第18話☆

「あっれー?さわやか王子じゃん」


トイレで手を洗っていると、背後から不快な声が聞こえた。


(うわ、めんどくせぇのが来たよ…)


鏡越しに見ると、やはり営業三課の中村だった。

一刻も早くこの場を去りたかったが、肩を掴まれて動けない。


「お疲れ様です」


中村への嫌悪感が顔に出ないように、必死でよそ行きの笑顔を作る。


「ちゃんと飲んでる?さわやか王子は酒飲んでもさわやかだなぁ」


ニヤニヤした係長が顔を覗き込んでくる。

酒臭い息が顔にかかって、不快感は倍増した。

相当酔っているようで、距離感がおかしくなっているのか、セクハラレベルの至近距離で顔を寄せてくる。


(最悪。ゲェ出そう。おっさんの顔面キツいわ…最近洲崎の顔見慣れてるせいで余計に無理だわ)


勝手に比べておいて申し訳ないが、同じように顔を間近で見てみると、どうしても洲崎との差を実感してしまう。


洲崎はもっと彫りが深くて、魅入るような印象的な目をしている。

肌だって、油ギトギトじゃなくてサラッとしていて清潔感がある。

洲崎は酒を飲んでも酒臭くない。

そもそも、酔っ払って顔を無理やり近づけてくるようなデリカシーのないことはしない。


真澄も酔っているせいだろうか、洲崎との違いばかりが頭の中に浮かんでくる。


「本当に整った顔してるなぁ」


係長は相変わらず退く気配はない。むしろ近づいている。

そして、肩を掴んでいた手がいつのまにか真澄のうなじに伸びていた。


「うなじもスベスベじゃねぇか。男だけど全然アリだな」


ねっとりとした手つきで、うなじを撫でられる。

あまりの気持ち悪さに全身に鳥肌が立った。

こんな感覚は初めてだった。

背中が痺れるように気持ち悪い。


真澄の反応を面白がっているのか、今度は耳に息を吹きかけてきた。


「なぁ、本当のところ新谷課長とどんな関係なの?年上が好きだったら、俺も相手してやろうか?」



その言葉に、真澄の中で何かがぷつりと切れた。

怒りが体中を巡る。


(殴ろう。怒りを抑える労力がもったいねぇわ)


いつもは仮面の下に隠している粗暴な面が、アルコールによって顕になろうとしていた。

顔がめり込むくらいのストレートを決めよう、と拳を握る。


(もう、笑顔を作る必要もねぇな)


肩を掴む手を払う。

鏡越しの真澄の表情がいつもと違うことに気づいたのか、中村は一気に酔いが覚めた顔をしていた。


しかし、気づいたところでもう遅い。

振り向き様に殴りかかった。



「佐野!」



もう少しで顔面に届くはずだった拳は、洲崎の手によって阻まれた。

大きな体が二人の間に割って入る。

行き場を失った怒りはまだ真澄の体内に残っているが、洲崎の背中越しに係長を睨みつけることしか出来なかった。

一瞬たじろいだ中村だったが、洲崎が間に入ることで自分の身の安全を確信したのか、またニヤついた顔になった。


「…へへ。すごいな、同期まで誑し込んでんのか?」


中村が吐き捨てるように言った言葉は、またしても真澄の逆鱗に触れた。

今度こそ、と殴りかかろうとしたところを強い力で洲崎に制される。


「係長、飲み過ぎです」


洲崎は落ち着いていた。

しかし、その声色は静かに怒気をはらんでいた。


「マ、マジになんなよ!冗談なんだからさ」


その様子に焦ったのか、中村は取り繕うように笑いながら立ち去った。



「大丈夫か?何があった?」


洲崎が心配そうに顔を覗き込む。

すぐに返事をしたいけれど、自分でも大丈夫かどうかわからなかった。

怒りや恐怖や悔しさだけでは言い表せない感情が、真澄を混乱させていた。

まだ体には震えが残っている。


大丈夫と言いたいのに声も出せず、弱々しく震える自分がとてつもなく情けなく思えた。

鼻の奥がツンとする。

この感覚が、昔から大嫌いだ。


気づいた時には、抱き締められていた。

強い力だった。

驚いたけれど、それ以上にほっとする気持ちの方が大きかった。

力強い腕は次第にその力を緩めて、優しく真澄の背中をさすってくれた。

涙を堪えようとしても無理だった。


「帰ろう。お前はここで待ってろ」


トイレの個室で待つように言われ、さすってくれていた手が離れる。

急に背中が冷たくなって、不安な気持ちになる。


「大丈夫。すぐ戻ってくるから」


洲崎は自分のジャケットを真澄に羽織らせると、どこかへ消えた。

しかし、言った通りすぐに戻ってきた。


それから、タクシーで帰ったのか歩いて帰ったのかさえも真澄にはわからない。

覚えているのは、なかなか涙が止まらなかったことと、洲崎がずっとそばにいてくれたことだけだった。

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