6.藪をつついて蛇を出す
二日経っても、三日経っても、封書は木下のもとへ届かなかった。
その代わりに、木下の周囲で小さな変化があった。副編集長の伊藤の機嫌が、やたらと良くなっていたのだ。いつもはつまらなそうにパソコンに向かいゲームや動画視聴やらで時間を潰している伊藤が、鼻歌交じりに同じことをやっているのだ。気味が悪くて仕方なかった。
だが、そのことで木下はある確信を持っていた。伊藤は、タナ・リサーチか「氷の華」本体と関わりがある。あくまでも状況からの推測ではあるが、封書は伊藤が盗んだに違いないはずだ。今後はそのつもりで行動するべきだろう。
――封書の中には、あるファイル共有サービスのアドレスと「パスワードはY氏の生年月日」という文言とが書かれた手紙を入れてあった。あくまでも「匿名の情報提供者からの手紙」という体裁を取ったのだ。
無論、「Y氏」というのは安田のことである。安田の生年月日を知る者でないと、アクセス用のパスワードが分からないようにしてある訳だ。普通に考えれば伊藤が安田の生年月日など知るはずもない。連載記事「凍れる世代」の中でも明記はしていないし、木下の取材メモにも書いていない。当の木下も、金野に確認するまでは忘れていたくらいだ。だが、「氷の華」の配下であるタナ・リサーチならば、そのくらいの情報は持っているはずだろう。
木下が用意したファイル共有サービスは、中のファイルに誰かがアクセスすると「閲覧数」がカウントされるようになっている。木下の推測通り、タナ・リサーチから「氷の華」の誰かが伊藤から封書を受け取っていたとしたら、数日中に「閲覧数」が増えるはずだ。
共有してあるファイルの中身は、あくまでもダミーである。安田についての微妙に間違った内容が書かれた文書をでっち上げたものだ。
ダミーの文書を目にした「氷の華」側の人間は恐らくこう考えるだろう。「木下に提供されている情報は正確なものではない」と。あわよくば敵方の木下への注目度を下げようという、言わば欺瞞作戦だった。
木下のもとへ刑事が訪れているという情報は、恐らく既に伊藤から「氷の華」側へ漏れているだろう。木下は更に注目されているはずだ。だがもし、木下自身の持っている情報が大したことのない不正確なものだとしたら、彼らの中で木下の重要度は下がるのではないか、と考えたのだ。伊藤だって、誰かの使い走りとして木下の机を漁る必要もなくなる。
(ま、あくまでもあわよくば、だけどな)
心の中で呟きながら、しかし木下は自らの企てたこの作戦に少々の自信を持っていた。
――傍から木下の行いを見る者があれば、恐らく「甘い」と思ったことだろう。実際、木下はこの後、思わぬしっぺ返しを食らうことになる。
***
それから数日後、木下は再び和田刑事と田中刑事の訪問を受けた。今回はきちんと、事前にアポを取ってからの来訪だった。
「いやいや、すいませんね木下さん。お忙しい所に」
「それはこちらの台詞ですよ、刑事さん。正直、もう私に話せることはあまりないとは思うんで、ご足労頂くのはちょっと恐縮というか」
和田の社交辞令に対し、木下は率直な言葉を返していた。
実際、前回の訪問の際に木下が知っていることの殆どは――意図的に黙っていたことを除いて――話している。今更、警察の役に立てる情報があるとは思えなかった。編集長への義理もあるので、伊藤のことも黙っているつもりだ。
だが、どうやら刑事達にとって木下は、まだ価値のある関係者の一人であるようだった。
「いやいやいや、木下さんにはまだお伺いしたいことが結構あるんですよ。捜査を進めているとですね、芋づる式に次から次に新事実が湧いて出てくるもので。まずは、こちらの方々なんですけどね」
言いながら、和田が十枚ほどの写真を取り出し会議テーブルの上に並べていく。いずれも三十代から四十代と言ったところの男女が映っている。別の写真や動画からトリミングし拡大したものなのか、どれもやや不鮮明でかろうじて顔が判別出来る程度だ。写真の下部にはマジックで氏名も書かれている。
「こちらの方々に、見覚えはありませんか?」
「……画質が粗いし数も多いのでなんともですけど、ぱっと見では覚えは……。いや、ちょっと待ってください。この名前……?」
顔の方には残念ながら見覚えが無かったが、氏名の幾つかは知り合いと同じものだった。一体いつの知り合いだったか? と記憶を探り、ようやく思い当たる。
「ああ、これって中学の時の私達のクラスメイトですね。すみません、大分人相が変わってるし、一部は名字が変わってるから気付きませんでしたよ」
「いえいえ、中学の時のクラスメイトの認識なんて、そんなものでしょう。なあ、田中くん?」
「私は幼稚園が一緒だった人間の顔と名前もスラスラと出てきますが?」
「……君に聞いた私がバカだったよ。ゴホンッ、さて木下さん。級友を思い出して頂いたところで気の毒な話ではあるのですが、この方々、皆さん亡くなってらっしゃいます。しかも、揃って不幸な亡くなり方をしています」
「えっ」
思わず絶句し、次に思い出す。そう言えば金野がそんな話をしていなかったか? と。
『全く連絡が取れない人だけをリストアップして、プロの人に行方を捜してもらったのよ』
『その十人がね、みんな、亡くなっていたの』
『自殺が三人、孤独死が二人。あとの五人は火事で亡くなってるの。おかしいと思わない?』
そうだ。安田の葬式をする際に連絡が取れなかった元級友達。その内の十人が既に死んでいた。しかも、普通じゃない死に方で。そんなことを、金野は言っていなかっただろうか?
「どうやら、彼らも『氷の華』の関係者……あるいは犠牲者であるようなんです」
「えっ? この十人、全員がですか」
「はい。中学三年生の時のクラスメイト……ええと、木下さん達の世代だと、一クラス三十五人くらいですかね? その内の十人が『氷の華』に関わっていて、しかも不幸な死を遂げている。これは流石に異常ですよ。何者かの意図を感じます。そう思いませんか?」
「ええ……そう、ですね」
木下は思わず歯切れの悪い返事を返してしまった。が、それも仕方のないことだろう。そもそも、この十人の死を不審に思った金野に、木下はなんと返答しただろうか?
『それはあれだ。確証バイアスってやつじゃないか? だってさ、安田の関係者だけ見ても、多分だけど死んだ奴の数よりも、今生きてる奴の方が多いぜ。死んだ奴らのことばっかり注目してるから、なんか不気味に思えるんだよ』
確か、そんなことを言って金野の不安を一笑に付したはずだ。
(何が確証バイアスだよ! 俺のバカ)
思わず過去の自分をなじるが、今更そんなことをしても意味は無い。あの時の木下は、金野の不安を取り除こうと気遣ってそんなことを言ったつもりだった。だが、それは彼女を真実から遠ざけただけだったようだ。
「まだ捜査中なので全てのケースを洗い出せてはいませんが、どうやらこの方々は、それぞれに生活の困窮が原因で『氷の華』と関わってしまったようですね。宗教に救いを求めたり、マルチ商法に手を染めたり、はたまた借金を重ねてしまったり。その全てが『氷の華』の関連団体だったというのは、流石に出来過ぎな話です。誰かに狙われたとしか思えません」
「誰かって……誰です? 安田ですか?」
「それは分かりません。ですが、安田さんである可能性は高いですね。もちろん、意図的にこの十人を狙ったのではなく、安田さんが『氷の華』に中学時代の名簿を渡して、それをもとにして各団体がそれぞれ勧誘を行った、とも考えられますが――私は違うと思っています」
「な、何故ですか?」
安田が率先して元級友達を地獄の道連れにしたとは思えず、木下は思わず声を荒らげた。だが、そんな木下に対して和田はあくまでも淡々とした態度を崩さなかった。何か、確証となるものがあるらしい。
「まだ全員について調べが付いた訳ではないのですが。木下さん、この十人の何人かはね、どうやら『氷の華』の幹部に近いポジションにいたらしいのですよ。我々が長年追っても辿り着けなかった、『氷の華』の中枢にですよ」
和田の口調はどこか興奮気味だった。木下は初めて、この刑事の素の感情を垣間見たように感じた。
「安田さんから送られてきたという、何枚かの顔写真のことは覚えておいでですか?」
「はい。残念ながら、私の方では彼らの素性にすら辿り着けませんでしたが」
安田の資料の中にあった数枚の顔写真を思い出しながら、木下が答える。つい先日まで、名前と顔写真を頼りに彼らのことを探していたのだが、全て徒労に終わっていた。
「ははっ、そこはどうか落胆せずに。私共でも、彼らがどこの誰さんなのか突き止めるのは、骨が折れましたからね。――結論から申し上げますと、彼らも『氷の華』の幹部クラスだったようです。いやあ、その答えに辿り着くまでに苦労しましたよ」
懐から筆文字で「大吉」と大きく書かれた扇子を取り出し、パタパタと仰ぎ始めながら、和田が言葉を続けた。
「ご存じの通り、『氷の華』による犯罪の実行犯は、下っ端や子飼いの組織の連中です。彼らに指示を与える指示役ですらも、まだまだ下っ端。幹部となると、指示役の指示役の、更にその上の指示役の、もう一つ上くらいですかね、イメージとしては。ですから、実行犯の連中にあの写真を見せても、知ってる奴なんてまずいませんでした」
「じゃあ、どうやって確認を? ……と、こういうのは聞いちゃまずいですかね?」
「ははっ、構いませんよ。なあに、ただの正攻法ですよ。我々が把握している『一番上』の指示役と思しき連中をリストアップして、ひたすら尋ねていっただけですから。『この写真の誰かに見覚えはないか』って。殆どは外れでしたけどね。地道に続けていった結果、全てではないものの、何人かは過去に逮捕された指示役との接点が確認出来たんですよ」
「ああ、なるほど。正攻法って、そういう……」
警察の組織力があってこそ出来る方法だった。話したところで、木下のような零細記者に真似することは到底無理だろう。
警察が「氷の華」の幹部クラスに今まで辿り着けなかったのは、彼らの組織構造や命令系統に理由がある。下っ端の実行役や指示役は、連絡にインターネットや携帯電話、はたまた紙の書類を使用する為、芋づる式に検挙していくことも可能だ。だが、幹部に近い連中は、対面・口頭での指示を徹底している為、物理的な証拠が残らず、追うのが困難だった。
幹部からの連絡はいつも一方的であり、指示役から連絡する方法もない。それでいて、詐欺などで得た利益を持ち逃げされないように、常にどこかから監視されているのだという。
だから、上位の指示役を検挙出来たとしても、更に上にいる幹部の情報を得ることは難しかったのだ。精々が指示役の証言をもとに似顔絵を作るか、本名かどうかも怪しい名前を知ることが出来る程度だった。
そこに来て、幹部らしき人間の顔写真と名前がもたらされたのは大きかった。似顔絵よりもよほど正確な情報であるし、名前と顔さえ分かれば警察の組織力を持って素性を調べることも難しくない。
「――このおかげで、かなりの数の幹部らしき人物の素性が判明しましたよ。彼らと行動を共にしていた人物についても、段々と分かってきました。彼らにも日常生活があったでしょうからね。世間から完全に隠れては暮らせない。ご近所さんやら利用していた店やら、芋づる式に情報が集まっていきました。そこで、関係者として安田さんの元同級生の皆さんの存在が浮かび上がってきた、という訳なんですよ」
「なるほど……」
まさに警察の執念の捜査の結果だった。物理的な証拠や繋がりは消すことは出来ても、人間関係や社会との繋がりを完全に断つことは出来ない。長大な堤防が蟻の一穴で崩れることもあるように、何か一つのとっかかりがきっかけで、今まで靄の向こうにいたものが姿を見せることもあるのだろう。
「その、刑事さん。彼らの死は、やはり『氷の華』が関係しているんですか?」
「それはまだ分かりません。一部の事件や事故は洗い直しをしている最中ですよ。ただまあ、私の勘ですと、十中八九間違いないと思いますね。何らかの理由で彼らは『粛清』されたんじゃないかと」
「粛清」、つまりは何らかの組織的な理由で殺された、ということだ。
十人もの人間が命を奪われる理由とは、一体なんだろうか? 安田は資料を持ち出したことで命を狙われたようだが、他の十人もそうだったのだろうか? 組織に歯向かって殺されたのだろうか? それとも、なにか別の理由があるのだろうか?
木下の頭の中で、いくつもの考えが浮かんでは消えていった。が、恐らくはいくら考えても分かることはないだろう。情報があまりにも少なすぎる。
「彼らは何故、命を奪われなければならなかったんでしょう」
「さて、そこも捜査中、としか。どうせろくでもない理由だと思いますが。何せね、木下さん。この、安田さんが送って来たという顔写真の面々、ここ数ヶ月の間に揃って不審死を遂げてるんですよ」
「えっ……」
「皮肉な話ですが、安田さんが例の写真を持ち出したことが原因でしょうね。『氷の華』の本丸に繋がる人間の素性がバレそうだからって、その人間ごとパージしたのでしょう。全く、血も涙もない連中ですよ」
――安田からの資料について、金野と最初に話をした日の会話を思い出す。
安田が資料を持ち出したことは既に「氷の華」側に知られている。ならば、持ち出された資料に関連したものは、証拠隠滅の為に消すのではないか? そのような会話をした覚えがある。
その時思ったように、やはり人間も証拠隠滅の対象であったようだ。木下の背筋に氷点下の寒気が走った。
「木下さん。私は、安田さんが貴方と金野さんに『氷の華』の内部資料を送りつけたその意図を、未だにはかりかねているんです。資料を持ち出した時点ですぐに警察に駆け込んでくれていれば、余計な犠牲は出なかったかもしれないのに、何故そうしなかったのか? そもそも、なんで貴方と金野さんだったのか――なにか、心当たりはありませんか?」
「いえ、その点は私も金野も不思議に思っていて。さっぱりです。彼が私達に一体何をさせたいのか、全く分かりません」
それは木下の偽らざる本心だった。「氷の華」に一矢報いたいというのなら、あの資料は警察に送り付けるべきだ。警察が信用出来ないのなら、同時に大手マスコミ各社にも送りつければいい。そちらの方が、よほど「氷の華」への打撃になったことだろう。
そもそも、「命を狙われている」と自覚していたのならば、警察に保護を求めるべきだった。何故、安田はそれをしなかったのだろうか?
(安田、お前は一体何を考えていたんだ?)
最後に見た彼の姿を思い出す。この世の不幸を一身に背負ったかのような険しい顔をしていたが、彼が最後に行ったのは人命救助だった。「氷の華」という邪悪な組織に長年身を置きながらも、彼の心根に正義感が残っていた証拠だろう。
――いや。あるいは安田なりの罪滅ぼしだったのかもしれない。なし崩し的に犯罪組織の一員となり、恐らくは安田も多くの悪事に手を染めたのだろう。彼がどんな気持ちでいたのかは想像するしかないが、少なくともへらへらと笑いながら悪行を為せるような男ではない。罪悪感にまみれていたことだろう。死を望んでさえいたかもしれない。
「ああ、木下さん。仏さんになった人の考えてたことなんて、分かりゃしませんよ。あまりお気に病まないでくださいな」
黙り込んでしまった木下を気遣ったのか、和田がそんな言葉をかけてきた。見かけに反して、案外と優しい刑事なのかもしれない。
「まあ、そうですね。そもそも、安田の行動には一貫性がありませんしね。『氷の華』に打撃を与えられる資料を持ち出しながら、警察にすぐ届けるでもなく、たかが民間人の私と金野に時間をかけて届くようにしたり。命を狙われてたくせに人命救助の為に自分が死んでしまったり。……ちぐはぐですよね、本当に」
「ちぐはぐ、ですか。でも木下さん、人間なんてそんなものじゃないですか? 人間の心の内なんてものは、複雑怪奇で矛盾に溢れてるものですよ。普段は理知的に振舞っていた人間が、本当にたまたま感情を優先してしまったせいで犯罪者になってしまったり。はたまた逆に、誰もが眉をひそめる極悪人が、気まぐれに人助けをしたり。一足す一が三にも四にも、事によってはマイナスにもなってしまうのが、人間ってやつじゃないですかね」
「そういう……ものですか」
「ええ、そういうものですよ。長年、刑事なんてやってますとね、人間の心は複雑であり単純、単純であり複雑なんだと、思い知ります」
***
その後、和田達は「氷の華」と関係していたらしき元同級生十人について、木下に聞き取りをしてから帰っていった。中学時代に彼らと安田が親しかったかとか、それぞれの人となりはどうだったかとか。正直、警察にとって有用な情報は話せなかったと感じている。
(これじゃあ、俺の方が警察に情報提供してもらってるみたいだな)
ギブ・アンド・テイクどころか、木下の総取りだった。尤も、和田達も全ての情報を木下に話している訳ではないのだろう。あくまでも、事情聴取の一環で話す必要があるものだけのはずだ。警察官が不用意に捜査情報を外部に流せば、それだけで全ての捜査が無駄になる可能性さえある。その点は警視庁の刑事ならば、重々気を付けているところだろう。
和田達をエントランスまで見送ってからオフィスに戻ると、副編集長の伊藤が鼻歌交じりにマウスをカチカチといじっていた。
(俺の所に刑事が来た、って情報を「氷の華」に流せるから、また上機嫌なのかな?)
心中で呆れつつ、それを顔には出さずに自席へと戻る。そう言えば、伊藤が「氷の華」と繋がっている件を和田達に話さなかったなと、木下はそこでようやく思い当たった。
(ま、いいか。副編集長に大した情報が流せるとは思えないし)
そのまま、木下はそのことについて考えるのを止めた。
――伊藤が姿を消したのは、それから数日後のことだった。
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