あの日を迎えるにあたって
いちはじめ
あの日を迎えるにあたって
「もう七月か……。この前カレンダーを破ったばかりなのに」
男はリビングの壁際に下げてある先月のカレンダーをゆっくりと引き破りながら、そうつぶやいた。
「そうですね……。もう半年も過ぎたなんて、歳を取ると月日が経つのが早いですね」
ソファーでコーヒーを飲んでいた妻が、男の独り言に答えた。
男は肩越しにちらりと妻をうかがい、今日は機嫌がよさそうだと安堵した。機嫌が悪いと、そう、ええ、とかしか言葉を返さない。そしてだいたいは何故機嫌が悪いのか、さっぱり分からないから困るのだ。それでも一緒に暮らし始めたころは、その原因を探ろうとしたものだが、今では自然と機嫌が直るのを待つのが最良の手だと悟ってしまっていた。
「そういえば、あの日が近づいてきましたよ。準備は進んでます? 直前になって慌てるのはあなたの悪い癖ですから」
少々非難めいた妻の言葉に男はドキッとした。あの日が近づいている? 何の話だ。しかしそれを聞く愚は避けねばならない。せっかく機嫌がいいところをぶち壊したら、この後どうなることか。男は動揺を悟られないように答えた。
「ああ、それなら大丈夫、任せといて」
妻はそれ以上何も言わず、コーヒーを飲み干すと、ベランダに出て観葉植物の手入れを始めた。
ベランダで手入れをしている妻の背中をカーテン越しに目にしながら、男は全力で記憶を辿っていた。
妻は妙に記念日にこだわる。いわば記念日オタクなのだ。
結婚記念日や家族の誕生日ならいざ知らず、自分の俳句が雑誌に初採用された日やら、男性アイドルグループの推しメンの誕生日やら、そんなものまで勝手に記念日にしてくる。そんなものを私が知り得るはずもないのに、話を振ってきては勝手に機嫌を悪くしている。そう憤慨してみたものの、あの日が何なのか突き止めないと大変なことになってしまう。やれやれだ。
そして数日間、男は悪戦苦闘したが、解決の糸口さえつかめなかった。こうなれば嫁いだ娘に頼るしかない。だが娘からはめぼしい情報は得られなかった。
致し方ない。娘は臨月間近で、今はそれどころではないのだ。
更に気がかりなのは、このところ妻の様子がちょっとおかしいことだ。今日も沈んだ様子でソファーに深く腰を落とし、表情も少し青ざめている。
「おい、どうした。何があった」
妻は無言で俯いたままだったが、しばらくしてやっと重たい口を開いた。
半年ほど前、妻は資金繰りに困っていた知人に、先祖代々から伝わる家宝の宝石を貸し出したのだという。それは、それを担保に資金を調達するためだ。
男は初耳だったので大層驚いた。
宝石はほどなくして戻ってきたのだが、それを指輪にするため、宝飾店に依頼したところ、イミテーションだと連絡があったのだ。そんなはずはない。曾祖母の頃に鑑定を受けて本物であることは証明されている。しかし貸し出した知人に問い合わせてみても、知らぬ存ぜぬの一点張りで、妻はほとほと困り果てていたのだった。
「なぜ直ぐに私に話さなかったんだ」
「お金の話なので、あなたには知られたくなかったのよ」
「家宝の宝石というのも初耳なのだが……」
「それは母から母へと代々受け継がれてきた家宝なの。結婚する時に祖母から話があったと思うけど……」
そう言えば、何か家系の話を長々とされたような記憶があるが、宝石の話が含まれていたかどうか……。
「困ったわ、これじゃご先祖様に合わせる顔がないし、何よりあの日を迎えられない」
――この宝石はあの日に関係があるのか。
「借りた宝石が思った以上の価値だったんで、大方目がくらんですり替えたんだろう。誰だか知らんが許せん。俺に任せろ」
幸い男には弁護士や公安関係の知り合いも多く、早速あちこちに連絡を取り、事の収拾を図った。最初はしらを切っていた相手も、弁護士からの電話で態度を一変させ、事件はものの数日で解決した。
本物が戻ってきた日、妻は心底安堵した様子で男に感謝した。
「あなたがいてくれてよかった。最後まで秘密にしておきたかったけど、私だけではどうすることもできなかったでしょうから……。本当に助かりました」
「相談してくれてたら、すぐに解決できていたのに。これからは何かあったら相談しろよ」
はい、と頷く妻に、ここぞとばかりに男は切りだした。
「ところであの日のことだが、ちょっといろいろ迷ってるんだ。お前も手を貸してくれると助かるんだが……」
男は妻の反応を窺った。
「そうね、その方が一緒に準備する楽しみも増えるわね」と妻はニコリと笑った。
――よし、うまくいった。
男は心の中でニンマリとした。
だが、油断はできない。まだあの日が何なのか、そしてそれがいつなのか分かっていないのだから。
(了)
あの日を迎えるにあたって いちはじめ @sub707inblue
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