第20話
手入れのされていない雑草で生い茂った倉庫裏の一角で、二人は向かい合う。
面白そうに笑みを浮かべる辰海が目に入り、ため息を我慢しながら晶は口を開いた。
「星野先生とは本当に何もないから」
「ふうん」
「信じてないよね……」
「うん、そうは見えなかったから」
頑として自分の言葉を信じようとしない様子に晶は頭を抱えた。
これがただ同級生を心配している様子だったのならまだ良い。
しかし辰海は明らかに面白がっている。それが一番の問題だった。
「教師と生徒の恋愛なんてドラマみたいで刺激的だよね。毎日飽きないでしょ」
「恋愛してないし刺激もいらないよ……」
これ以上刺激的な出来事が起これば今度こそ学校に来なくなるかもしれない。
体の中に邪霊がいるから恋愛している場合じゃない!
そんなことはもちろん言えず、晶は目の前の辰海を恨めしそうに見た。
「神崎くん、面白がるのはやめて。これからはその件で揶揄わないでほしいの。もちろん斗真くんの反応が面白いからってだめ」
「斗真は確かに面白いよね」
「真面目に聞いてよ」
尚も態度を変えない辰海にとうとうしびれを切らせた晶が一歩距離を詰めると、辰海は大きな眼鏡の奥で目を細めた。
「退屈なんだよ」
「はい?」
「毎日毎日同じことの繰り返しでさ。これじゃあ昨日と今日の違いも分からない。たまには刺激的な出来事が起こってほしいんだ」
そう言う辰海の目はまた影を落としていた。
先程より詰まった距離にも動じずに、頭一つ分以上背の低い晶をただ見降ろす。
「私は平穏に過ごしたいから、神崎くんの気持ちがよく分からないな」
晶の率直な言葉に、辰海の眉が僅かに上がる。
晶は身長の差に負けじと辰海の顔を覗き込んだ。
「……星野先生とのことはまだ疑ってるけど黙っておいてあげる」
「本当!? 絶対だよ。……あと、あの時教室間違えたって言って入ってきたの、わざとだよね。ありがとう。助かったよ」
「…………」
辰海は何も言わずに晶に背を向けた。
礼を言われると思わなかったのかもしれない。
晶には彼の表情が読めないが、話は通じたようだった。
お礼も言えたし、なんとかなったようだ。
晶は自分にしては上出来だったということにして、予定していた理事室に向かおうと足を踏み出す。
その時、突然急激な重力に引かれるように足がもつれた。
「うわっ」
「何!?」
その場にいた辰海も同じくしゃがみ込んだ。
晶は慌てて目線を下げる。見ると膝から下が白く覆われていた。
足元だけではない、晶の視界がどんどん白い霧でかき消されていく。
「なんだこれ。霧?」
「神崎くん、私から離れないで」
「何、急に」
「いいから!」
重く冷たい気配。足元から伝う冷気。晶はビリビリとその存在を感じていた。
自分はこんなに敏感じゃなかったはずだ。と晶は思った。
霊感なんてこの学校に来てからあるある言われるようになっただけで。
しかし、だとしたら、この気配は晶にも感じる程強大であるということだ。
「嫌な気配だ」
「! そう……神崎くんも分かるんだね」
となると辰海にも晶と同程度の霊感が備わっていることになる。
晶はぎりっと奥歯を噛み締めた。
また放課後、また倉庫、また予兆なし。
突然真っ白になってしまった風景に、晶は構えながら辰海を背に庇う。
おもむろに息苦しさと体の重さを感じ、晶は口元を手のひらで覆った。
呼吸をも奪う圧。
間違いなく邪霊の気配だった。
カリッ……カリッ……カリッ……
晶の耳に、何が硬いものを引っかくような音が響いてくる。
カリッ……カリッ……カリッ……
白い霧に包まれた視界。響く異音。辰海の耳にも聞こえたらしい。その端正な顔が歪む。
晶は構えたまま音のする方向に目を遣った。
霧がかる視界にはぼんやりとした影が写っている。
晶は固まる足になんとか力を入れてその場に立ち尽くしていた。
カリッ……カリッ……
異音は霧の向こうにある何かから鳴っているようだ。
晶が息を飲み目をこらしていると、だんだんと白い霧の濃度が薄まっていき、音の出処が露わになる。
それは古い井戸だった。
硬質な音を立て続け、中から白い霧を吐いているそれを目視した途端に更なる息苦しさが晶を襲った。
「はあ、はあっ……なんで、何これっ」
空気を取り込もうと大きく呼吸をしても肺が重くなっていく。
急速に奪われる酸素に加え、一刻も早くこの場を離れなければならないにもかかわらず足が動かないという状況に晶は酷く混乱していた。
せめて辰海を逃さなければ。
しかし、晶が振り向いた先はただ真っ白な空間が広がっており、辰海の姿が見えない。
「神崎くん!」
「こっち!」
声とともにガシリと掴まれた肩。姿の見えない辰海に強い力で引っ張られる。
「逃げよう神崎くん!」
「ダメだ、何かに引っ張られてる!」
「えっ」
逃げようと踏み出したはずの辰海の足は、その意思に反し井戸へと向かってしまう。
一歩、二歩……近づく程に井戸から響く音が明瞭になる。
晶は辰海の腕にしがみついて必死に引き止めるが、辰海の足は止まらない。
カリッ……カリッ……カリッ……
ゆっくりと、しかし確実に井戸に近づいていく辰海の体に、晶は以前意識なく立っていた斗真の様子を思い出した。
今、辰海は何かに導かれている。
「何してんの、手ェ離しなよ!」
「ダメ!」
「いいから逃げろって! これ絶対ヤバいから!」
もはや
辰海の足は井戸の側で止まった。
空気は凍りついたまま、井戸の中からは絶えず異音が響く。
暗く、そして白い霧を噴出しているため内部は見えないが、晶の目はおかしなものを捉えていた。
古井戸の苔むした縁に、白い両の手が掴まっている。
まるで内側から井戸の外に出ようとしているかのように、その手はカリカリと音を立て井戸の縁を引っ掻いていた。
カリッ……カリッ……
引っ掻くたびにぬるりと傷だらけの肘が現れるが、重力に負けるようにまた井戸の中へと沈んでいく。
出たがっているのだと感じ取った瞬間、井戸の中から霧が噴き出し、辰海の体に纏わりついた。
白い腕の正体は間違いなく霊杭。
しかしこの白い霧は全く別の気配を纏っている。
「うあっ!?」
胴体をギリギリと強い力で締め上げられ、辰海はたまらず声をあげる。
振りほどこうとするが白い霧は離れない。
それは確実に辰海を狙っていた。晶は負けじと辰海の体に手を回して足を踏ん張る。
ずるずると辰海の体は井戸へと引き付けられ、ついに辰海の肩が井戸の縁に当たり、辰海がかけている眼鏡がガチャンと落ちる。
「待て待て待てヤバイって!」
「神崎くん……!」
辰海を井戸の中に引き摺り込もうとするその霧は、次第に晶を引き離すような動きに変わる。
「はあっ……はあっ……やめて!」
その時、辰海は奇妙なものを見た。
晶が霧を拒絶した瞬間、晶の影から黒い霧が立ち昇ったのだ。
それはじわじわと白い霧を侵蝕していき、辰海の体が少しだけ軽くなる。
しかし辰海は既に上半身を井戸に突っ込んでいた。
「うわあっ!!」
「きゃあ!」
バランスを失った辰海の体が井戸に落下する。晶も辰海の体重を支えきれず、一緒に井戸に落ちた。
充満していた白い霧が井戸の中に還っていく。
その場に残ったのは、井戸の中から伸びる青白い腕と、その小指に引っかかった辰海の眼鏡だけだった。
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