第22話

 勝ち筋がまるで見えない。


 撤退という二文字が晶の脳裏に過ぎったその時、聞き慣れた声が地下空間に響いた。


「本野!」


「――ッ斗真くん!?」


 防空壕から続く坂道から斗真が駆け下りてくるのが見え、晶は一瞬安堵感を抱いた。しかしすぐに厳しい表情を向ける。


「【鯨】が出た! 白い手に捕まらないで!」


「【鯨】……! あれは辰海か!?」


 壁に磔にされ【鯨】を飲む辰海の姿に斗真は愕然とした表情を浮かべる。


「こんな、こんなことになるってのか。邪霊に取り憑かれるっていうのは、」


 呆然とする斗真の背後から複数の白い手が迫る。


「斗真くん危ない!」


 それは晶の叫ぶのと同時だった。


 斗真の背中から燃え盛る炎が発せられ、あっという間に白い手を焼き消したのだ。


「えっ」と目を丸くする晶に見せつけるように、斗真は自らの拳を眼前に突き出した。


「高麗先生が指輪の改良に成功したんだ! 『邪霊に取り憑かれた者は人智を超えた力を持つ』の応用だとさ。俺の意思で【蜂鳥】の炎を出せるようになった!」


「それって、つまり……」


「俺も戦える!!」


 斗真はそう言ってその場で大きく振りかぶり、辰海を拘束する白い手に向かって炎の球を投げつけた。


 ジュッと音を立てて白い手がちぎれ、辰海の体は壁に沿って落下する。


「神崎くん!」


『苦しい……』


 晶が駆け寄ると、辰海の口から絞り出すような声が漏れる。


 【鯨】は既に辰海の体内に収まっていた。


『苦しいくるしいくるしい―――――!!! ここから…出せよおおおおおおおお!!!』


 辰海の絶叫を引き金に、白い霧が衝撃とともに波状に広がる。


 近くにいた晶は振動に煽られただけだったが、離れた場所にいた斗真は衝撃を正面から受け地面に叩きつけられた。


「ぐっ……!」


「斗真くん!」


 背中を抑え咳き込む斗真に駆け寄ろうとした晶だったが、がくりとその身を傾けた。


 晶の足首を霧の手が掴んでいる。


 掴まれた箇所は急激に冷え痛みを伴い、晶は堪らず顔を顰める。


 急速に近づいてくるその気配に、晶は恐る恐る顔を上げた。


 蹲っていたはずの辰海の姿が、ふらふらとした足取りで晶の元に向かっている。


 『出て……行け』


 辰海が、いや辰海に取り憑いた何者かが激しい呼吸の間で言葉を発した。


 がくりと斜めに首を傾け、剣呑とした瞳を光らせている。


 それは確かに憎しみを込めて晶に向けられていた。


 晶は痛々しい辰海の姿に眉根を寄せ立ち上がった。


 一歩踏み出そうとするが、それを阻むように白い手が晶の足に絡みつく。


「本野さん! 離れるんだ!」


 坂道から高麗の声が響いたその瞬間、辰海の手が晶の喉を捕らえた。


「うっ!」


 強い力で首を絞め上げられ、晶の足が地面から離れる。


 必死にもがいてもその腕はびくともせず、辰海の手と晶の喉に引っ掻き傷だけが増えるだけだ。


「本野!」


「待って、君の炎は相性が悪い!」


「でも――」


 炎を出して構える斗真を、追いついた高麗が止める。


 そして高麗は斗真の前に出て、白衣のポケットから細い針を取り出した。


雷鋲らいびょう!」


 ピュンッと高麗の手から放たれた虫ピンのようなものは、辰海の肩に命中するとバチンと音を立てて稲妻を生んだ。


『ぐっ!?』


 辰海の握力が緩む。晶はカッと目を開け、片足を辰海の腕に巻き付けてその体を引き摺り倒した。


『おおおおおおおおおおおお!!』


 【鯨】は地面に伏したまま叫び、周囲の空気を凍らせ始める。


 晶は辰海の体を押さえつけたまま、手足から凍りついていく。


「このっ!」


 斗真の炎が冷気を緩和させるが、邪霊の限界を超えた力には敵わない。


「クソ! あいつの方が強いってのかよ」


「改良した呪器には持ち主が暴走しないように制限がかけてあるんだ!」


「でもこのままじゃ冷気で【鯨】に近づけねえ!」


「……信じるんだ。君を救ったのも彼女なんだから!」


 バキンッと氷が割れる音が響いた。それは冷気の中心から鳴った。


 強烈な冷気でほぼ氷漬けにされた晶の背後から、【蜘蛛】の脚が伸びる。


 バキン、バキン、と晶の動きを妨げる氷を八ツ足が割っていく。


 顔も髪も霜に覆われて、晶の表情は見えない。


 ただ強く拳を握っていた。


「返して」


 晶が開眼するとともに、【蜘蛛】の赤い八ツ目も開かれる。


「神崎くんを返して!!」


 晶の拳が辰海の顔面のすぐ横を通り、地面にめり込んだ。


 腹の底に響くような、大地が裂ける音がした。


 その一拍後、晶と辰海がいる地面がバコンッと音を立てて凹む。


「あっ」


 斗真が気付いて手を伸ばす前に、二人の乗った地面だけが、土埃を立てて下層へと落ちた・・・


「まずい落盤した! 西條くん下がって!」


「本野! 辰海ィ!!」


 ガラガラと崩壊音が地下空間に響き渡る。


 封印の場の床の一部分だけが崩れ落ち、晶と辰海は下の階に落下した。


 数十秒後、音が止んで土埃が晴れると、坂の中腹まで退避していた斗真が慌てて崩落した穴まで戻る。


「そんな……本野、辰海! 返事してくれーー!!」


「僕は救急車を…………ッ!?」


 その時、高麗が穴の底にある何かの気配に気付いた。


 穴を覗き込むと、土埃の隙間から、黒い【蜘蛛】の脚が下層の地面に突き刺さっているのが見える。


 黒い脚が何かをそっと地面に下ろす。


 それはポカンと【蜘蛛】を見上げる晶と、晶に抱かれ意識を失っている辰海だった。


「【蜘蛛】が落下から二人を守ったのか……!?」


「よかった! おーい本野! 動けるか!?」


「エ゛ッ……ナニコレ」


「そうだ! 本野さんこれをっ」


 高麗が晶に向かって光るものを投げ下ろす。それは古めかしい銀でできた十字架ロザリオだった。


「呪器だ! それを神崎くんに!」


「は、はいっ」


 晶は辰海を地面に下ろし、そっと首に十字架をかける。


 辰海の反応はないが、地下に充満していた白い霧が一瞬でかき消え、重苦しい邪霊の気配も収まっていく。


 晶はほっと胸を撫で下ろし、辰海の頬を指でゆっくりと撫でた。


 辰海の綺麗な顔は冷気で霜焼けを起こし、首や手は血塗れだった。


「神崎くん……大丈夫だよね?」


 晶は辰海の体を抱えて、上を見上げる。


 そこでは斗真が一所懸命手を振っていて、高麗が焦りながら縄ばしごの準備をしていた。


 辰海は晶の拳が顔を掠めた時点で意識を飛ばしていた。


 地面が抜けた時、晶は無意識に辰海を抱え、その瞬間大きな黒い脚が晶のことを包み込んだ。


 落下の衝撃など感じないくらい頑丈に守られ、落ちてくる石や土も晶に届くことはなかった。


 晶はふと自分の体を見つめる。


 いつの間にか、黒い脚は晶の影の中に還っていた。


「あれが……【蜘蛛】」

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