第二章

第183話 あの人


 4月――



「行ってきます、お母さん」


「行ってらっしゃい、ところで架純かすみちゃん。手芸部に入部したいって言ってた話だけどね……」


 学校へ行く前に台所にいる母に声を掛けると、いつものように心配そうな顔を向けてきた。


「うん、大丈夫。部活に入るのは諦めるから」


「そうよ、貴女は身体があまり丈夫じゃないのだから無理をしてはいけないわ。高校生になって部活に入りたい気持ちは分かるけど……手芸なら家でだって出来るでしょう?」


「うん……。分かってる。それじゃ、行ってきます」

「はい、行ってらっしゃい」


 母は私が納得したのを見て、安心したのか笑顔を向けて手を振った――。




****


 私の名前は橘架純たちばな かすみ。今年四月に高校生になったばかり。

 

 家族は父と母、そして私の三人家族。そして……私は生まれつき、心臓があまり丈夫ではなかった。

 それでもまだ小学生の頃は、今よりもまだ元気で体育の授業に参加することも出来ていた。

 けれどそれが中学生になると身体も大きくなってきた為か、激しい運動をすると息切れがするようになってきた。


 体育の授業も休みがちになり、中学三年生になる頃には参加出来なくなっていた。そんな私を両親は案じ、一番近い高校へ行くことを薦められた。

 

 その高校は県内屈指の名門高だったけれども、どうしても高校に通いたかった私は必死で勉強を頑張った。


そして、この四月から晴れて高校生活をスタートすることが出来た――。




 いつものように学校へ向けて歩いていると、やがて車の通りが激しい大通りへと出てきた。


 その時、ふと私の目にある光景が目に止まった。


 それは私が通う高校と同じ制服を着た男子学生が、お爺さんを背負っている姿だった。

 その人は高校とは反対側の交差点を向いて立っていて信号待ちをしていた。時折、お爺さんと何か話をしている様子が見える。


「あれ……どうしたのかな……?あの人。高校とは反対方向なのに」


 何故か、その人が気になった私は様子を見ていた。やがて、信号が青になるとその人はお爺さんを背負ったまま交差点を渡っていく。そして交差点を渡り切ると、お爺さんを下ろしてあげる様子が見えた。

 よく見るとお爺さんは右手に杖を持っていて、何度もその人に頭を下げている。


「あ……まさか……」


 その人は一度だけ頭を下げると、まだ信号が青の交差点を走って渡ってきた。

 交差点を渡り切ったその人は、まだこちらを向いていたお爺さんに大きく手を振ると踵を返して歩き始めた。

 

「あの人は足の悪いお爺さんの為に、背負って信号を渡ってあげたのね……」


 なんて……優しい人なのだろう。



 それが、私があの人に出会ったときに最初に抱いた気持ちだった――。

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