後日譚 恋人たちの夜

後日譚 恋人たちの夜

(※こちらの短編は『妖しきご縁がありますように』本編をお読みいただくと、より一層楽しめる後日譚となっております)



「てまりさん、よう様を見なかった?」

「えっ?」

 酔いでおぼつかない足取りで自分の部屋に向かっていた私は、びっくりして振り向いた。声をかけてきたのはさっきまで一緒に食堂で騒いでいた同僚のまつさんだ。

「くーちゃん、帰ってきてるの? まだ神社の方が忙しいんじゃ……」

 あやかし専門の総合結婚相談所である『げっろう』。その主である天狐のくーちゃんこと九曜様は、ここ三か月ほど姿を見せていなかった。何でも、祭神を務めている神社の方で年に一度のお祭りがあるとのことで準備にかかりきりになってしまっているそうだ。間の悪いことにそんな時に限って結婚式の依頼が立て続けに入り、牡丹さんのテキパキとした指示のもとで月下楼のスタッフ総出でてんてこまいになっていた。

 今日は依頼のあった最後の結婚式が無事に終わって、全員がへとへとになりながらも食堂でささやかな打ち上げをしていた。食堂のおばちゃん秘蔵のまたたび酒のおかげで打ち上げは盛り上がっていたが、私は疲れのせいか思ったよりお酒が回ってきて途中で抜けてきたのだ。

「それがさ、向こうのお祭りは今日で終わったそうなんだよ! だったら九曜様はもしかしたらもう戻られてるかも! って誰かが言い出して、今、みんなで月下楼の中を探してるところ」

「そんなことになってたんだ……」

 確かに、言われてみるとざわざわしているのが聞こえてくる。ここに勤めるスタッフはみんな、くーちゃんのことが大好きなのだ。

 くーちゃんが帰ってきているかもと思うと、私も眠気が吹き飛んでそわそわしてきた。

「私も一緒に探すよ! ちょっと顔を洗って来るから……」

「――探さなくていいから」

 割り込んできた鋭い声に、私と松葉さんの背筋が反射的にピンと伸びた。

 通路の真ん中に月下楼の総合マネージャ―・たんさんが仁王立ちしている。いつ見ても隙のない美女なのに、今は綺麗な顔がほんのり桜色に染まっていて、思わず見とれてしまう。琥珀色の瞳がきりりと吊り上がっているのは、猫又ならではの特徴だ。決してこっちを睨んでいるわけでは、ない、はず。

「牡丹さん! くーちゃん……じゃなくて九曜様が帰ってきてるかもしれないんですか?」

 つい「くーちゃん」呼びしてしまって慌てて言い直す。牡丹さんの眼光が更に鋭くなったけれど、いつもみたいに「九曜様をそんなふざけたあだ名で呼ぶな」と怒鳴られはしなかった。ギリギリ見逃してもらえたらしい。

「あたしは神社のお祭りは今日で終わった、と言っただけで、九曜様がこちらにお戻りになられてるなんて一言も言ってない。それなのにみんな盛り上がっちゃって」

 牡丹さんはため息をついてピンクの髪をかき上げた。二股の尻尾がぴしぴしと床を叩く。

「だいたい、仮に九曜様がお戻りになられてたとしてもお疲れに決まってるじゃない。今夜はそっとしておくべきでしょう」

「確かに……言われてみたらそうですよね」

 ぎろりと睨まれ、松葉さんが気まずそうに頬をかいた。

「食堂を派手に荒らしといてそのままだし。食堂のおばちゃんが一人で片付けてるのよ」

「あ、じゃあ私も手伝います!」

 慌てて食堂へ向かおうとすると、牡丹さんが更に怖い顔になって行く手を遮った。

「馬鹿ね。あんたみたいな酔っ払いに手を出されたらかえって邪魔だってわからないわけ?」

「でも、私も食べたり飲んだりしましたから……」

「口答えしないで、黙って部屋に戻って大人しくしてなさい」

 これは要するに「無理しないで休んでていいよ」という意味だ。月下楼に入ったばかりの頃は言葉の刺々しさで分からなかった牡丹さんの優しさを、今ではちゃんと分かるようになっていることについ頬が緩んでしまう。

「何ニヤニヤしてんのよ、松葉。あんたはとっとと片付けに行って」

「あ、はいっ! 俺に任せてゆっくり休んでくださいね、てまりさん」

 どうやら私と同じく笑いをこらえていたらしい松葉さんは、ぴょんと飛び上がると食堂へ元気に駆け出して行った。

「あたしは大騒ぎしてるみんなを止めてくるから、あんたはしっかり酒を抜きなさい。ちゃんと水を飲んで寝るのよ、いいわね」

「は、はいっ!」

「明日は九曜様も戻られるだろうし、二日酔いのむくみ顔で現れたら承知しないわよ」

「はい! 気を付けます」

「ま、九曜様はあんたに会えるならどんな顔でも良いだろうけどね」

「うぶっ」

 瞬いた私にニヤリと笑むと、牡丹さんは踵を返した。

「どうしてもって言うなら、明日のメイクは手伝ってあげる。じゃね、おやすみ」

「は……はい、お願いしますっ!」

 私はくすぐったいような気持ちになりながら、優雅に去っていく牡丹さんを見送った。

 当然というべきか、私とくーちゃんの関係が変化したことは牡丹さんに即バレだった。くーちゃん命! の牡丹さんのことだから「よりによってあんたみたいなポンコツが九曜様となんて許さない」系のとんでもない修羅場になるのを覚悟したけれど、全くそんなことはなかった。曰く「あたしは確かに九曜様に全てを捧げてるけど、パートナーになりたいわけじゃないもの」ということらしい。

「九曜様はね、完璧なの。いつも冷静沈着で思慮深くて決断力と行動力に富んでて、それでいて細部にも気配り心遣いを忘れない。そんな九曜様の御伴侶は同じくらい完璧な方でないといけないんだから、とてもじゃないけど務まらないわ」

「えっ、それは私も無理ですけど……!」

「そんなこと分かってるわよ。逆よ、逆。あんたみたいなポンコツの面倒をみられるのは、九曜様みたいな完璧な方でないといけないんだなって納得しちゃったの」

「な、なるほど……?」

「考えてみれば、あれだけ完璧な方なんだからどこか欠けているところがあってもおかしくないわ。美的感覚の一点が致命的に破壊されているなんて、むしろ親しみやすさを感じるし」

 どことなく納得がいかない結論に達した牡丹さんは、それ以来時々アドバイスしてくれたり、話を聞いてくれたりするようになった。私の人生でまさか恋バナをすることがあるなんて思いもよらなかったけど、そういう話をしてる時の牡丹さんはいつもより柔らかくて饒舌で、ちょと突っ込んだ話もしてくれて、なんだかぐっと仲良くなれている気がする。

「……そうねえ。タイプ……うーん。手はかかるけど、言うことを何でも素直に聞いてついてくるような感じかしら」

 話の流れで牡丹さんの好きなタイプの話題になった時も、意外なほどすんなり教えてくれた。

「そうなんですね! てっきり、牡丹さんと同じくらいしっかりしてる人が好みなのかと」

「あたしが従うより、従わせる方が良いに決まってるでしょ?」

 言われてみると、すごく牡丹さんらしい。

「ま、面倒見なきゃいけないのは手間だけどね。それも可愛いじゃない」

 そう言った牡丹さんの微笑みは意味ありげで、もしかして特定の誰かがいるのでは? と思ったけれどさすがにそこまでは聞けなかった。それ以来、ずっと気になっている。

「うーん、誰だろ。手はかかるけど牡丹さんの言うことを聞いてついていきそうなひと……」

 ぼんやり考えながら部屋のドアを開けたとき、ふと条件に合うひとがひとりいることに思い当った。

「あっ、もしかして松葉さん……!」

 そうだ、何で気づかなかったんだろう。松葉さんは牡丹さんの機嫌が最悪な時でもニコニコ笑顔でいなしてるし、いつも元気に牡丹さんの言うことを聞いて素早く動いている。

 いったん気づいてみたら、これ以上ぴったりなひとはいない。何だか自分のことみたいにうきうきしてきた。

「そっか、松葉さんかあ……良いかも!」

「――何が良いって?」

「何がって、松葉さんは優しくてよく気が付くし、いつも一生懸命だし、顔だって可愛い系だけどイケメンだし」

「なるほど、良いところだらけだ」

「だよね! 松葉さんと恋人になったら大事にしてくれそう――……ん?」

 言葉の途中で私は固まった。ぎぎぎ、と首だけを声の方へ向ける。

 見慣れた自分の部屋。そのベッドの上には、のんびりと寛いでいるくーちゃんがいた。

「ずいぶん遅かったな」

「くっ……!?」

 驚きのあまり声が出ない。ぱくぱくと口を開け閉めしていると、狐面の下で唇が薄い笑みを浮かべた。

「百面相してないでこちらに来い」

 ちょいちょいと手招かれ、頭が真っ白になったままふらふらと近づく。ベッドのそばでハッと我に返った時、すかさずくーちゃんが私を引き寄せた。

「わひゃっ……!?」

 あっという間もなく、私は後ろから抱きかかえられるような姿勢でくーちゃんの膝の間に座らせられていた。背後から甘やかな匂いが鼻をくすぐる。

「……くーちゃん? ほ、本物?」

「お前の主人が分からないのか?」

 耳元で囁かれる澄んだ声音は、確かにくーちゃんだ。どうやら幻じゃないらしい、ということはやっと理解できたけど、頭の中はまだ驚きでぐちゃぐちゃのままだ。

「あの、えっと……神社のお祭りは」

「つつがなく終えた。戻った時、食堂に集まっているのは分かったから顔を出そうかとも思ったが……酷く疲れていたから、とにかく休みたくてな」

 牡丹さんの言う通りだ。今頃牡丹さんに叱られているであろうみんなには悪いけど、今夜はくーちゃんをゆっくり休ませてあげた方が良さそうだった。

「しばらくここで寝ていたんだが、まだ調子が戻らない。お前の霊力を分けてもらえると助かるのだが」

「うん、それはもちろん……手! 手からならいくらでも!」

 頷きかけて、慌てて付け加える。くつくつと忍び笑いがして、後ろから伸びた大きな手が私の手を覆い、するりと指が絡められた。

「温かいな」

「お酒を飲んだからかも。思ったより回っちゃって……」

 手を繋いでじっとしているうちに驚きが少しずつおさまってきて、代わりに確かな実感がじわじわとこみあげてきた。

 くーちゃんが戻って来て、傍にいてくれている。

「元気にしていたか? また間抜けな失敗で牡丹に絞られて泣いていたんじゃないだろうな」

「うっ、それは……そういうこともあったけど、泣きはしなかったよ! 牡丹さんとも結構、仲良くなってきたし」

「それは何よりだ。――ところで」

 ふわふわしていると、いきなり背後の声のトーンが低くなった。私の手を握る手にぐっと力がこめられる。

「くーちゃん? どうしたの」

「僕が居らぬ間に、お前は松葉に心変わりしたのか?」

「――へっ?」

 あまりにも予想外なことを言われて、一瞬言葉の意味が分からなかった。

 オマエハマツバニココロガワリ……松葉に、心変わり?

「さっき言っていただろう。松葉は良いところだらけで大事にしてくれそう、と。お前がそのつもりなら――」

「……あ! 違う、違うよ!」

 ハッと我に返ると、私は慌てて首をブンブン横に振った。

 独り言のせいでとんでもない誤解をされている!

「あれは私のことじゃなくて、牡丹さんのことで」

「何故ここで牡丹が出てくる」

 さっきまでの甘やかな空気は吹き飛んで、ほぼ尋問に近い圧がひしひしと押し寄せて来る。

「だ、だから……牡丹さんの好みのタイプは手はかかるけど言うこと素直に聞いてついてく感じって言ってて、それ松葉さんにぴったりだなって気づいて、だからとにかく、誤解なの!」

「……ほう?」

 一気にまくしたてたけど何とか意味が通じたらしい。張り詰めた空気が和らいで、私はほっと身体の力を抜いた。神様のプレッシャー、重すぎる。

「牡丹とそんな話をしているのか。本当にずいぶん仲良くなったんだな」

「う、うん。……あの、今の話は、内緒ね」

 慌てていたとはいえ、牡丹さんのタイプの話をくーちゃんにしちゃったとバレたらどうなるか恐ろしい。体をよじって狐面を見上げると、面の奥で金色の瞳が細まった。

「僕が不在の間も、楽しく過ごせていたようだな」

「それはもちろん! 月下楼のみんなは優しいし、みんな一緒に暮らしてるから大家族って感じで毎日賑やかだったよ。だけど」

 ――だけど、そこにくーちゃんがいたらもっと良かった。

 そう言いかけて、慌てて口をつぐむ。

 くーちゃんは神社の神様であっちでも必要とされているし、神社と繋がっていないと霊力が尽きてしまう。ずっと月下楼に居て欲しいというのは、私の我がままだ。それは分かっているのに、くーちゃんを前にすると心が緩んで余計なことを言いそうになってしまう。

「てまり」

 言葉を飲み込んでいると、伸びてきた手が私の顎を持ち上げた。じっと眼を覗き込まれる。

「いいから、飲み込まず言ってみろ。聞かせてくれ」

 柔らかな声にはどこか甘さが混じっていて、せっかく閉じた口があっけなく開いてしまう。

「……くーちゃんが居たらいいのにって、思ってたよ」

「うん」

「みんなと居ると楽しくて、その分、くーちゃんも一緒に笑ってたらなあって何度も思って」

「うん」

 顎に添えられた手が滑って、頬を包む。大きな手が温かくて、欠けていたところに何かがぴたりとはまったように満ち足りた思いが温かく身体を満たしていくのが分かった。

「寂しかったよ、くーちゃん」

 ほう、と息を吐いてくーちゃんの胸に身を預けると、すごく安心する。

「僕も同じだ。お前に会いたくてたまらなかった」

「ホント?」

 頬を撫でていた手が私の身体を柔らかく抱きしめた。

「嘘なら、祭りが終わってすぐここへすっ飛んでくるものか」

 ちょっと拗ねたような口調が珍しくて、なんだか笑ってしまう。

「えへへ。くーちゃん、おかえりなさい」

「ああ、ただいま。……まったく」

 頷いたくーちゃんはため息を漏らした。

「こんなに忙しいと先に知っていたら、神になっていたかどうか分からないな」

「えっ?」

 苦い響きを帯びて呟かれた言葉に、私は少し驚いてくーちゃんを見上げた。

「考えたって……くーちゃんって、産まれた時からあの神社の神様ってわけじゃないんだね」

 狐面の奥で金色の瞳が一瞬、揺れた気がした。

「……ああ。僕は先代からあの社を受け継いだ」

「そうだったんだ! 先代ってくーちゃんのお父さんだったりするの?」

「いや。先代は僕と同じ天狐だが、とくに縁はない。……よんどころない事情で神を退くことになって、空になった祭神の座を僕が埋めた」

「よ、よんどころない事情……?」

 神様を辞めなければならないなんて、いったい何があったんだろうか。

「よく分からないけど、神様にもいろいろあるんだね……あ、もしかして出会ったころってまだ神様になったばかりだったんじゃない? くーちゃん、私と同じくらいの子どもだったし」

「まあ……概ねそんなところだ」

「やっぱり! くーちゃんは新米神様だったんだね」

 何だかすごく嬉しくなって、私はくすくす笑った。触れたところから伝わってくるくーちゃんの体温がほんのり温かい。

「……お前は本当に疑うということを知らないな。ここまで来ると空恐ろしくなる」

 呆れたように呟くと、くーちゃんは息を吐いた。狐面の奥で金色の瞳が真剣な色を帯びる。

「いいか、てまり。ここにいる以上、そうそう危険な目には遭わないと思うが――それでも、お前はもう少し危機感を持て」

「き、危機感……?」

「ああ。『月下楼には見鬼眼の人間がいる』という情報は徐々に広まりつつある。その噂を聞きつけて、どんなあやかしがお前を狙ってくるか分からないからな」

「へっ……私を狙う?」

 あまりに考えもしなかったことを言われて、私は面食らって瞬いた。

「な、何で? あ、『あやかしの正体を見破るなんて危険な奴だ』って感じで?」

「それもあるかもしれないが、それよりは極上の獲物としてだな。見鬼眼を食らうと莫大な霊力が手に入る」

「く……食らう!?」

 いきなり飛び出した物騒な単語に、思わず声がひっくり返る。

「ああ。ある程度力を持ったあやかしにとって、お前は極上の霊力が詰まった餌袋だ。もし捕まったら、血の一滴や骨のひとかけらさえ余さず食らわれるだろうな」

「餌袋って! ひええ……」

 青ざめていると、金色の瞳がふっと柔らかくなった。

「まあ、僕がいる限りお前に手出しなどさせるつもりはないがな。だが、最低限の危機感だけは持っておけ」

「は、はいっ」

 ぽんぽんと頭を叩かれると、なんだかくすぐったいような甘やかな気持ちが広がった。

 くーちゃんがいてくれて本当に良かった。

 神様というものがどんな風に決まるのかは分からないけど、きっとくーちゃんは周りから是非にと推されて今の位についたに違いない。もしかしたら、別の神社からも誘いがあったかもしれない。そう考えると、今こうしていることはほとんど奇跡みたいな気がしてくる。

「もしくーちゃんが怖いあやかしだったら、今頃私は食べられてたのかな。くーちゃんが神社の神様で、本当に良かったなあ」

 ふとそう呟くと、頭を撫でていたくーちゃんの手がぴたりと止まった。

「……そうだな。あの時、もし……」

 小さく呟いたくーちゃんは、つと手を上げた。狐面に手をかけると、さっと取り払ってしまう。至近距離で人間離れした綺麗な顔があらわになって、心臓が飛び跳ねた。

「くーちゃん? お面、外しちゃって大丈夫?」

「今はお前がいるから問題ない」

 霊力の供給源である狐面を枕元に置くと、くーちゃんは私の顔を覗き込んできた。息がかかるほどの距離で見つめられて思わず身を引きそうになったけど、がっちりと抱え込まれていて動けない。

「なあ、てまり。初めて会ったあの時、もし僕が神でなかったら――お前を騙していたとしたら、どうする?」

「えっ?」

「あの時の僕は神でも何でもない単なるあやかしで、適当な嘘を並べ立てたのかもしれない」

「くーちゃん? いったい何の話を……」

「もしそうだったとしたら……お前は僕に失望するか。……恐ろしいと思うか?」

 言ってることがあまりに無茶苦茶過ぎてからかわれてるのかと思ったけど、くーちゃんの声音は妙に真剣なものだった。わけが分からないながらも見返すと、金色の瞳は何故か少し哀しそうに見えた。

「――もしそうだったとしても、失望とか恐ろしいとか、そんなこと思うわけない」

 どうして哀しそうなのかは分からないけど、何とかしたくて私は大きく首を振った。

「だって、くーちゃんだけだったから……私に優しく声をかけてくれたのは」

 人間からも、あやかしからも遠巻きにされてひとりぼっちだった私に声をかけてくれたのは、狐の耳と尻尾を持った小さな神様だけだつた。

「神様じゃなくても、あの時私の名前を呼んでくれたことは変わらない」

「……そうか」

 金色の瞳が大きく揺れて――ふっ、と柔らかく細められた。

「まあ、今のは全てただの冗談だがな」

「えっ!? あ……そうだったっけ」

 この話は元々「くーちゃんがもし神様なんかじゃなかったら」というありえないもしも話だったんだった。

 急に恥ずかしくなってきて俯くと、伸びてきた手に抱き寄せられた。

「――てまり」

「は、はいっ」

 甘さを増した声音に思わず上ずった返事をすると、くーちゃんはくつくつと笑った。

「名前なんて、僕にとっては大した意味も持たないものだった。あってもなくても同じだったんだが」

「えっ、名前はないと困るんじゃないかな……それに、九曜って良い名前だと思うよ」

「名前の良し悪しは呼ぶ相手による。――お前が呼ぶと、確かに良い名前に聞こえるな」

 す、と耳元に唇が寄せられて、もう一度「てまり」と囁かれる。ぞくりと甘い痺れが身体中に走った。

「く、くーちゃん、それ止めて」

「何故? 呼ばれるのが嬉しいんだろう、てまり」

「う、わわわわっ……」

 名前を呼ばれるたびに甘い蜜を耳から流し込まれているみたいだ。少し残っていたお酒が体温の上昇で回ってきた気がして、くらくらする。

「う、嬉しいんだけど、なんか刺激強すぎというか……!」

「よく分からないな。僕はただお前の名を呼んでいるだけだが――そうだろう、てまり」

「ひゃあっ! お願いします、やめてくださいくーちゃん……!」

「仕方ないな。では、止める代わりに別のことをしてもいいか」

「別のこと?」

 ふに、と唇に指が触れる。

「ここから霊力をもらいたい。構わないか?」

「んぶっ……!」

 ド直球な要求に、顔が爆発しそうに熱くなる。

「れ、れ、霊力ならずーっと手を繋いでるから十分でしょ!?」

「そんなもの口実に決まっている。要はお前に口づけをしたいという意味だが」

「あっさり口実って言いきらないで! そ、それに、そういうことって事前に許可とるものなの!?」

「無許可でやったら怒っただろう。だから今回はきちんと合意を得ようと思ってな」

「ぐぐぐっ……」

 ずるい。何がどうずるいのか分からないけど、とにかくずるい気がする。ちゃんと考えたいのに、頭がぐるぐるして何も考えられない。

「嫌か?」

「い……嫌、ではないけど」

「それなら構わないな」

「や、でも……ちょっと心の」

 準備を、という前に唇が柔らかなものでふさがれた。前回みたいに頭が真っ白になりそうだったけど、かろうじて耐える。二回目ともなると少しは余裕がある、と思っていたけれど――……。

 長い。想像以上に長い。

 唇が角度を変えながら何度も降ってきて、いつ終わるのかタイミングが全く分からない。心臓は痛いくらいにバクバク鳴っていて、閉じた瞼の奥がちかちかと瞬いている。

 もう限界――と半ば意識を手放しかけた時、やっと唇が離れて私は新鮮な空気を吸い込んだ。

「し、死ぬかと思った……」

「口づけで窒息死とは、不器用を極めていっそ器用な死に様だな」

「誰のせいだと……うう」

 すっかり力が抜けた身体をくーちゃんにもたれかけ、弾んだ吐息を整える。元々、酔いで幕が下りていた頭は、酸欠と相まって完全に活動停止に陥ってしまって、何も考えられない。

「お前はもう少し訓練が必要なようだ」

「く……訓練って?」

「口づけをしながら呼吸する方法を覚えなければ、いずれ窒息死してしまうだろう」

 殺す気満々だ。

「そこは、くーちゃんが手加減してくれたらいいのでは……」

「手加減」

 ふむ、と呟くのが聞こえたかと思うと、くるりと世界が反転して柔らかなシーツの感触が背に当たった。一拍遅れて、ベッドに寝かされたのだと気づく。

「それはつまり――僕にも訓練が必要だということか」

「へっ」

 あ、違う。これ寝かされたんじゃない、押し倒されてるんだ。

 私にのしかかったくーちゃんは、金の瞳を楽しそうに揺らめかせている。

「確かにな。僕も手加減を覚えねば、勢い余ってお前を食べてしまいそうになる」

「ひえっ」

 鼻の頭をぺろりと舐められた拍子に鋭い犬歯が見え、私はごくりと喉を鳴らした。

「た、食べちゃうって……やっぱりくーちゃんも私のこと餌袋に見えてるってこと!? 骨持ちも残さず……」

「……あ、いや。そっちの意味の『食べる』じゃない」

 一瞬動きを止めたくーちゃんが、何故か少し慌てたように首を振る。

「へっ? 違うの? じゃあ私、くーちゃんに食べられても死なない?」

「死んだらお前がいなくなってしまうだろうが。そんなこと僕がするはずがない」

 食べ方にもいろいろあるということだろうか。よく分からないなりに私は胸を撫でおろした。

「良かったあ。じゃあ、食べてもいいよ」

「――いいのか?」

「うん、くーちゃんなら……あ、でも、痛くしないでね」

 そう言うと、くーちゃんは顔をしかめた。

「……おい。今、ものすごいことを言ったぞお前」

「ええ?」

「説明は面倒だから省く。――まあいい。それはまた今度な」

 ため息をついたくーちゃんは、もう一度顔を寄せてきた。

「もう一度口づけしてもいいか?」

「だっ、だから何で聞くの?」

「言ったろう。お前を侵食する許可を得たい」

 頭が沸騰しそうにゆだっている。じっと見つめてくる金色の瞳に吸い込まれるような感覚に陥りながら、小さく頷きかけた時――

「てまりさーん! 酔い覚ましの水、持ってきたよ!」

 元気な声と共に勢い良くドアがノックされ、甘い雰囲気を粉砕した。

「大丈夫? 水、ちゃんと飲んだ方が酔いから醒めるの早いよー!」

「……は、はい! ありがとう、松葉さん!」

 慌てて返事したことで、蕩けていた頭が冷水を浴びせられたようにクリアになる。ため息をついたくーちゃんがどいてくれたので内心ほっとしつつ、私は急いでドアに駆け寄った。

「ありがとう、松葉さん……あれ、牡丹さん?」

 ドアを開けたとたん、一歩踏み込んできたのは牡丹さんだった。部屋を見回してくーちゃんの姿を認めると、尻尾がぴんと立つ。後ろから松葉さんが部屋を覗き込んで目を輝かせた。

「あっ、九曜様!? おかえりなさい!」

「……ああ、ただいま」

 狐面をつけ直して立ち上がったくーちゃんに、牡丹さんがニコニコと駆け寄った。

「まああ、九曜様! お帰りをお待ちしておりましたわ! きっと今夜はお戻りになるって分かっておりました」

「長らく留守にして悪かったな」

「とんでもございません、九曜様のためですもの! こちらは万事問題なしです!」

 一気にハイテンションになった牡丹さんの横で、松葉さんもそわそわと嬉しげに尻尾を揺らしている。

「あの、俺、みんなに九曜様がお戻りになったこと伝えてきます! 牡丹さんにこっぴどく叱られて、みんなしょんぼりして食堂でお通夜状態ですから」

「ちょっと、九曜様はお疲れなんだから今夜は静かにするようにキッチリ釘をさすのよ。部屋に押しかけてきたら次はあんなものじゃすまないからね」

「はい、もちろん! あっ、お水はここに置いておくね、てまりさん!」

 松葉さんがうきうきと駆けていく。ひとつ息を吐いた牡丹さんは私をじろりと睨んだ。

「てまり、何その顔。さっきより赤くなってるじゃない、寝ろって言ったのに……まったく世話が焼けるんだから」

「あ、これはお酒のせいじゃなくて……いえ何でもないです、ちゃんと寝ます」

 もごもごと口ごもる私に、牡丹さんは水の入ったコップと錠剤を押し付けた。

「これは食堂のおばちゃんから、酔い覚ましに効くんですって。全部ちゃんと飲むのよ、苦いからって飲むふりしてたら口にねじ込むから」

 ぎろりと鋭い琥珀の瞳は本気だ。

「ち、ちゃんと飲みます……!」

「よし」

 頷いた牡丹さんはがらりと雰囲気を変え、満面の笑みをくーちゃんに向けた。

「ささ、九曜様はこちらへ。ご安心ください、きちんとお部屋でお休みできるように整えておきましたから、騒がしい者どもが押しかけてくる前に行きましょう」

 何か考えこんでいるように私と牡丹さんを眺めていたくーちゃんは、少し間を開けてから「ああ、助かる」と頷いた。牡丹さんがスキップしそうな勢いでそそくさと部屋を出て行く。

「あの、くーちゃん! おやすみなさい、また明日」

 くーちゃんはふっと笑うと、踵を返した。

「ああ。また明日な、てまり」

 部屋で一人になった私は、水と苦い薬を一気に飲んでからベッドに寝転んだ。

 何だか残念なような、助かったとほっとしたような……いや、やっぱりほっとした気持ちの方が大きい。

「うん、しっかり寝よう。それで、明日は牡丹さんにメイクしてもらおうっと」

 何しろ、明日は月下楼にくーちゃんがいるんだから。

 ぽかぽかと幸せな気持ちになりながら、私は目を閉じた。


「手はかかるが、言うことを素直に聞いてついてくる者、か。――松葉より、もっとこの条件にぴったりな者が月下楼にひとりいると思うんだが」

「えっ? 九曜様、何かおっしゃいましたか?」

「……いや、何でも」


(了)

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妖しきご縁がありますように 山吹/IIV編集部 @IIV_twofive

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