第四話「疑心暗鬼の果てに」
1.蛇に呑み込まれた蛙
伊藤が出社してこなくなったのは、三月に入ってすぐのことだった。
元々、ずる休みをすることはあっても、無断欠勤はしたことがないのが伊藤だ。会社側はすぐに伊藤の携帯電話に連絡をしてみたが、不通だった。
伊藤は都内のマンションに一人暮らしをしていた。大手企業に勤めていた頃に買った、中古だが立地条件の良いマンションだ。恐らく、木下には一生買うことが出来ない好物件だろう。
編集長がそのマンションへ直接赴いてみたものの、インターホンに反応はなかった。管理人も伊藤の動向は知らないという。
『何か事件か事故に巻き込まれたのかもしれない』
編集長の判断は早かった。手早く一一〇番通報し、事態は警察の手にゆだねられることになった。
「何事もなければいいんだが……」
編集長はその日の予定を全てキャンセルすると、警察からの連絡を待ってエルゴ・ニュース社の自らのデスクに陣取った。たった数時間で、その顔には疲労の色が色濃く浮かんでいる。
他の社員達は通常業務に当たらせていたが、身辺に気を付けるように通達を出している。一人で出歩かない、危ない場所には近づかない、危険を感じたらすぐに警察へ駆け込む。まるで小中学生向けの防犯の心得のようだったが、状況が状況だけに笑う者はいなかった。
一方、木下は一人、言い知れぬ不安と戦っていた。伊藤が姿を消したことと「氷の華」関連のあれこれが、無関係だとは思えなかったのだ。木下が稚拙な「罠」を仕掛けたことで、何か伊藤の身を危険に晒すような事態に繋がったのかもしれない。どうしても、そんな考えが頭に浮かんでしまう。
既に編集長の目を盗んで、和田刑事には一報を入れてあった。和田は「情報提供、感謝します」とだけ言っていたが、木下にはそれが「もっと早く言ってくれれば」と言っているように聞こえた。
――その数日後、伊藤の水死体が発見された。死後しばらく経っており、その懐には油性ペンで書かれた遺書が、血液からはアルコールの大量摂取の形跡が発見されたという。
彼の死は、新聞の三面記事にも載らずテレビでも報じられず、ただエルゴ・ニュースのWEBサイト上でひっそりと伝えられるのみだった。
***
「伊藤さんのご遺体に不審な点はありませんでした。通常なら、自殺として処理されるところです。ですが、彼はどうやら『氷の華』の関連団体とも通じていたようですので、警察としては他殺の可能性も含めて、継続して捜査していくことになりました。検死担当者も、残留アルコールの多さが気になっているようですしね」
遺体発見から更に数日が経ったある日。和田と田中がエルゴ・ニュース社を訪れていた。今回は木下だけではなく、編集長も同席している。
「まさか伊藤の奴が、『氷の華』と関係してたなんてなぁ。長年近くにいたのに、ちっとも気付かなかったぜ、くそ!」
編集長の顔は苦渋に満ちていた。それはそうだろう。記者時代の仲間と共に「氷の華」を追っていた自分のすぐ近くに、末端とはいえその構成員がいたのだ。しかも、自分の会社の従業員として。
「刑事さん! 伊藤の奴は、何かヤバイヤマにでも首を突っ込んでたんですか?」
「それはまだ分かりません。『氷の華』の構成員と言っても、かなり末端を担っていたようですし。他殺ではなく、ただ単に『氷の華』の手先になっていることに嫌気がさし、自殺したのかもしれませんし」
「……残念ながら、伊藤はそんな殊勝なタマじゃねぇんですわ」
伊藤の遺書は実にシンプルだった。家族や友人、会社への感謝。先立つ不孝をお許しくださいという定型文。そして「人生に疲れてしまった」という一言。ただ、それだけが書かれていた。筆跡は間違いなく本人のものだったという。
どう考えても、伊藤のキャラクターには似つかわしくない。
「なるほど……。『氷の華』関連の事件で末端の構成員が口封じされるケースは非常に少ないのですが、警察としては予断なく捜査してまいりますので。堤下さん、木下さん。どうか軽挙妄動は控えていただくよう、お願いいたします」
「ふんっ! 刑事さん、回りくどい言い方はいらねぇよ。ようは『余計なことすんな』って言いたいんだろ? 分かってるさ。相手が相手だ、大人しくしてるよ。――木下も、分かったな?」
「……はい。しばらくは、取材も自重します」
木下は編集長の厳命に素直に頷いた。否、頷かざるを得なかった。
和田達は、木下が伊藤へ仕掛けた「罠」の件について、何一つ堤下に話してはいない。ただ単に話す必要がないだけかもしれないが、木下にはそれが無言の非難であるように思えた。
***
再び事態が動いたのは、その数日後のことだった。タナ・リサーチ社に警察の強制捜査の手が入ったのだ。木下はその事実を仕事中に知った。
組織ぐるみによる脅迫・強要や違法な調査活動がその理由だった。捜査の模様は大手マスコミでも一部取り上げられたが、「氷の華」の名前は出なかった。
ニュース映像では、沢山の捜査員が段ボール箱に入れた押収物をワゴン車へ運び込む様子が映されていた。木下は和田達の姿を探したが、部署が違うのか、彼らの姿は見付からなかった。
調査員の何人かは警察に身柄を確保されたが、社長の田奈は行方知れずだという。いち早く逃げたのか、それとも既にこの世にいないのか。
木下が最悪の事態を思い浮かべた、その時。彼の携帯電話がブブブッと振動し着信を知らせた。知らない番号からだった。不審に思いつつも、木下は何かに導かれるようにして、通話ボタンを押した。
「……もしもし?」
『もしもし、木下ちゃんか? 俺だよ、田奈だよ』
「お前……今、どこに?」
声を潜め周囲を伺いながら、オフィスから移動する。いつもの会議室が空いていたので素早く滑り込み、ドアを閉める。
『やってくれたね、木下ちゃん。まんまと偽物の情報を掴まされて、俺らはとんだ道化だよ』
いつもの軽薄そうな口調でまくしたてる田奈。だが、その声音にはどこか余裕の色が薄かった。
「俺を恨むのは筋違いだぞ。そもそも、『氷の華』と関わってることを隠して俺達を散々に探ってたのは、そっちが先なんだから――それよりも、だ。田奈、伊藤はお前らが殺したのか?」
『伊藤? ああ、お前の会社の使えねぇオッサンのことか。なんだ、死んだのか。道理で音沙汰がなくなったと思ったよ。ご愁傷様』
田奈は伊藤と繋がりがあったことをあっさりと認めた。悪びれた様子は、当たり前だが全く感じられなかった。
「ふざけるな! 他人の弱みに付け込んでスパイ紛いのことさせといて、利用価値がなくなったら始末する。お前ら本当に人間か」
『だーかーら! 俺は知らねぇよ! あんな、何も知らねぇ下っ端を、リスク侵してまで殺す訳ないっしょ。むしろ俺は、「もうウチに関わんな」って、開放してやったんだぜ?』
あくまでも田奈は知らぬ存ぜぬを貫くようだった。もちろん、それを信じる木下ではなかったが、田奈の言っていることにも一理あった。和田刑事も、伊藤が「氷の華」に始末された可能性は考えにくいようなことを言っていた。何も知らないであろう末端の構成員を、わざわざ始末する理由がないのだ。
『つーか、あんなオッサンのことはどうでもいいんだよ。折角、木下ちゃんにいい話をしてやろうと思ったのにさ。電話切っちゃうよ?』
「お前が俺にいい話なんて持ってきたことがあったか?」
『ひっでぇ! 友達に対してその言い草はねぇだろ~』
「お前と友達だった瞬間なんて一秒もないわ」と言いかけて、口をつぐむ。田奈の狙いがなんなのかは分からないが、話すだけ話してもらった方が得策だろう。
「いいよ、聞くよ。話せよ」
『うわっ、超上から目線だ。木下ちゃんのくせに……ま、いいか。あのな、木下ちゃんももう知ってるかもだけど、「氷の華」の上層部では、幹部クラスの大粛清が始まってるんだよ。何があったかまでは知らんけど、ここ数ヶ月で俺も知ってる幹部が何人も姿を消してるんだ。「氷の華」の支配下にあった組織もいくつか解散しちゃったしな』
――田奈の話は、今までに木下が聞き知った事実と合致する。安田が送ってきた資料に記されていた「氷の華」の関連組織の幾つかは既に姿を消しており、幹部にいたっては命を落としている。
『ついでに言えば、俺の会社ももう駄目だよ。警察に踏み込まれる少し前に、本部から絶縁を宣言されちまった。強制捜査がなくても、早晩ウチは潰れてただろうさ』
例の資料にはタナ・リサーチ社の名前もあった。社長である田奈のあずかり知らぬところで、タナ・リサーチの終焉は運命付けられていた訳だ。
「……お前は大丈夫なのか?」
『俺? 俺はもちろんヤバヤバよ? ボケっとしてたら間違いなく殺されるね。うちの会社だけで秘匿してた情報も、いくつか持ち逃げしてるしね。なので、一生懸命逃げてるナウ!』
電話の向こうの田奈は荒い息を吐いていた。どうやら走っているらしく、足音のような物音も時折だが聞こえてくる。
「逃げるって、どこにだよ。それよりも警察に保護してもらったらどうだ? 殺されるよりマシだろ」
『ノンノンノン! 警察は駄目だよ木下ちゃん。「氷の華」のスパイは警察の中にも沢山いるんだ。自分から地雷原に突っ込むようなモンだよ』
「警察にも連中のメンバーが……?」
『いるいる。俺も全部は知らないけどね。俺が持ち逃げしてる情報にも、警察の「氷の華」関係者リストがあったりするんだね、これが。だから、警察はNG。ま、逃げ切ってみせるさ。その為にしこたま「氷の華」の上前もハネてたからねぇ――って、また話がズレたね。本題本題』
田奈は移動し続けているのか、音声に時折ノイズが乗るようになってきた。どこか屋内や地下へ潜っているのかもしれない。
『木下ちゃんさ、実は俺よりもそっちの方が危ないんだよね』
「……そっち? って、俺の方が危ないって!?」
『そうそう。なんでか知らないけどさ、木下ちゃんしばらく前から「氷の華」のガチ監視対象だったから。あ、金野ちゃんもね。ウチとは別の組織が担当してたから、詳しい理由までは知らないけどね――なんかね、総帥が二人に会いたがってるんだってさ』
「総帥? って、例の田崎ってやつか?」
『おお、よく知ってるね! 俺でさえ名前も知らなかったのに! でさ、心当たり、ある?』
「……いや、心当たりは……ないな」
田崎太郎が自分と金野に会いたがっている。そう言われても、木下には全くピンとこなかった。所詮、自分達は安田から資料を託されただけの、言ってみれば巻き込まれた人間に過ぎない。
木下は「氷の華」関連の取材をしてはいるが、その殆どは安田の資料の裏取りと、編集長から託された取材結果の精査くらいのものだ。取材が理由で狙われるなら、むしろ編集長やその仲間達の方が先だろう。
『ふ~ん? 本当に覚えがないみたいだね。ま、そっちに覚えが無くても「氷の華」は知ったこっちゃないだろうから、気を付けなよ。俺が最後に聞いた話だと、木下ちゃん達、普通に身柄押さえられるかもだし、命の保証も出来ないから、マジ気を付けてね』
「なっ……」
木下は思わず絶句した。今までも怪文書を受け取ったりはしていたが、「氷の華」がまさか自分達の身柄を押さえることまで考えていようとは。一体、自分達にどんな価値があるというのだろうか? 木下には皆目見当が付かなかった。
『っと、ぼちぼち目的地が見えてきたわ。じゃ、俺はドロンさせてもらうから、後は頑張ってくれたまえアケチクン!』
「ま、待て田奈! まだ話が――」
『ああ、あと最後に一つ。金野ちゃんね、あんまり信用しない方がいいよ――』
「……田奈?」
突然、電話がプツリと切れた。すぐに折り返してみても、「この電話は現在、電波の届かないところにおられるか、電源が入っていない為、繋がりません」というアナウンスが流れるばかりで、二度と田奈の電話には繋がらなかった。
***
「――それで、その後、田奈くんから連絡は?」
「ない。和田さん達も田奈の行方は追えてないらしい」
タナ・リサーチ社に強制捜査が入ってから更に数日後。木下の姿は金野のタワーマンションの部屋にあった。遊びに来た訳ではない、匿われているのだ。玄関ドアの向こうでは、制服警官が警備にもあたっている。まるでVIP待遇だが、これには理由があった。
タナ・リサーチ社への強制捜査と前後して、「氷の華」を巡る状況は予断を許さないものとなっていた。警察がマークしていた「氷の華」の幹部もしくはそれに近いと思しき人物が、次々に失踪や不審死を遂げていたのだ。田奈が電話で言っていた通りのことが起こっていた。
更には、「氷の華」の被害者の会に関係する人物の周囲では、度々に渡って不審な車両や人物が見受けられるようになったという。過去に「氷の華」を追っていた弁護士や記者、引退した捜査関係者にまでその手は及んでいるらしい。
和田からその話を聞いた時に、木下が真っ先に心配したのは編集長の堤下と、そして金野だった。堤下は大手新聞社時代の記者仲間と共に「氷の華」を追っていた。金野は独自に「氷の華」について調べていて、しかも安田から例の資料を送られた一人だ。更に、田奈の話を信じるのなら、木下と同様に彼女も身柄確保の対象として「氷の華」にマークされていることになる。
『俺は自分の身は自分で守る。お前は金野双美ちゃんを守ってやれ』
編集長にそう背中を押され、木下は金野に連絡を取った。すると、むしろ金野の方が木下の身を案じていたらしく「うちなら多分安全だから」と、木下に自分の自宅に留まるよう申し出てきたのだ。
木下は僅かな下心も手伝って、ホイホイとその誘いに乗った訳だった。田奈が何やら言っていたが、彼と金野のどちらを信じるかと言われれば、木下にとって選択肢など無いも同然だった。
(――それにしても、わざわざ警官が警備に付くって。金野って実際の所、何者なんだ?)
金野と木下とで、「氷の華」との関わり合いにはそれほど差があるとも思えない。だが、木下に警護を付けてくれるという話など、和田刑事達からは一言も聞いていない。にもかかわらず、何故同じような立場の金野には警護が付くのか。木下はそれが不思議だった。
(不思議と言えば……年頃の娘さんと二人暮らしの家に男を泊めるなんて不用心だと思ったけど、その娘さんは全く顔を見せないな)
木下が金野の家に転がり込んだのが昨晩のこと。既に夕食をごちそうになり、客間に一泊し、今朝も金野手作りの朝食を振舞ってもらったばかりだ。けれども、食卓には金野の姿しかなく、娘の姿は影も形も見えなかった。
「なあ、金野。娘さんと一緒に住んでるんだよな? 挨拶くらい、しておいた方がいいんじゃ」
「ああ……そっか、言ってなかったわね。ちょっと色々あってね、うちの娘、部屋から殆ど出てこないのよ。学校も休んじゃってて」
「えっ。それ、大丈夫なのか? なにか、病気とか……」
「うん、そんなとこ。だから、木下君は気にしないで頂戴。貴方がうちに寝泊まりすることは、きちんと伝えてあるから。どこかでばったり会ったら、挨拶だけしてあげて――まず無いとは思うけど」
金野の話はそれで終わった。どうやら「詮索するな」ということらしい。彼女の木下への信頼度は、自宅に寝泊まりさせてくれる程度には高く、家庭の事情を話せない程度に低いらしい。なんとも微妙な感じだった。
***
金野の家で世話になると言っても、ヒモ男のように暮らすわけではない。木下は日中、リモートで自分の仕事をし、食事は金野と共同で作るといった形に落ち着いた。金野も昼の間は仕事があるのか、自室に籠っていることが多かった。
訪ねてくるのは宅配業者か警察関係者しかなく、そのまま平穏無事な数日が過ぎていった。編集長や彼の昔の記者仲間が襲われたという話もなく、テレビやネットのニュースでも「氷の華」関連の報道はない。木下は段々と「自分達が狙われているなんてのは、取り越し苦労なんじゃ?」と思うようになっていた。
そんな、ある日の晩――。
「……どうにも、落ち着かねぇな」
深夜二時。尿意を覚えた木下は、金野家のトイレを借りていた。高級マンションらしく、シックなデザインと無駄に大きな洗面台を備えたトイレはやけに広い。一度だけ、仕事の関係で高めのホテルに泊まったことがあったが、そこのトイレよりもなお金がかかっていそうだった。
未だに自室のトイレにウォシュレットすらない木下にしてみれば、なんとも慣れないのも無理はない。常に掃除が行き届いてもいるので、乱雑にも扱えない。木下は用を足す度に、汚してしまっていないか目を皿のようにしてチェックする癖が付いてしまっていた。
――きちんと手を拭いてからトイレを出る。マンションにしては広く長い廊下は、常夜灯で淡く照らされている。金野の自宅マンションは、間取り的には4LDKだが面積を広く取ってあるらしく、廊下も部屋も広さに余裕があった。間違いなくブルジョア物件だろう。
玄関から入ってすぐ右手には大きなLDKが、左手には寝室やバスルームが連なっている。トイレは玄関ホールの脇にある。最も奥にある広い寝室は、金野の自室。その隣のやや小さな寝室は娘の部屋らしい。木下が寝泊まりさせてもらっている寝室は、娘の部屋から一つ飛んだ、最も玄関寄りのものだ。「一番小さい部屋でごめんなさい」等と金野は言っていたが、下手をすると木下の自宅アパートよりも広い。
(どうしたらこんな暮らしが出来るんだろうな)
深夜のテンション故か、普段は抱くことのない金野への妬みが頭をもたげてくる。大学を出てからの二十年近く、木下だってガムシャラに働いてきた。だが、どう計算してもこんなマンションに住める程の収入は得ていない。
新卒の時の就職活動で躓かなければ――そんな考えも浮かぶが、たとえ就職活動に成功していたとしても、難しかっただろう。高給取りで知られる広告代理店や商社であっても、年収一千万を超えられるのは一部の超大手のみだ。その彼らにしてみても、億ションをポンと買うことなど出来ないだろう。
給料だけではとても足りない。投資や副業、それこそ会社勤めをしながら同時に起業するくらいのフロンティア精神がなければ駄目だ。しかも、そんなフロンティア精神を持った人間が全員成功する訳でもない。起業や投資に失敗し地獄に落ちた人間を、木下だって何人も知っている。
それこそ、「氷の華」の犠牲者の一部は、失敗し落ちぶれて、何かに縋ることでしか生きられなくなってしまった敗北者達ではなかったか――。
「アホか。深夜の他人の家で、何を考えてるんだ、俺は」
慣れない環境で数日過ごしたせいか。我ながら益体もないことを考えてしまったと、木下は独り言ち、部屋へ戻ろうとした。だが、その時。
「――そこにいるのは、だぁれ?」
廊下の奥から、か細くも美しい、ガラス風鈴のように涼やかな声が聞こえてきた。若い女の声だ。金野の声ではない。ならば答えは一つ。彼女の娘のものだろう。
目を凝らすと、薄明りの向こうに小柄な人影が見えた。
「あ、こんばんは。先日からお母さんにお世話になっている木下です」
咄嗟に営業スマイルの仮面を被り、愛想よく挨拶する木下。ただでさえ胡散臭い中年の典型のような容姿なのだ。年頃の娘に余計な警戒心を与えないよう、細心の注意を払ったつもりだった。
「あは、そう言えばお客さんがきてたんだぁ。こんばんはぁ」
素足なのか、ペタリペタリと足音を立てながら金野の娘が近付いてくる。シルエットの頭が大げさなくらいに左右に揺れ、どこか幼児めいた雰囲気を醸し出している。
やがて、その姿がはっきりと見えた頃、木下は思わず生唾を呑み込んでいた。
「はじめまして、わたしは琴音。おじ様の、下の名前はなんておっしゃるの?」
可愛らしく首を傾げ、下から覗き込むような視線を向けてくる娘――琴音。その顔は二十歳の割には幼すぎ、しかも中学時代の金野に瓜二つだった。
猫科を思わせる大きくやや吊り上がった眼。漆黒の髪はサラサラで、やや長めのボブ。肌の色は抜けるように白く、ホクロもシミも殆どない。掛け値なしの美少女、いや美女がそこにいた。
男なら誰もが見惚れるであろう年若い美女を前にして、しかし木下は全く別のことに目を奪われていた。
琴音の身を包むのは、ぶかぶかの白いTシャツだけだった。下は穿いておらず、スカート代わりにはやや寸足らずな裾からは、白い下着がチラリと覗いている。着古しているのか首元はよれよれのぶかぶかで、無防備な胸元が顕わになっていた。こちらは下着を着けておらず、見えてはいけない部分が木下から丸見えだった。
「――っ、あの! その……琴音ちゃん。ふ、服を、だね……」
「ん~?」
理性を総動員し視線を外し、何とか口を開いた木下。だが、琴音はそんな木下を挑発するかのように身を寄せ、視線を合わせようとして来る。
――木下の無骨な腕に、何か柔らかいものが押し付けられる。
「これ以上はヤバイ」と思いつつも、木下は動けなくなっていた。まるで蛇に睨まれた蛙のように、琴音という娘の纏う雰囲気に呑まれようとしていた。
やがて、琴音の白魚のような指が木下の敏感な部分に辿り着いた。そして――。
「ねぇ、おじ様。……おじ様は、大銀河の波動を感じたことが、あるかしら?」
蛇のような妖艶さを纏うその娘は、そう口にして天使のような笑みを浮かべた。
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