第13話★

一人で歩く道すがら、洲崎は頭を抱えていた。

人の少ない場所であれば、うずくまって唸っていたかも知れない。

全ては脳裏に焼きついた、あの光景のせいだ。

立ち止まって邪念を払うように頭を振ると、通行人が不審な者を見る目でこちらを見ていた。


(違うんです!俺は、決して不審者ではない…と言いたいところだけど、自信なくなってきた…)


思春期の時でさえこんな事になった記憶はない。

今朝、それを見た時からずっと頭を離れなくなっていた。

見たのは初めてではなかったはずだが、今日まともに目があったという感じだ。

まぁ、目ではないのだが。


(だって…ピンクベージュなんだもんなぁ…あいつの乳首…)


佐野の白い肌に映える二つの丸印。

ピンクではない。あくまでもピンクベージュだ。

本人の性格の横暴さとは真逆の、控えめで優しい色。

それぞれの中心には小さな先端が瑞々しい存在感を放っていた。


これまで男の裸体を見ても、特に何かを感じることはなかった。

ただ、佐野に関してはなんとなく目を逸らしていたような気もする。

白肌の、筋肉が主張していない細身の体は、見慣れていないせいかどことなく違和感を覚えた。

見てはいけないような気がして、無意識に見ないようにしていたのかもしれない。

それが今日、あらためて真正面から見てしまったら、しばらく視線が動かせなかった。


(乳首がメドゥーサかよ…なんだ、あの艶めかしさは。艶めかし王子じゃねぇか…って語呂悪いな)


大きく息を吐いて、気持ちを落ち着かせる。

思い返せば、この行動も本日二度目だ。

今朝、自分の中心部で起った生理現象を鎮める時もそうしたが、かの乳首のせいで全く鎮まる気配が無く、最終的にシャワーの冷たい水をぶっかけるという物理的な制圧で事なきを得た。

その後、脳内の乳首の残像を振り払うように急いで佐野の家を後にしたが、普段通りに振る舞えていたかは微妙なところだ。


(昨日、飲みすぎたのか?それか疲れが溜まってるとか…それとも色々溜まってるのか?とりあえず実家帰って一旦忘れよう…)




実家の玄関の扉を開けると、飼い犬のペロが出迎えてくれた。

熱烈な歓迎に、つい顔がほころぶ。


「あ、兄ちゃん。久しぶり」

「ただいま。久しぶりだな。元気だったか?」


弟の修次が洗面所から出てきた。

普段は大学の研究室に篭っていることが多く、会うのはめずらしい。

ペロの散歩から帰ってきてシャワーを浴びていたようで、修次は上半身の服を着ていない状態だった。


やはり、男の体を見たところで何も感じない。

弟の体を見て何かを感じたらそれはそれで問題だが。


「…やっぱり、乳首って茶色だよな」

「え?今、乳首って言った?」

「いや!く、首な!ペロの首、ちょっと茶色いからシャンプーしてやらないと!」


うっかり、弟の前で乳首という言葉を発してしまい、必死に誤魔化す。


「そう?ペロ、白くね?」

「いや、ほら、ここ!すこ~しだけ汚れてて、なんとなく茶色っぽくないか~?」

「…兄ちゃん、綺麗好きもほどほどにな」


修二は呆れた顔をしている。

全く汚れていないペロを巻き込んでしまい少し胸が痛んだ。


「てか兄ちゃん、何しに帰ってきたの?」

「いつもどおり、あいつらの子守りだよ」


あいつら、というのは双子の妹達のことだ。

高校受験を控えている二人に、ここ最近は毎週土日に勉強を教えている。

と言っても、すぐに遊びに出かけようとする自由な二人のお目付役だ。

仕事で家を空けることが多い両親に代わって、洲崎がその役目を引き受けている。


「あれ?聞いてない?あいつら今週から土日も塾あるって」

「え?」


詳しく話を聞いてみると、テストの結果が著しく芳しくなかったことに母親が激怒し、強制的に塾の集中コースに参加させられることになったそうだ。


「だから毎週毎週帰って来ないで大丈夫。仕事忙しいんだから、休みの日くらいゆっくりしなよ」

「うーん。そうだけど」


これまで、平日は仕事と佐野の世話、土日は実家で家事や妹達の世話で忙しくしていた。

でも嫌々していたわけではない。

むしろ、好き好んでしていた。

忙しくしている方が性に合っているからだ。


「兄ちゃんは好きでやってるかもしれないけど、甘やかし過ぎたらダメだよ。みんな、兄ちゃんに頼れば何とかなると思ってるんだから。このままだとダメ人間製造機になっちゃうよ?」


修次は、自由奔放で大らかな性質を持つ家族の中でもめずらしく、現実的で冷静な性格だ。

核心をつく意見に耳が痛い。


「だから、しばらくは洲崎家の成長促進月間ってことで。では、さっそく今日のところはお引き取り下さい」

「ウソだろ?えー…」


まだ実家に帰って十分も経っていないのに追い返されてしまった。

玄関扉の磨りガラス部分からペロが心配そうにこちらを見ているのが分かる。

名残惜しくペロに手を振り、実家を後にした。


(しょうがない。家帰るか…)


自宅に着いても、特にやることはなかった。

普段から片付いているし、昨日帰宅していない分の溜まった家事をこなすと、すぐに時間を持て余した。

すると、危惧していたことが現実となった。


(脳内に乳首がチラつく…)


気を紛らわすものがなくなると、すぐにあの乳首が現れる。

考えないようにすればするほど、蘇る乳首の残像。


(あの乳首、強いな…このままじゃ頭の中が乳首だらけになるぞ…)


危機を感じた洲崎だったが、ふと閃いた。


(そうだ、俺は負けない…!)

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