、後になって思うと、僕は密かに、僕自身が気づかないうちに、咄嗟に祈っていたのかもしれない。




『7月8日』


 束の間の日曜日。余り夢を見る自分ではないが、久々に何か夢を見た気がする。しかし、内容は思い出せない。でも、たしかにからだの怠さから感じる。

 僕は起きて、ぼんやりと夢を見たあとのふわふわと浮游した感覚に浸ったまま、喧騒と朝にしては、朧気な蝉の音の混じりを感じていた。

 眼を瞑って、音のざわめきを手繰ると、違う音が重なり始めて、昨夜の彼女との邂逅が心に溶けていく。久々に目にした彼女の幻のような姿は、確かにこの世界に留まっていた。

 どうしようもなく十年前とは違う彼女の姿は、一層、浮世離れして綺麗だったが、以前よりも、世界と自然に慣れ親しんでいた。それを残念と感じてしまう僕も、月日が重なっているということだろう。



 十年。当時と比べれば、それは目覚ましく、世界は変わったなと気付く。しかし、変わらないものも確かにある、と思っている。

 あの頃、僕は誰しもが一度は抱いたであろう、宇宙への憧れを、人一倍幼心にも持っていた。

 初めての観測会。誰の望遠鏡を借りたのか、隣にいた同じような子供は誰だったか、今では何も思い出せない。微かにしか想起の雲は浮かばないが、望遠鏡を覗きこんで、自分だけが手にした空と星々の煌めきの感触は、今でも残っている。

 そして、それと同等か勝るほどのキラメキを、僕はそのとき眼にした。

 なぜ、どうやってそこ行ったのかわからないが、僕の一分ちょっとの回想は足下にフォーカスが当てられたところから始まる。

 きっと今からの自分が見えていた世界は、ずいぶんとこけにまみれている。


 少し目線をあげると、暗い階段の延長線上に天の川が横たわっている。やけに静かで木々のざわめきも、夏虫たちの輪唱も聞こえない。

 荒くなる呼吸音と体を内側から叩く心臓。ただ僕は石段を登っていく。何を考えていたのか。おそらくきっと考えるまでもなく、導かれるままに足を運んでいたのだと思う。

 最後の段を足裏が叩き、そして、僕は見つけた。

 砂利の水面に映る笹の葉が揺れる。社へと渡された御影石。そこを進んでいった先、本殿の廊下に彼女はいた。

 月明かりに照らされた彼女は、そこから天に昇っていきそうなくらい頤をあげ、夜空を眺めていた。プラプラと足の影が規則正しく揺れていた。

 彼女の周りから神秘的な燐光が舞っているような気さえした。風が吹いて、肩で切り揃えられた彼女の黒髪が蒼白い光の環を揺らめかせる。彼女は完璧な夜空の住人だった。

 僕は動けない。全く違う世界に彼女がいるような気がしたからだった。ただ茫然といつの間にか音が動きだした世界と彼女の姿を眺めていた。



 眼を徐に開き、ベッドから起き上がって、廊下を通ってリビングへ向かう。

 リビングの床は朝の暖かみを僅かに残していた。そして、今ではだいぶん上へと昇った日の光が、浅くリビングを照らしていた。斜陽が醸す、少々暗鬱でもの静かな雰囲気の朝だった。

 明るくないわけでもなくて、僕はそのまま電気を点けず、ソファに深々と座る。そして、何気なくスマホを手にして、通知を眺める。眺めると言っても、いつもの通り意識だけが文字を滑っていくだけだった。

 けれど、今日はきちんと法則にしたがって摩擦係数が働いて、僕の視線は黒のピクセルを追っていた。

 簡単に流れてゆきそうな、この世に蔓延る鼠色の情報の一つをじっと見ていたのは、一体どれくらいだったかは分からない。ただ、少し間が空いた後、一瞬でも目に留まったことが不思議に思って、なんだか目に映る文言が馬鹿らしくなり、短くため息を吐く。

 僕の手は少しつっかかりながらも、何処から来たか誰にもわからない通知を画面外へ追いやって、やがて、斜陽の消え去った暗がりに引き寄せられ、目を瞑った。



 次に目覚めたのは、もう夕方だった。電気をつけていなかったリビングはすっかり静かに暗闇に染まっている。太陽は既に落ちたか、落ちかかっているのか、南東にあるベランダからは判別はつかなかったが、大方、空は暗い青が広がっているようだった。

 僕はこのまま起き上がって動くのが面倒になって、また目を瞑って耳を澄ませる。

 耳に入るのは、自らの微かな呼吸音が聞こえるだけで、他は蝉一匹の鳴き声すら聞こえない。僕が感じる確固たるものは自分以外になく、そして、その感じているはずの自分も薄弱なものだった。自分が透明になって暗がりに溶けていく、そんなイメージが浮かんだ。

 目を開ける。既に暗順応した視界がリビングとソファ、そして空を映し出す。他にもベランダに写真にパソコンにスマホに観葉植物に。

 ちゃんと世界はあった。

 けれど、人はいない。当然、彼女もいない。世界だけでは繋がっているはずなのに。

 少しの安堵の後、何とも言えない不安と恐怖の雨が胸に波紋を作る。昼に見たストレンジャーが残した文言が自分の奥底を這う。

 僕は変に汗をかきながら、すぐに立ち上がって、ベランダへと出た。

 一瞬、昼よりかは幾分か和らいだであろう熱気が体を包む。

 それに圧されながらも、まもなく遠く人々の喧騒が聞こえてきた。

 柵によって下を眺めると、家の前の通りがいつもより明るい。よくよく見ると、公園へ通じる通りにはたくさんの提灯が吊るされ、その明かりに照らされた浴衣姿の親子連れが楽しそうに歩いていた。のぞく視界が街路樹に遮られてしまっているが、他にもいくつかのグループが公園の方に向かっているようだった。

 そういえば、と僕は今日が七夕祭であったことを思い出した。もう数年前から行く気も興味も無くしてしまっていたから、あまり昨日見た屋台も印象に残っていなかった。

 10分くらい、夜の粘つく熱気に絡めとられながらも、僕は明るい通りから目を離して、リビングに戻る。

 カチャンとドアが閉まって、ベランダの喧騒と熱気がシャットアウトされた。

 一転して、先程のように何の音もない静寂が訪れた。

 いつもなら、そのままその静寂に身を委ねて、これから1年、彼女に会うまでの短いようで長い、364日を過ごしていた。

 でも、今の僕にはまだ体内には、まだ外の熱気が燻っていた。

 昼から僕の心を這って蝕んでいる一つの灰色な噂。そのことがもし本当なら、と僕を脅かす。いくら何でも幼稚過ぎると、生まれた時からこけまみれのものだと、火もなくたった煙だと、そう思う自分が半分以上だ。

 けれど、本当に、現実に、噂の通りに、なったとすれば。

 どうやら自らが思っていた以上に、僕は独りに馴れていなかった。人付き合いが苦手なのに、今の僕は、誰でもいいから、人が恋しかった。世界を通じて、繋がっていることを確認したかった。

 僕は昼のあの文言をうらめしく思った。棒立ちしていた足を動かして、玄関の鍵をポケットに突っ込んで、この停滞した暗闇から、提灯の明かり続く外へと出た。



 名も、顔も、何もかも知らない人たちが、何かを喋りながら、僕の周りを行き交い、種々の屋台へ行き買う。昼の熱も冷めきらぬアスファルトの上には、÷2してもたくさんの人が乗っていた。

 昨日通った通りには、いずれも人を集める灯りが並ぶ。通りを歩きながら、僕はどこへ向かうというものもなく、ほっつき歩いていた。

 どこからか、歓声が聞こえる。どこからか、風鈴の涼やかな音が聞こえる。足元を見て地面越しの喧騒を感じながら、静かに安堵していた。

 サンダルに下駄、クロックス、ハイヒールにスポーツシューズ。僕の足元の周りには様々な靴が浮かび沈んでいった。

 人が近くにいる。けれども、どうしても一定以上は埋まらない距離。それだけで十分だった。それ以上近づくことは、僕には難しいように、思えた。


 そんな時、頭上が変に明るく、輝いた気がした。


 思わず、歩みを止める。周りにいた靴たちも動きを止めていた。

 昼の突飛な噂が頭によぎる。僕は空を見上げた。

 そこには、いつもの空を包み込むやんわりとした黒も、点々と遠く輝き続ける星もなく、あるのはただ光だけだった。太陽のように、煌々と、燦然と、輝くだけの光だった。

 誰かが呟いた。


「世界滅亡って本当だったんだ」


 その言葉は、もしかしたら、僕が言った言葉だったかもしれない。


 人々はその場から動かない。

 光は段々と強まって、全てが白に染まっていきそうな勢いだった。

 僕ももう、光以外、何も見えなかった。ただ、僕は受け入れようとしていた。人がたくさん自分の見える世界にいる。それだけでいい。世界が滅亡するなら、そのまま滅亡すればいい。


――トン、と肩がぶつかった。


 軽い衝撃のはずなのに、僕はぶつかった相手へと、意識が吸い寄せられた。

 吸い寄せられるがまま、後ろへ振り返る。

 視界に入る全てが白で朧げに映ったが、走ってある場所を目指す人は、はっきりとこの目にあった。それは、自分の中で幾度となく焼き付けていたお蔭かもしれない。

 僕の足は自然と彼女であるその人を追いかけていた。

 不思議にも、頭上からの光は、僕の影を作らなかった。

 少ししか走っていないのに、死にそうなほど息が上がっていた。

 道と言う道も、建物と言う建物も、そのすべてが、白に還元されかけていた。

 僕はなびく髪を、無限に反響する下駄の音を、不安定に揺れる着物の裾を、追い続ける。

 追いかけているうちに、何故追いかけているのだろうと、今更ながらな問いが浮かんできた。でも、その問いは口に含んだかき氷みたく氷解する。

 それは、この時だから、こんな時だからこそ出てきた『欲』だ。


 僕は走るのが苦しくなって立ち止まり、辺りを見回す。たどり着いた場所は、神社の鳥居前だった。苦しいながらも、思わず笑みが漏れる。

 光がさらに増す中、竹林は笹の葉を静かに揺らし、彼女は下駄を軽快にこだまさせながら、階段を上がっていく。

 苦しくなっている場合ではない。僕は彼女の足取りを追って、石段を確かに踏んでいく。

 僕は息が切れそうになる。でも、登らなければならない。

 欲を言えるのは、この最期のときだけなのだから。

 僕に明日はないし、1年後はない。


「あのっ……!」


 僕は境内に立って、大いに叫ぶ。

 全てを埋める白の光に照らされた神社は、どこか非現実的なものだった。けれども、懸け橋となる御影石は、どこまでも深い黒として光の川に浮かんでいた。

 そして、やはり、彼女は御影石の上に止まった。それが僕の声に応えてくれたのか、誰かを待っていたのかはわからない。

 どちらにしろ、僕は彼女に伝えなければならない。世界を隔ててなんかじゃなくて。直接。言葉にして。


「僕は……君のこと……を…………」


 光がすべてを圧倒していく。

 何もかもがホワイトアウトしていく中、深宇宙のように底が知れない黒髪。今までの月夜の時よりも玲瓏たる天使の輪を浮かべた彼女は……



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