植物少女

鳩川

植物少女

 ああ、静かだ。何もかも。

 半透明なカーテンからいつもと何ひとつ変わらない景色がみえる。なぜ今更こんなことを思うのだろう。

 そんな日は決まって雨が降っていた。雨の音で目を覚ますと私はひとりだった。私の隣人はいない。ただ私だけが取り残されていた。胸の奥に小さな痛みを感じる。この痛みの正体が何なのか分からないが、ひとまずそっとしまっておく。

 部屋を見渡す。薄暗い部屋の中、今日もカーテンの隅に黒い影。黒猫のあずきだ。

 「名前くらいつけても罰は当たらないよね?」そう自分に言い聞かせて早一年。野良猫か飼い猫か定かでないが、もうすっかり常連になってしまった。掃き出し窓を開けて出迎える。気付けば霧雨になっていた。

 どうやら今日は撫でさせてくれるらしい。やっぱり毛並みが整っていてきれいだ。いつも嫌がることはないが、撫でようとするとさっと避けられてしまうことが多いから

 「…君のご主人様って?」

 思わず呟いてしまった。猫に話しかけるなんて、私も寂しい人間になってしまったものだ。そんな物思いにふけっている間に珍しくあずきは完食していた。

 退屈そうに辺りをうろついているものだから遊び道具でも持ってこようかと探しているうちにどこかへ行ったらしい。仕方ない、庭に出たことだし少し掃除でもしよう。上機嫌な私は張り切っていて、終わらせた時には日が傾きはじめていた。

 次の日。カーテンはただベランダの小庭の景色をぼかしているだけ。何もしないのは性に合わないからと、張り切って書き途中だった小説の続きを進めていた。

 進捗が一区切りつく頃には一週間が経ち、夜を迎えた。私はベッドの上で寝返りを打った。ここ数日どこかから僅かに視線を感じなくはないが、大したことじゃない。 だってここは「わたし」の家なんだから…。疲れがどっと押し寄せ、そのまま眠りについた。

 早朝に猫の高い声。か細くて、癒やされる声。玄関側からだ。久しく外に出ていなかったこともあり、ちょうどいい機会ということでドアを開ける。お行儀よく地べたにすわる猫。確かに見慣れた黒猫だ。でも、なにか…そんなことを思う間もなく、突然パチッと電源が抜かれたかのように視界がシャットアウトする。静寂に包まれた部屋には壁掛け時計の秒針の音だけがきこえるようになった。

 伸ばされた薄雲が太陽の光を和らげている空模様。私は草原に寝そべっていた。澄み渡る空と細い道路とが平行線のようにどこまでも続いている。周りを見てみると少し遠くに黒猫の姿がやんわりと影を落としている。「ここはどこだろう」ぼそっと言い放つ。しかし、声は風に流されてそっと消えてしまった。

 猫は一瞬こちらを振り向くと、草むらの中へと消えてしまった。私は立ち上がり、後を追うように歩く。いつの間に草原を抜けて林の中にいたようだ。木漏れ日の差し込む道を進むと古びた建物があった。

 扉を開けるとそこには長机の上に並べられた本の数々。比較的新しい廃墟といったところだろうか。二階の吹き抜け天井になっていて、本がびっしり棚に並べられている。図書館のようだ。どこか懐かしさを身に覚える。

 本でも見てみよう。何か役に立つ情報とか小説のネタになりそうなアイデアの種が載っているかもしれない。まず入口近くで鉛筆とちょっぴり色褪せたノートを拝借した。とはいってももうこれを取りに来る人はいない。そんな雰囲気が辺りの本に、薄く積もった塵から感じられる。

 ひとまず近くの長机に置いてあった本を一冊手に取り開いたそのとき。みえたページの写真が私の目に飛び込んできたのだ!何が起きたのかわからない。ただ、どこか新しい世界に飛ぶような感覚と寸前ひとつ先の長机の上に微かに猫が座っている姿がぼんやりと、でも確かにわかった。

 ―黒猫が問う。世界をみて、貴女は何を感じますか?

 魔法のような何かは私をある世界へ連れていった。未知の世界、そこは人間のいない、広大な樹々と海。生き物たちがいきいきと生を謳歌している暮らしが。春夏秋冬、四季折々の顔をみせる大自然とそこに住まう者たちの時の流れがあった。

 なんて広さだろう。ここには様々な命があり、それぞれの営みがある。波はざぶんと音を立て波打ち際で白く砕けて消えてなくなる。私はこんな世界をまだ知らなかったのだ。気がつくと私は見惚れていた。すぅーっと意識が飛んでいきそうだ。

 「わからない…けど、心に刻んでおこう」

 すると今度はさっきとは反対に、一瞬のうちに元いた場所に戻ってきた。猫どころか何の気配も感じられない。真下には落ちた本が不恰好にも開いた状態で伏せられていた。それを拾い上げ、元の位置に戻す。

 図書館をゆったりとした足取りで見て回る。本の背表紙を見るとどれも見知ったタイトルばかりだ。感心しながら眺めていると、ひとつだけ全く知らないタイトルの本があった。手に取って捲る。白紙、白紙、そして白紙。そうして最後のページをめくるとようやく一文現れた。「初めての試みだが、許してくれ」とだけ。どういうことだろう。謎かけか、はたまた暇つぶしなのかは分からないが、何かにつながる予感はした。近くの本棚の本の上に置いていたノート、ポケットから鉛筆を手に取り、さっとこのことを書き留める。ついでにこの本を借りることにした。廃墟の図書館から本を借りるというのは妙な気分だった。

 最後に私は気にかかっていた新聞コーナーへ立ち寄った。古い、もう十何年も前の地域新聞をいくつか引っ張り出して読み漁った。その中の一つ、三ページ目の二番手見出し記事にそれはあった。

 「―精神の安定化はかる最新研究」それは精神的不安定からくる重度の自傷行為や自殺未遂の再発防止策として、脳を仮想空間に接続するというものだそう。精神転送、量子コンピュータによるシュミレートなど私には決して易しくない言葉が羅列している。でも、何か大切な手がかりになるかもしれないと続きを読もうとして…あいにくそこからは記憶がない。

 目覚めるといつものベッドの上。小鳥のさえずりが窓越しにかすかにきこえる心地よい朝。どうやら眠ってしまったらしい。眠い目を擦りながら、ふと枕元の本に手を伸ばす。昨日借りてきた本だ。一ページ目には昨日は真っ白だった紙には手紙のような文が綴られていた。

 わたしがいるであろう場所を、異なる世界の今の私に向けて。わたしは今この生活に満足しています。なんであの時死にきれなかったのか、なんでもっと周りを見れなかったのか。後悔したって、悲しんだってもう遅い。でも、そんな不安定なわたしはもう生きたいとも死にたいとも思わない。

 だから、貴女と同じ世界に来ました。生きると死ぬ、そんな重い選択をさせてしまうのは正直心苦いです。でもわたしは既に死を選んで失敗して、もう自分で判断できなくなった。だからどうか、あなたはわたしの代わりとしてではなくあなたの意志でこれからも道を決めてください。

 薄暗い部屋の中、カーテンの隅に猫の影。今日も掃き出し窓を開けて出迎える。雨は降っていない。途端にあずきはひょいとリビングに入り、いつの間に落ちていた借り物の本をじっと見つめる。「引っ掻いちゃ…」言い切る前に振り返ったあずきの瞳孔はどこかの一室を反射していた。

 ―黒猫は問う。世界をみて、貴女は何を感じますか?

 最初に視界に入ってきたのは、既視感のある天井の模様。目を動かせば白を基調とした清潔感ある部屋が。病室窓側の端のベットに私はいる。あのときの広大な自然とは相反して窓からは枯れはじめたモミジの木がひとつ。その枝葉の隙間から澄み切った空が見える。

 「すごい綺麗だ。皮肉なくらいに」

 体が動かない。金縛りなのか。しばらく経って、どこからか足音が響いてきた。やがて足音はドアの前で止まり、ゆっくり、丁寧に開けられる。そこには二人が立っていた。私の傍に来ると、一人はごめんね、とだけ呟いて、私の頬を撫でた。もう一人は、悲しみを包んだような笑みで私を見ていた。

 何か言おうとして息を吸いかけた時、ぼやけた視界と表紙、裏表紙真っ白の本が枕元にあるのが分かった。開くと続きが…百ページくらいだろうか、全て文字だけで埋まっていた。やはり夢ではない。大きな波が、建物を、道路を渡ってこちらにやってくる光景。真っ白になる頭。父と母は結婚記念で外出していた日。「残念ながら…」

 私は知る。わたしという世界に絶望する。でもそれは鮮やかな、淡い空色の絶望。急いで途中だった小説原稿を手に取り書きはじめる。オレンジ色になる空間をぼんやり見つめながら只管に。

 さいごの朝を迎えた。私は引っ越しでもするかのように部屋全体を片付けた。偶然なのか、はたまた案の定と言うべきなのか、意識が薄らいでゆく。

 窓を開けても風はない。ちょうどあずきは庭に入ってきており、窓から部屋に入れてやった。ベットについた私はようやく決心した。わたしの、黒猫の記憶は、空っぽの私に魔法がかかったかのように瞬く間に身体に溶け込んだ。

 人のいない、静かな世界。自分自身が誰なのか分からなかった日々。それを一変されてくれたあずき。でも、いよいよもうこの世界に用事はなくなってしまったようだ。

 「それじゃまたね」滲んだ空に泡は透けて消えていった。黒猫は泣く。涙は私の原稿の字を滲ませていた。

 仮想空間での試みは結果的に失敗した。しかし、「わたし」は最期に少し微笑んだようにみられた。この空間がそれに関係するのなら、あの記憶は…。ある研究者のメモはここで途切れている。

 今日も黒猫は空いた掃き出し窓の前でじっと待っている。

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植物少女 鳩川 @hatokawa_Td

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