⑥
伊逹さんがツキノワグマに襲われた後、僕達はすぐに田沼さんと勝也さんにもこの事を伝えた。
伊逹さんの亡骸は、ツキノワグマ達に貪られ続けている。
「何故、どうして伊達様まで自殺を……」
勝也さんの全身は小刻みに震えている。
すると、白崎部長は全員に聞こえるように大声で言った。
「いや、自殺かどうかはまだ分からない」
皆の視線が白崎部長へと集まる。
「どうしてです?私は見てませんけど、伊達さんは自分の足で外に出たんですよね?だったら自殺じゃないんですか?」
田沼さんの疑問は最もだ。
伊達さんは自分で玄関ドアを開けて外に出た。一見すると自殺に見える。だけど、白崎部長はそれを否定した。
「伊達さんの顔は赤く腫れ上がり、蕁麻疹も出ていた。あれは恐らく『アナフィラキシーショック』によるものだろう」
「アナフィラキシーショックって……アレルギーの?」
「そう。それだよ」
アナフィラキシーショックとは、アレルギーの元となる物質に触れたり、食べたりする事によって起きるアレルギー症状の事で、極めて短時間の内に発症するのが特徴だ。
激しい咳や蕁麻疹だけでなく、人によっては喉の腫れによる呼吸困難や血圧低下による意識障害などを引き起こす場合もある。
「じゃあ、伊達さんが苦しんでいたのは、アレルギーのせいですか?」
「その可能性は高い」
僕の問いに、白崎部長は首を縦に振る。
「勝也さん。伊達さんは何かアレルギーを持ってると言ってませんでしたか?」
「は、はい。言っていました!自分は重度のアレルギーを持っているので、食事には注意して欲しいと、この島に来る前に連絡がありました」
この別荘に着いたばかりの時、伊達さんが食事について何か勝也さんと話していたのを思い出した。勝也さんは伊達さんに『大丈夫ですよ。ご安心ください』と言っていたが、あれはアレルギーの話をしていたのか。
「伊達さんは何のアレルギーを持ってると?」
「『ナッツ』です。伊達様は重度の『ナッツアレルギー』だと言っていました」
「……ナッツか」
白崎部長は顎を撫でる。
「この別荘にナッツを含んだ食べ物はありますか?」
「いいえ、ございません。伊達様がナッツアレルギーだと聞いて、食材には細心の注意を払っておりました。非常食を含め、今この別荘にナッツを含んだ飲食物は一つもありません」
勝也さんはきっぱりと断言する。馬鹿な。だったら伊達さんはどうしてアナフィラキシーショックを発症したんだ?
それに、伊達さんはどうして外に出たりしたんだろう?アナフィラキシーショックを発症して、わざわざ危険な外に出る理由が思い浮かばない。
「錯乱してたんでしょうか?」と田沼さん。
「そんな風には見えませんでしたけど……」
伊達さんは苦しんではいたけど、錯乱しているようには見えなかった。彼女は何か目的があって外に出たような気がする。
「ふむ、取り敢えず彼女の部屋を調べてみよう。何か分かるかもしれない」
「そうですね」
僕は部長に同意する。
「私も手伝います」
黒原さんが再び、手伝いを申し出る。
「さっきも言った通り、手伝いは不要だよ?」
「いいえ、手伝います」
黒原さんはやはり引き下がらない。またしても白崎部長と黒原さんは冷たい目でお互いを見つめ合う。
「あの、部長!」
僕は白崎部長に耳打ちする。
「黒原さんにも手伝ってもらいませんか?」
「……しかしだね」
「彼女は僕が見張っています。このままじゃ調査が進みません。それよりも……」
「分かった。君がそう言うのなら任せよう。しっかり見張っててくれよ?」
「はい」
こうして、白崎部長と黒原さんと僕の三人で伊達さんの部屋を調べる事になった。
勝也さんに鍵を開けてもらい、僕達は伊達さんの部屋に入る。故人の部屋に入るのは気が咎めるけど、事件解決のためには仕方ないと自分に言い聞かせた。
ちなみに、勝也さんと田沼さんにはお酒が回った春日さんを看てもらっている。急性アルコール中毒は危険だ。誰かが看ていた方が良い。
伊達さんの部屋はきちんと整頓してあり、ゴミもほとんど落ちていなかった。几帳面で綺麗好きな性格だったのが良く分かる。
「伊達さん……」
僕は昨日、伊達さんにお礼を言われた時の事を思い出す。
彼女はとても強い人だった。同じ大学の木原准教授と岸辺さんが亡くなったのに、伊達さんは気丈にふるまい続けた。伊達さんが居てくれたからこそ、ツキノワグマについて色々と知れたのだ。
そんな彼女が何故、あんなにも苦しく、痛みに満ちた死に方をしなければならなかったのか。悲しみと怒りが混ざった感情がマグマのように湧き上がる。
「じゃあ、僕はこっちを調べます」
「では、私もそちらを調べます」
部屋を調べながら黒原さんを見張るのは難しいと思っていたけど、黒原さんは常に寄り添うように僕の近くに居たので、見張るのは案外簡単だった。バラバラに調べた方が効率は良いとは思うけど、この方が見張りやすいので黙っておく。
クローゼットを調べていた時、黒原さんは囁くような声で僕に訊いた。
「飯田さんとは親しかったのですか?」
どうして今、伊逹さんではなく飯田先輩の話をするんだろう?不思議に思ったけど、正直に答えた。
「もちろんです。尊敬する先輩でした」
「お付き合いされていたのですか?」
「先輩と僕がですか?いいえ!」
僕は慌てて否定する。
「飯田先輩の事は尊敬していましたけど、恋愛感情はありませんでした。先輩だってそうです。先輩が好きだったのは、僕じゃなくて白崎部長……」
しまった。口がすべった。咄嗟に口を手で押さえたけど、もう遅い。
「飯田さんは白崎さんが好きだったのですか?」
黒原さんの綺麗な目がじっと僕を映す。これは誤魔化せそうにないな。
「……そうです。飯田先輩は白崎部長が好きでした」
後ろをチラリと見ると、白崎部長は窓の周囲を調べていた。僕は声を潜める。
「飯田先輩は、この島に居る間に部長に告白すると言っていました。だから、僕と飯田先輩の間に恋愛感情なんてありません」
「そうですか……」
黒原さんは少し沈黙し、こう言った。
「雨音さんが最後にお会いした時、飯田さんは何と言っていましたか?」
「最後に……ですか?」
「はい、よろしければ」
先輩が最後に口にした言葉はハッキリと覚えている。だけど、その内容を本人の前で言っても良いのだろうか?少し迷ったけど、黒原さんが知りたいと言っているのだから、正直に伝える事にした。
「『私は部長を信じます。あの黒原って子の言葉よりも、部長の言葉が正しいと、私は信じています』そう言ってました」
「ありがとうございます」
黒原さんは特に気分を害した様子もなく、僕に頭を下げた。
「あの、僕も訊いて良いですか?」
「なんでしょう。なんでも訊いてください」
「黒原さんは伊達さんから何かを借りていましたよね?何を借りたんですか?」
山本さんの死体が発見された第一の事件。
事件が発覚した後、僕達は別荘の床に付いた血や飛び散った壺の破片を掃除した。その作業が終わると、黒原さんは伊達さんの部屋を訪ね、彼女から茶色の紙袋を受け取っていた。
黒原さんが伊達さんから借りたという何か。伊達さんが亡くなった今、あの茶色い紙袋の中身がどうしても気になる。
僕が尋ねると、黒原さんは口元を微かに綻ばせた。
「いずれ、お話します」
いずれ……か。
「今では駄目なんですか?」
「はい、いずれお話します。それまで待っていてください」
「……分かりました」
もしかして、誤魔化された?黒原さんは何か隠している?
だけど、これ以上訊いてもきっと答えてはくれないだろう。だから、追及はしない事にした。下手に質問して警戒されても困る。
僕は止めていた手を動かし、伊達さんの部屋の調査を再開した。
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