第9話★
あの居酒屋で異変が起きたのは、二人で日本酒を五合ほど空けた頃だったと思う。
「たのひぃ…」
そうつぶやいた佐野は、いきなり机に突っ伏した。
しまった、と思った。
あまり酒が強くない、と言っていたにも関わらず、洲崎が勧めた酒をそれはそれはおいしそうに飲むのを見て、ついうれしくなって次々に勧めてしまった。
洲崎にとって、こんなに楽しい時間は久しぶりだった。
それなのに、後悔で一気に酔いが覚めた気がした。
「あらま、大変!佐野君寝ちゃったのね。あら、寝顔かわいいわ~。お水持ってくるからしばらく休んでいきなさいね」
「女将さん、すみません」
女将が持ってきてくれた水を、佐野に飲ませようとした時だった。
(うわ!びっくりした。こんな顔して寝るのか。酔いつぶれてる佐野には悪いけど、見られてラッキーだ)
女将が言う通り、ふやけた笑顔のまま寝ている姿は、同い年とは思えないほどあどけなく見える。
会社ではあまり笑顔を見せないせいか、左側に八重歯があることも初めて知った。
「佐野、水飲もう。酔いを覚まそう」
起き上がらせて口元までコップを運ぶ。
少し覚めたようだが、とろんとした目は酔っ払いのそれだった。
「うぅ、水おいしぃ。水までおいしいんだなぁ」
「ふっ…そうだな」
出来上がった佐野は、普通の水なのにおいしそうに飲んでいて、思わず笑ってしまった。
そして、佐野に水を飲ませている状況に少し感動している自分がいた。
また二人で飲みに行けるだろうか、とすでに次のことまで頭によぎる。
「大丈夫そうか?」
「ん。だいじょうぶ…俺は!いつだって!だいじょうぶだ!」
(いや、全然大丈夫そうじゃないけど。面白いやつだな)
飲ませすぎなければ、きっと二軒目も行っていただろうと思うと惜しい気持ちがこみ上げる。
残念がっていると、佐野が急にふらふらと立ち上がって帰ろうとし始めた。
それを慌てて引き留め、会計をして店を出る。
「佐野君、送っていけそう?」
「迷惑かけちゃってすみません。なんとかします」
「大丈夫かしら?またいらっしゃいね。次もおいしいお酒、用意しておくから」
「ありがとうございます、また来ます」
女将に見送られながら、一瞬でも油断すると全身の力を抜こうとする佐野の肩を担いでタクシーを探す。
「たのひかったな…」
「そうだな、また行こうな」
そうかそうか、と胸をなでおろす。
酔わせてしまった後悔はあったが、佐野が楽しかったのなら、それに越したことはない。
「ん…でも…浮気しちゃったな…」
「え!?」
(ちょっと待て、今、浮気って言わなかったか…)
聞き捨てならない一言を聞いて、急に心拍数が乱れた。
「どうしよ、あやまらないと…俺、浮気しちゃったから…嫁に、あやまらな…うっ」
「え?は!?」
突然の「浮気」から「嫁」という新たなワードが繰り出され、さらには佐野が泣き始めた。
(…嘘だろ、既婚者だったのか?知らなかった。聞いちゃいけないこと聞いてる気がするぞ…でも指輪してないよな。てか泣くのか、佐野。泣き顔も整ってるな…って今はそんなことはいい!)
混乱の中、心を落ち着けるために自分の頬を叩く。
(とりあえず落ち着け。とにかく今は佐野を家に送り届けることだけ考えよう)
タクシーを拾い、なんとか佐野の免許証を探し出し住所を伝えた。
佐野はまた眠りについたようで、すうすうと聞こえる寝息が嵐の前の静けさのように思えた。
いよいよ目的地に近づくと、古いけれど手入れがされているアパートが目に入った。
気持ち良さそうに寝ていた佐野を起こし、タクシーから降ろして体を支えながら階段を上がる。
(ここで奥さんと二人暮らししてるのか…?俺、どうしよう…)
これから起こるかもしれない修羅場を思うと、体が重く感じた。
部屋の前にくると、佐野がポケットを探りだした。
なかなか見つからない鍵を、ようやく見つけて玄関のドアを開ける。
中は暗く、うっすら見える玄関には男物の靴しか無いようだった。
玄関付近の明かりをつけると、予想していなかった光景が広がっていた。
(…本当にここ、佐野の家か…?)
玄関から廊下の両端に積み上げられたゴミ袋の山。
しかし、酔っ払っているにもかかわらず佐野はそれを器用に避けて、慣れた足取りで部屋に入った。
見てはいけないものを見てしまった気がしたが、何故だか納得している自分もいる。
例の「嫁」というのも気になるので、佐野からはとっくに存在を忘れ去られている洲崎も勝手にお邪魔することにした。
部屋に入ると、やはり嫁が居る気配はなかったが、その代わりリビングに集められている大量のビールの空き缶が気になった。
(おい、何だこれは…何かのオブジェかってくらい空き缶だらけだな…)
どおりでワインは飲まないはずだ、と妙に感心していた時、そのオブジェの前で佐野が土下座の体勢になった。
「うっ…ごめんなさい…俺は裏切った…一生、お前だけだって、誓ったのに…日本酒、飲んじまった…しかも、いっぱい、飲んじゃった…ぅあー!ごめんなさい!ごめんなさい!」
そう言うと目の前の缶を手繰り寄せるように集め始めた。
何かのスイッチが入ったのか、またしても泣いている。
「え、佐野?大丈夫か?」
「うっ…一生、お前だけって、いっだのに…びぃるぅ~!びぃ~るぅ~!!びぃる…」
土下座のまま、両手で集めた缶を抱きしめている。
そしてそのまま眠りに落ちてしまった。
「おい、佐野!寝てんのか?おい、嘘だろ?」
佐野の体を揺り動かしても、聞こえるのは健やかな寝息だけだった。
「……っふははは、なんだこいつ。面白すぎるだろ…」
夢でも見ているのかと思った。
社内ではさわやか王子と呼ばれる佐野。
しかし、実のところは片付けられていない汚部屋に住んでいて、なぜかビールを嫁と呼び、土下座の体勢のまま眠れる面白すぎる男。
あまりにもギャップがありすぎて、現実味が全くない。
恐らく他人に話したところで誰も信じてくれないだろう。
それに、こんな素顔があるなんて、誰かに言うのはもったいない気がする。
(明日、起きたらどんな反応するんだろう…)
終電も無くなったし、酔っ払いを介抱したお礼として勝手に泊まらせてもらうことにする。
というのは建前で、ただただ明日の佐野がどんなリアクションをするのか見てみたかった、というのが本音だ。
物で溢れた部屋の中、寝る場所を探すのも苦労する。
(おい、どんだけハンガーたくさんあるんだよ!洗濯物は山積みだし…しかもこれ洗う前のやつだな?おいおい、ベッドの上も服だらけだし、いつもどこで寝てるんだ…?)
つっこみ所が満載の部屋を見渡す。
この状況で、佐野のあの清潔感が生まれるのはもはや奇跡だ。
なぜかはわからないが、林間学校の夜のようにワクワクしていた。
とりあえず佐野のジャケットを脱がせて、近くの座布団に寝かせて布団をかける。
無造作に投げられた鍵やバッグを片付けて電気を消した。
「佐野、おやすみ」
酒の余韻と心地良い疲れで、洲崎もすぐに眠りについた。
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