ふたつの太陽

霜月透子

第一章 踊り場の扉

第1話

 夏が終わろうとしている。

 かすかにたき火のにおいがただよう。煙は見えないから、この辺りではないどこかから、においだけが風に乗ってきたようだ。

 耳をすませば、リーリーと一匹のコオロギの声がする。あと何日かしたら、このコオロギの仲間も鳴き始め、にぎやかになるだろう。


「もうすぐだな」


 小太郎がつぶやき、「水島」の表札のある門に手をかけたとき、バタバタと大きな足音が近づいてきた。


「小太郎ーっ!」


 名前を呼ばれてふり向くと、綾が走ってくるのが見えた。綾の走るリズムに合わせてランドセルのふたがカパカパはねている。小太郎の目の前で立ち止まり、息を整えている間もランドセルのふたは小さく揺れている。


「ランドセル、開いてるよ」


「え? そう? いいよ、別に。もう家着いたし」


 綾はそう言って、水島家の隣の白いアパートを指さした。ここからでも一階のドアに「金子」の表札が見える。


 アパートの前には白いアーチがあって、そこに模様みたいなおしゃれな書体で、アルファベットが彫られている。綾には読めないが、英語でグリーンハイツと書かれているらしい。


 アパートは真っ白で、おとぎの国の建物みたいにかわいらしい。中央に階段があり、一階も二階も隣家とドアが向かい合っている。四軒あるうちの、一階の左側が綾のうちだ。


 アパートのオーナーは小太郎のおばあちゃんだ。水島小太郎と金子綾は同級生であり、幼なじみであり、大家の孫と店子の子だった。


 けれども、これだけ身近な存在なのに、綾は小太郎の両親に会ったことがない。小太郎はずっとおばあちゃんとふたり暮らしなのだ。


 そのことについては、なんとなく小太郎には聞きづらくて、でも知りたくて、水島のおばあちゃんに聞いてみたことがある。小太郎のお父さんは外資系の大きな商社に勤めていて、海外にいるということだった。お父さんの海外勤務が決まった時、お母さんも一緒について行ったが、小太郎は日本に残された。日本に比べて治安がよくないのと、食べ物が合わないだろうというのが理由だったそうだ。それで小太郎は日本でおばあちゃんと暮らすことになったのだという。


 それにしたって、一度くらい日本に帰ってきてもよさそうなのに、と綾は思った。けれども一方で、「外資系」も「商社」もどんなものなのかわからないし、きっと帰国できるだけの連休がとれないくらい忙しい仕事なのだろう、とも思っている。


「今日も遊びに来るでしょ?」


 すでに門の内側に入った小太郎が、青々とした芝生を踏みながらたずねた。


 水島家は建物よりも庭の方が広い。門から玄関まで芝生がしきつめられている様は、日本の家っぽくない。庭がないどころか2DKのアパートに住む綾にとって、水島家は外国か物語に出てくるおうちみたいで、遊びに行くのが大好きだった。


「行く! もちろん行く!」


「じゃあ、またあとで」


 小太郎は静かな笑顔を残して家の中へ消えた。綾はそのドアが閉まるのを見届けてから、アパートに向かった。ランドセルの内ポケットから鍵を取り出す。慣れた手順で玄関を開けた。


 ランドセルを片側だけ肩にかけたまま、冷蔵庫へ向かう。食器棚からグラスを出し、麦茶をなみなみ注いだ。


「ぷはぁ」


 一気に飲み干し、空のグラスはシンクの中に置いた。シンクには朝食で使った食器が水につけたままになっているが、いつものことなので気にしない。金子家の朝はいそがしいのだ。


 両親は共働きで、お父さんが出かけた十分後に、お母さんと綾が一緒に出る。お母さんが玄関の鍵を締めている間に綾は歩き出し、綾が水島家の前を通りすぎた辺りで自転車に乗ったお母さんが手を振りながら追いこしていく、というのがお決まりのパターンだ。


 綾は奥の部屋に入る。学習などには使いもしない学習机の上に、ランドセルを投げ出す。そのまま玄関まで小走りし、今ぬいだばかりのスニーカーをはいた。


 玄関の鍵を締めながら、麦茶ポットを冷蔵庫にしまい忘れたのを思い出したが、すぐに「まあいいや」と思い直した。

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