一章 見鬼眼の役立たず(6)
「あたしは
ピンヒールを勢いよく鳴らして廊下を歩きながら、美女――牡丹さんは振り向きもせずに名乗った。背と袖に月下桜の紋が入った着物は裾にフリルがあしらわれ、しなやかな動きに合わせてひらひらと揺れる。帯代わりに巻かれたコルセットの下からは二股に分かれた尻尾が伸びていた。どうやら、牡丹さんの正体は猫又らしい。
「牡丹さんですね。私は福来てまりと……」
「あんたの名前なんてどうでもいいから黙ってついてきて」
「は、はいっ」
外見も振る舞いもモデル並みに綺麗だけど、正直ちょっと怖い。いや、だいぶ怖い。
こんな華やかな美女に車内でいきなり掴みかかられた時は死ぬかと思った。くーちゃんの「騒ぐな、駄犬がじゃれついてきただけだ」の一言でなんとか収まったけど、空気は最悪だ。頼みの綱のくーちゃんは「あとは頼む」と牡丹さんに言い残してさっさといなくなってしまった。
「あ、あの……」
どこへ向かっているのか聞こうとした時、牡丹さんがぴたりと足を止めた。廊下の一番端にあるドアを開けてさっと入っていく。
「何してんの、早く入って」
ためらっていると尖った声が飛んできた。慌てて部屋に入る。
「ここがあんたの部屋。物置代わりに使ってた一番狭い部屋だけど、文句ないわよね?」
「私の部屋……!」
中にはベッドと机があり、窓からは中庭が見えた。こぢんまりとして居心地が良さそうだ。
「文句なんてとんでもない! すごく素敵ですね」
「今まで犬小屋にでも住んでたの? ……まあいいわ。どうせそう長くはいないだろうし」
独り言のように小さく呟かれた言葉が聞き取れなくて、私は振り向いた。
「えっ? すみません、今なんて……」
私の言葉を叩き切るように勢いよくドアを閉めた牡丹さんが振り返った。ぎらりと飛んでくる視線はどう見ても非友好的な雰囲気に満ちている。
私は思わずごくりと喉を鳴らした。なんだか、猫に追い詰められた鼠になった気分だ。
「あ、あの……くーちゃんはどこに」
「九曜様はもう神社に戻られたわ」
牡丹さんはドスの利いた声で言った。
「祭神である九曜様にとって、ご自身のお社から離れるのはひどく霊力を消耗されるの。ご神木で造られた面で常に霊力を補給なさっているけれどかなりお苦しいはずよ」
「えっ、そうなんですか」
確かに、昔遊んでいた時にもくーちゃんが鳥居の外に出ることはなかった。
「ということは、あのお面は酸素ボンベみたいなものってこと……? お面をつけてたら海にも潜れたりするのかな」
「はあ?」
つい思いついたことを呟いてしまって、牡丹さんが眉を吊り上げた。
「す、すみません。なんでもないです」
またやってしまった。今までこの独り言の癖で何度も失敗してきたのだから、今度こそしっかり気をつけないと……特に牡丹さんの前では危なそうだ。
そう肝に銘じながら首を振ると、牡丹さんは舌打ちして腕を組んだ。
「だから月下楼のことは基本的にあたしに任されてる。当然、あんたの世話もね」
「そうなんですね。じゃあ、牡丹さんが私の上司ってことですか。よろしくお願いします!」
「よろしくお願いされたくなんかないわよ、あんたなんかに」
思いっきり非友好的な空気を発しながら、牡丹さんが私をねめつけた。
「ベタベタ九曜様に抱き着くなんて正気? 九曜様は神様なのよ。あんたみたいな間抜け面のモブ女、本来なら近くに寄ることすらおこがましいんだからね」
「す、すみません。久しぶりにくーちゃんに会ったのでつい……」
牡丹さんの拳がドアを思いきり殴りつけた。派手な音が鳴り響く。
「ひええっ!」
「ここでやっていくなら、絶対に守らなきゃいけない条件が三つある。しっかりそのポンコツ頭に叩き込みなさい」
目の前に赤く長い爪の指が三つ立てられた。
「まずひとつ。金輪際、九曜様をふざけたあだ名で呼ばないこと」
「ふざけたあだ名って、くーちゃん――」
再びドアがぶん殴られ、私の言葉を叩き切った。
「九曜様は神様だって言ってるでしょ、頭にスポンジでも詰まってんの 九曜様、く・よ・う・さ・ま!」
「は、はい! 九曜様です!」
高速で頷くと、指の数が二本に減った。
「ふたつ。これが一番重要――あんたが人間だってことは、ここでは黙っていること」
「……えっ?」
「当たり前でしょ? 月下楼のお客様はみんな人に化けたあやかしなの。人間が混じってるなんて知られたら、誰も寄りつかなくなる。従業員だって同僚に人間がいるなんて分かったら怯えて仕事どころじゃない」
あやかしは自分の正体を見破られることを何よりも恐れている。
それはつまり――人間が得体のしれないものとしてあやかしを忌避するよりずっと強く、あやかしこそが人間を恐れているということだ。
「私は……人間だけど、あやかしと仲良くしたいんだけどな」
「馬鹿じゃないの。月下楼を無茶苦茶にする気?」
ばっさりと切り捨てられて、心がずんと重くなる。
「あんたが人間だって知ってるのはあたしと九曜様だけ。他の従業員に正体を聞かれた時は適当にごまかして」
「て、適当にって」
「なんとでも言えばいいのよ、相手が人間かあやかしか、なんて普通は分からないんだから」
牡丹さんの話が少し意外で、私は目をぱちくりさせた。
「そうなんですか? あやかし同士はてっきりお互いが分かるのかと……」
「目の前の相手が人間かあやかしか分かるなら月下楼は必要ないでしょ。とにかく、これは九曜様から特にきつく言われていることなの!」
牡丹さんは念を押すように区切りながら、はっきりと言った。
「月下楼で働くなら、あんたが人間だってことは誰にも知られちゃいけない。もし正体がバレたら即刻クビ」
「くっ、クビ」
忌まわしい単語に心臓が縮み上がった。もう二度と聞きたくない言葉ナンバーワンだ。
「は、はい、分かりました! 絶対守ります……!」
私が必死に頷いた時、控えめにドアがノックされた。
「牡丹さん、新人さんの荷物持ってきました!」
「ちょうど良かった。あとは松葉から聞いて。じゃ」
ドアに手をかけた牡丹さんに、私は慌てて声をかけた。
「あ、ちょっと……牡丹さん、最後のひとつがまだですけど」
牡丹さんは私を振り返ると、音もなく一気に距離を詰めた。
「三つ。あたしに声をかけるのは必要最低限にして、近づかないで」
息がかかるほど近くで囁かれ、思わず息を呑む。琥珀色の瞳ははっきりと私を拒絶していた。
「あたしはね、人間が嫌いなの。あんたみたいなどんくさそうで甘ったれでヘラヘラしてるタチの悪い人間は特に嫌い。九曜様の紹介じゃなければ一歩だって入れたくない」
「た、タチが悪いって……」
「人間のくせにあやかしの正体が見破れるなんて、タチが悪い以外の何? あんたみたいな人間の女――あたしが一番嫌いなタイプなの」
『一番』の部分に力を込めて言うと、牡丹さんはサッと身体を離した。
「今の三つをよく覚えておいて。分かったら、キリキリ働きなさい」
そう言い放つと尻尾を揺らしてさっさと出ていく。
「一番嫌い……」
私は呆然とその後ろ姿を見送り、ベッドに腰を落とした。
遠巻きにされるのは慣れているが、あれだけの敵意を向けられるのは初めてだ。
「人間嫌いにしても嫌いすぎでは……私、知らないうちに何かしちゃったのかな……」
「――あの、大丈夫ですか?」
頭を抱えていると、ドアからひょこっと顔が覗いた。
「荷物持ってきました。あと、牡丹さんから業務説明もしておけって言われて」
「わわっ、すみません!」
段ボールを持って立っていたのは、くるくるとした垂れ目の若いと男のひとだった。たすき掛けをした茶色の袴姿で、市松模様の着物の袖と背中には牡丹さんと同じく月に桜の紋がある。ぴょんと除く丸い耳とふさふさした縞の尻尾から察するに、どう考えても正体は狸だ。
「私は福来てまりです。あの……これからよろしくお願いします」
「てまりさん、いい名前ですね! 俺は
びくびくしていたけれど、返ってきたのは牡丹さんと正反対の親しみのこもった挨拶だった。
「荷物はここに置きますね。足りないものがあったら言ってください」
松葉さんはどうやら見たまま良いひとのようだ。優しい話し方と人懐っこい笑みに、気持ちがほっとほぐれるのを感じる。
「ありがとうございます、お手間をかけちゃって」
「いえ、全然! 俺、月下楼の雑用係なんで」
にっこり笑った松葉さんは、少し首を傾げて私を見つめた。
「それより、大丈夫でしたか? 牡丹さんに何か言われたんじゃないですか」
「えっ」
ぎくりとすると、松葉さんは困ったように眉を下げた。
「九曜様がわざわざご自身で迎えに出向くなんてって、朝からずっとピリピリしてたんですよ。牡丹さん、九曜様のことがちょっと尋常じゃないくらい好きだから」
「それは……すごく伝わってきました」
「牡丹さんは仕事もできるし面倒見もいいし、すごく頼りになるんですよ! ただちょっと九曜様関連になるとリミッターがぶっ飛ぶ感じで」
つまり、人間嫌い&くーちゃんラブの相乗効果で牡丹さんの私への印象が最悪なものになっていたらしい。理由は分かったけれど、頭が痛いことに変わりはなかった。
「うう、これからの仕事が不安になってきた……」
「あ、仕事についてですけど、てまりさんはしばらく俺とペアを組んでもらうことになります」
「ペア……ですか?」
私が瞬くと、松葉さんは頷いてまたにっこり笑った。
「最初は雑用しながら、色々覚えていってください。人手が足りなくてすごく忙しいんですけど……一緒に頑張りましょう! 分からないことはなんでも聞いてくださいね!」
「は、はい! これからよろしくお願いします!」
私は救われた気分になりながら頭を下げた。
元気で人懐っこい笑顔、ついでにふわふわ揺れる尻尾の全てに癒やされる。
良かった、松葉さんとなら何とかうまくやっていけそうだ。
「ところで俺は狸なんですけど、てまりさんはなんのあやかしなんですか?」
「うえっ」
安心したところに軽いノリで質問がきて、思わず変な声が出た。
正体を聞かれたら適当にごまかせと言われたけど、こんなにすぐ聞かれるとは思わなかった。
「わ、私はその……ええと……」
まずい、なんて言えばいいんだろう。適当なあやかしになりすませばいいんだろうか?
しどろもどろな私を見つめていた松葉さんが、ふいにパッと顔を輝かせた。
「あ! 俺、てまりさんの正体分かりましたよ!」
「ええっ」
私の脳裏を牡丹さんの険しいまなざしがよぎった。
どうしよう、他のスタッフに人間だとバレたら即クビって――。
「てまりさんは『犬』ですよね!」
「い、犬?」
思わずぽかんとすると、松葉さんは得意そうに笑った。
「九曜様がてまりさんのこと『昔飼っていたペットだ』って言ってたんです。それで、てまりさんを見てピンときました!」
「……そ、そうです! 犬です! 間違いありません!」
ここは乗っておくのが無難だろう。私は覚悟を決めて大きく頷いた。
「やっぱり! 犬に間違いないって思ってましたよ。一目で分かりました」
「ですよねー……」
私はそんなに犬っぽいのだろうか。複雑な気分だ。
「でもそれなら、てまりさんは俺のこと苦手かな。ほら、犬と狸って仲悪いから」
「いえ全くそんなことないです、ふさふさ尻尾大好きです」
松葉さんは慌てたように自分の背後をまさぐった。
「やべ、見えてますか? 俺、人に化けるの苦手なんです。どうしても人間の姿が怖くって」
「えっ……」
「俺の住んでた山が道路になっちゃった時、人間に見つかったんです。奇妙な化け物がいるって散々追い掛け回されて……家族ともそれっきりバラバラになっちゃって」
さらりと語られた松葉さんの過去に、私は言葉を失った。
「危うく殺されかけたところを九曜様に助けてもらったんです。で、人間に正体がバレることを気にしなくてもいいところに連れていってやるって言われて、ここに来ました」
松葉さんはにっこり私に笑いかけた。
「だからてまりさんも、もうビクビクしなくてもいいんです。ここに人間はいませんから」
どうやら、私がおどおどしていることを松葉さんは『人間に怯える癖が残っている』と勘違いしたらしい。心から私を励まそうとしてくれていることが伝わってきて、後ろめたさに胸の奥が重く沈んだ。
「あ……ありがとうございます、松葉さん」
なんとか微笑むと、松葉さんはまっすぐに私を見つめた。
「月下楼に来て、俺はひとりぼっちじゃなくなったんです。それだけじゃなくて、俺みたいにひとりぼっちで生きてるあやかしの縁を繋いで、幸せになる手伝いができる。俺、そのことがすごく嬉しいんですよ」
――目の前がパッと開けた気がした。
思えばいつも、もどかしく感じていた。私の眼に映るあやかしたちはみんな不安で怯えているのに、私ができることはたかがしれている。無理に何かしてあげようとしたら返って傷つけることになってしまっていた。
だけど、月下楼でなら彼らにしてあげられることがある。
「あやかしが幸せになるお手伝い……それ、ずっと私がやりたかったことです」
口に出して気が付いた。
私はずっと、あやかしを幸せにしてあげたかったんだ。
――ああもう、分かった。……僕が一緒にいてやる。
昔、くーちゃんが頭を撫でてくれた時の気持ちが蘇る。優しい感触と甘い匂いにほっとして、嬉しくて、胸が温かいものでいっぱいになった。
あの温かな気持ちを、不安を抱えるたくさんのあやかしにも味わってもらいたい。
「松葉さん…‥! 私、頑張ります! お客さんたちをみんな、私たちが幸せにしましょう!」
「てまりさん……もちろんです!」
松葉さんは顔を輝かせて、力強く手を差し出してきた。
「人間だらけの世の中でだって、俺たちも幸せになっていいんです。一緒に頑張りましょうね!」
今までのアルバイトみたいに生活のために働くのではなくて、月下楼では本当に私がやりたかったことができるのかもしれない。
だけど、そのためには絶対に人間だとバレるわけにはいかない。
そう改めて心に刻みながら、私は松葉さんの手をしっかりと握り返した。
(※試し読みはここまでです)
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