第42話

 【蜥蜴】はさらに暴れ出した。


 石が宙を飛び、砂利を撒きこみながら【蜥蜴】の周りに複数の旋風が巻き起こる。


 まるで小さい子供が癇癪を起こすかのように鳴き喚き、のたうち回り、それに呼応して辺りの風向きが次々と変わっていく。


 その内にこぶし大の石がいくつか風に煽られ浮き上がり、晶と白鷺を目がけて激しく落下した。


「くっ!」


 晶の背後から【蜘蛛】の脚が伸び、礫を打ち落とす。


 晶は白鷺の身を守ることで精一杯だった。


 これまでの戦闘では自由に動けていたからこそ勝機が見えた。


 しかし今は意識のない白鷺がいる。辰海は涼を庇いながらの戦闘。


 これでは若菜の思いどおり手も足も出ない。


 辰海としても、【蜥蜴】の勢いを殺すことで手一杯であったが、押し負けることは無いはずだった。


 邪霊は理性を失っている状態で、自らの力をコントロール出来ない。暴走しているだけだ。


 今できる最善は、【蜥蜴】の隙をつき、涼と晶を連れて脱出する。


 そしてこちらに向かっている斗真と高麗と合流し邪霊を抑え込む。


 しかしそれは理想論に過ぎなかった。


 パンッと弾ける音とともに、辰海の耳元を強い衝撃が襲った。


「ぐあっ……!?」


 側頭部を殴られたような耳鳴りと頭痛に、辰海の体が地に沈む。


「辰海くん!?」


「ハーリット特製の、対邪霊衝撃弾。耳元掠めただけでも君には効くでしょ」


 小型銃を構えたままの姿勢で若菜が楽しげに言う。


「な……なんて事するの!?」


「体に影響はないさ。しばらく力は使えないだろうけどね。儀式の邪魔をするからだよ。さあ邪霊よ、贄を喰らえ!」


 【蜥蜴】が辰海を押し退け、のそりのそりと涼の前へ歩を進める。


「う、うわわ。こっち来んな!」


 涼を生贄と定めたのか、【蜥蜴】はベロリと細長い舌を涼の体に巻きつける。


 それと同時に複数の旋風が一つになり、【蜥蜴】と涼を一気に巻き込んだ。


「うわあああああああ!!」


「涼くんーーっ」


 目を開けていられない程の風が晶を襲う。


 若菜のスーツの裾がバタバタとはためき、巻き上がる風塵は絶えず石室内で跳ね返って再び地に落ちるを繰り返す。


 その間に涼の体は宙に浮き、暴風と化した【蜥蜴】が渦を巻きながら涼の口へと体を捩じ込んだ。


『ガガガがガガガガガがガガガがががガがががッ』


「涼!」


『ギュルルるュるるルるルるるるるぅ――ッッ!』


 涼の悶絶する声か、【蜥蜴】の鳴き声か。


 涼の口から体内にかけて異質な音が立つ。


 涼は徐々に弓のように体をしならせ、黒い竜巻を飲み込み続ける。


 そして、ふっと吹き消されるように風が止んだ。


 残されたのは渦を描くように抉れた地面。


「儀式完了だ」


 そう言う若菜の視線の先には、漂う砂塵の中で涼が静かに背を向けて立つ姿があった。


「涼……くん」


 空中を舞っていた砂埃がパラパラと地面に落ちる。


 【蜥蜴】の姿はどこにも見えず、ただ晶の視線の先では涼が微動だにせず立っているだけだった。


 しんと静まり返る場に、か細い呼吸音が鳴り始める。


 ひゅうーー……


 ひゅうーー……


 すきま風のような吐息が涼の口から漏れ出る。


 まるで久々に使う肺の動きを確かめるようなぎこちない動きだ。


 晶は固唾を飲んでその様子を伺う。


 涼の肩が呼吸に合わせて上下するのを見てとりあえず生きてはいると安堵するが、間もなく次の不安が晶を襲う。


 果たして今の『彼』は涼なのか。


 邪霊が正しく涼に憑依したのであれば、『彼』は涼ではない。


 時折咽せ返るように下手くそな咳をして‬‪ようやく涼は顔を上げた。


『あ』


『ああ』


『ぐう、あ、あぁ!』


 喉の奥から絞り出される唸り声。


 涼の視線は虚空をさ迷い、ふと伸ばされた両手はグシャグシャと己の頭を掻き乱し、爪を立てる。


「素晴らしい。無事に生贄への憑依が済んだようだ」


「そんな……」


 若菜が喜々として手を叩く。


 涼に取り憑いた【蜥蜴】を捕まえるために使うつもりなのだろう、その‬手には辰海を撃った銃と共に拘束具のような物が用意されている。


 後は銃で【蜥蜴】の邪霊を無力化させ拘束すれば若菜の仕事の大部分は終わったも同然だった。


 残りの【猿】を晶に見つけさせ、適当な生徒に取り憑かせればいいだけだ。


 しかも運良く【鯨】の器も手に入れられそうと来れば上々。


 ぐったりとしている辰海を横目に若菜は愉快げに口元を吊り上げる。


 そしてふと足元でへたり込む晶を見下ろした。


 呆然と儀式の完了を見届ける姿はあまりにも弱々しく小さい。


 どこにでもいる運の悪い女子高校生だ。


 自分は『転校生』という存在を過大評価していたのかもしれない。


 僅かに残していた警戒心を緩めかけたその瞬間、晶が一言ぽつりとこぼした。


「おかしい」


「ん?」


「いつもと違う」


 晶の視線の先には棒立ちのまま頭を抱える涼の姿。


 あ、だのう、だのと呻いているのは降霊後のラグのようなもので、体がままならないのはそうおかしな事ではないはずだった。‬


「何がおかしいって?」


 若菜の問いに答える事なく晶はふらりと立ち上がる。


 【蜂鳥】と【鯨】、二体の邪霊は生贄の体を得た瞬間から巨大な恨みの感情に飲まれて暴走した。


 自由に動かせる体に入り、まるで水を得た魚のようにその力を晶達に向けて来たのだ。


 何故今それが起こらないのか。


 目の前の【蜥蜴】は‬先程まで霊体のまま猛威を振るっていたはずだ。


 涼という体を得た今、当然更なる暴走が待ち構えているものだと晶は思い込んでいた。


 【蜥蜴】は尚も動かない。その理由に気付いたのは涼のさ迷う視線が晶を捉えた時だった。


「に、げ……」


 逃げろ。


 涼の口から涼自身の言葉が出た。‬


 霊に支配されていない、意思を持った言葉が。


「涼くん!」


 涼にまだ意識がある。その事実が晶の体に鞭を打った。


『う、ぐぅ……!』


 涼の中で体を乗っ取ろうとしている【蜥蜴】を自らの意思で抑え付けている。


 削られていく自我を必死に保とうとしている。


 中で【蜥蜴】が暴れ回っているのだろう、ガリガリと自分の頭や顔に爪痕を‬付ける手に、晶は飛び付いた。


「涼くん! 涼くん頑張って! お願い、霊に乗っ取られないで、気をしっかり持って!」


『う、あ、はあっ……はあ……!』


 自分の頭部を掻きむしり血まみれになった涼の手を無理やり剥がし、晶は必死に呼びかける。


 天秤が少しでも傾けば完全に人格を持っていかれてしまう。


 そんなギリギリの意識を少しでも留めようと、晶は冷や汗をかきながらもゆっくりと涼に語りかけた。


「涼くん、私……私、嬉しかったの。涼くん‬が邪霊は成仏させるのが一番だって、私が悩んでたことに答えをくれて。涼くんは霊が見えてて、私の事怖かったよね。気持ち悪かったよね。でも神社で話しかけてくれて嬉しかった。あの時泣いたのは、多分、涼くんが優しかったからだよ。負けないで涼くん、お願いだからーーっ」


「ぐっ……うぁああ!」


 チラチラと涼の意識が‬‪感じられるものの、晶の言葉が全て伝わっているとは到底思えない。


 それ程に【蜥蜴】の気配が膨れ上がっている。


『ああああああああああ!!』


 二人の足元からは再び空気が渦を巻き始め、気付いた若菜がすぐさま銃を構えた。

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