#箱詰め

@cbayui

#箱詰め

 彼らは箱に詰まっていた。どんな謂れがあってと聞くのは烏滸がましい。男と女が箱に二人、我々はただそれだけで喜ぶのだから。



「どぅあ⁉ フウカ⁉ これは一体何なんだよ!」

「それはこっちのセリフよ、カイト! あんたみたいなヘンタイとこんな格好で……あたしがお嫁に行けなくなったらどーしてくれるのよっ!」

 箱の中に詰め込まれた、学生服の男女二人。フウカと呼ばれた少女はひとつの角——この箱の中には上下はあっても左右はない――に背をつけて座り、カイトという少年は彼女に覆いかぶさるのを辛うじて避けるような体勢で、狭い箱の中で申し訳程度の距離を保っていた。

「いい⁉ それ以上こっちに近づいたら、ぶっ殺すわよ!」

「お前はただ座ってるだけなんだからいいだろ! この体勢は腰が痛くなるんだよ!」

 そう言いながら、カイトは壁についた腕をぶるぶると震わせる。

「バカ! バカイト! あんたは老人なの⁉」

「逆の立場になってからそう言うことは言え――くそっ」

 彼の腕はそこで限界を迎え、身体ががくりと崩れ落ちる。

「——ッ!」

 カイトの頭はフウカのぷっくりとした胸元に勢いよく着地した。

「うぷ、フ、フウカ」

「しゃ、喋るなバカ!」

 というのも、カイトがひとつ呼吸するたびに、彼の若き熱を帯びた吐息がセーラー服を、キャミソールを、そしてブラジャーを貫通して彼女の肌に掛かってしまうのである。

「……………………」

「……黙るなバカ」

 理不尽なことこの上ないが、乙女心は得てしてそうだ。フウカはカイトの頭のてっぺんを薄目で睨めつけながら、小声で続ける。

「……何か、感想とか無いわけ?」

「感想って……」

 目の前に迫り出す、二つのまんまるいかたまり。今まで彼女のひとりも出来たことのないカイトが、誇張抜きに夢にまで見たそれ。しかし、夢に見過ぎたことが災いしてか、今まさに彼の呼吸を止めようとしている肉塊に対する感情は……

「なんか……思ったより硬い」

「はああああああ⁉」

 フウカの絶叫が、材質の分からないその箱の中でびりびりと共鳴する。密閉されたそこの空気が、ほんの少し薄くなる。

「い、いや……なんだろう、下着があるから」

「なっ……バッカじゃない⁉ 下着って……バカ! バカイト! あんた……下着があるからって……無ければいいっていうの⁉」

 フウカの罵倒にカイトはやけくそになって応じる。

「……ああそうだよ! 無けりゃもっとよかったなぁ!」

 それを聞いたフウカの顔はセーラー服の真っ赤なリボンと同じ色に、首まで染まり上がった。

「じゃ、じゃあ、触ればいいじゃない」

「お前っ……いいのかよ」

「いい……わけないけど、あんたが」

 空気が薄い。フウカは肩で息をする。

「あんたが、あたしのこと好きって思うなら……いい」

「フウ……カ……」

 女の胸に顔を埋めた男が、その女に愛を問われる。さながら二人は心を置き去りに、身体と身体だけが結ばれたかのようだった。

「俺は……フウカのことが……」

 汗が、柔軟剤が、吐息が、肌が、二人の二酸化炭素が香り立つ。窓から差す陽も電灯もない箱の中、思えば不思議に目に見えていた二人の姿が、ふっと消える。



「んん……」

 頭の後ろに当たるものがいやに硬い。酔って電信柱にでも寄りかかって眠ってしまったのだろうか。目を開く。そこには、カイトの背後の何かに手をついて覆いかぶさるように中腰になり、顔を真っ赤にしてふるふると震える、スーツ姿のフウカがいた。

「——夢か?」

「夢じゃないわよアホ!」

 カイトがちらりと左側に目を遣ると、一メートルと少し先に壁。そこからさらに見上げれば、一メートルと少し上に天井。

「……またここか」

 またしても二人は、その奇妙な箱の中に居た。

「なんか、久しぶりだな」

 悠長にもそんな挨拶をしてきたカイトに、フウカは上気した頬を更に赤くして抗議した。

「そんなこと言ってる場合⁉ このままじゃあたし、潰れちゃう!」

 カイトが目覚めるまでずいぶん長い間その体勢でいたのか、フウカは手足をびくびくと痙攣させている。その様子が少し扇情的で、カイトはフウカをおよそ十年ぶりに揶揄ってみたくなった。

「……お前がここで潰れて俺の胸に飛び込んできたところで、こっちは一向に構わないんだぜ?」

「なっ……あたしだって、別にあんたと密着したくらいで!」

「だったらさっさと降参した方が身のためだ。酷い顔だぞ」

「~~~~~~ッ」

 目を逸らす姿が、ちょっと可愛い……これは気のせいだと、カイトは余裕の表情を崩さない。

「さ、おいで」

「…………ばか」

 どさり、女は男の上に落ちた。緊張が解けたフウカは、男の胸の中に「はぁ」と大きな息をつき、言葉を継ぐ。

「前はさ、逆だったよね」

「……ああ、フウカが覚えてるってことは、あれもこれもホントに、夢じゃないってことなのかな」

「夢……だった方がいいのに。あたし、今、彼氏いるの」

「俺だって……」

 カイトはそこで言い淀む。同じ部署に一昨年入った後輩の女の子とは、飲んだ勢いで数回寝ただけだ。彼女は抱かれた後、カイトに胸の内を問うてきたりもしない。カイトはそれが心地よく、都合がいいと思っていた。

「……俺はそういうのはないけど」

「やっぱり、カイトはそうなんだと思ってた」

 布越しに触れ合うところが、ほんのりとあたたかい。

「カイトは、一生〝そう〟なんじゃないの?」

「あのなぁ、何か勘違いしてないか」

「……さあ、ふふ」

 フウカが控えめに笑う。それに合わせて揺れるフウカの体を、カイトは胸と腹で受け止める。そうだ、フウカもフウカで、服越しに男と触れ合うくらいで動揺するような少女ではなくなっていたのだ。

「あのとき、あたしがカイトに聞いたこと覚えてる?」

「…………忘れた」

「覚えてるでしょ。心臓の音が速くなってる」

 沈黙。確かにカイトの心の蔵は普段より駆け足で、飛び出してゆきそうなほど激しく跳ねていた。

「……あのね、彼氏に浮気されてるんだ、あたし」

 フウカと触れ合うカイトのワイシャツの胸がひやりと冷たくなる。

「浮気……された。あたしなんか、あの人に釣り合わないとは思ってたよ、でも、あたし変わろうとしてたんだ。変わりたいって思ってたんだ、だけど……間に合わなかった――のかな」

 カイトはフウカの顔を見ることができなかった。彼女はそれを見せようとしなかったから。しかし、夕立がアスファルトを濡らすように、彼の胸元はじっとりと湿った。

「ねえ、カイト……あのときあんたがあたしのこと好きって言ったら、あたし、カイトに全部あげようと思ってたの。全部……」

 身体が崩れ落ちた時に投げ出されたフウカの両手が、ゆっくりとカイトの腰に回される。フウカは顔を上げないものの、泣きじゃくるのを隠すつもりはもう無いようだった。息を吸う、吸う、吸う、咳と共に吐き出す、吸う、涙を吸い込んでむせる、咳と共に吐き出す。

「か、いと……あの、ときのつづきを、聞かせて……」

「俺は……」

 カイトは上半身を支えていた両手のうち、右手だけを引き出してフウカの背中を擦る。

「……俺は、多分あの時からずっと」

 フィルム切れのように、その無慈悲な箱はまた終わった。



「……いつもこんな風に始まってくれればよかったのに」

 四十路を迎えようとしている男と女が、箱の対角同士に向き合って座っていた。互いの足は底面の対角線上にだらんと伸ばされ、膝から下は少しだけ折り重なっている。染みの入ったエプロンをつけた女に、着古したスーツを纏った男。

「フウカ……老けたな」

「殺すわよ?」

「その分だと感性はある程度お子ちゃまのままか」

「あんたもそんなデリカシーがないんじゃ、未だに家庭も持ててないんじゃない? 彼女すらいないかも」

「……ご名答。いねえよ、今はな」

 フウカから目を逸らしたくてカイトが首を左に向けると、一メートルと少し先に壁。そこからさらに見上げれば、一メートルと少し上に天井。

「……フウカは、こんなくたびれたアラフォー男と密室で二人きりになれるご身分なのか」

 カイトは風の噂で、フウカが人妻になったと聞いていた。

「……今はね。ほんと、男運だけは最悪」

 沈黙。舞台装置はこが機能しなければ、二人には何も起こらない。

「……ねえカイト、人が死ぬ時ってさ」

「なんだよ、年寄り臭い」

「黙って聞きなさいよ……人が死ぬ時ってさ、お墓に入るじゃん」

「ん……? まあ、日本じゃそういう人が多いか」

 フウカはカイトの言葉にふうと息だけ継いで言葉を続けた。

「好きな人と一緒になって——同じ家に暮らして。同じ部屋で眠って、同じテレビを見て。記念日には贈り物を贈り合って、中身はなんだろうって胸を躍らせて――」

「当てつけか?」

 フウカは、聞こえないふりをして続ける。

「——最後は、同じお墓に入るんだよ」

 カイトはフウカの方を見た。フウカはカイトの方を見ていなかった。彼女はこの小さな箱を形づくる訳の分からない壁を、突き通すように見ていた。

「もしそんな相手が選べるなら、カイトは誰を選ぶ?」

 視線は合わない。心は、重ねてはいけない。この箱が消える前に、言うべきことがある。

「……少なくとも、俺はフウカのことは選ばない」

 フウカが息を呑むのが、はっきりと聞こえた。

「幸せになってほしいんだ、お前に。それを叶えるのは俺の役目じゃない。さしずめ俺はただの喧嘩相手で、それ以上にはなれない」

 この箱とその外側の何かに阻まれて、彼らはそれ以上になることを許されていなかった。カイトもフウカも、それが分かっていた。それが箱詰めにされた男女に望まれる姿だった。

「……ばかね、分かったわ。あんたもあんたで幸せになりなさいよ」

 そう言ってカイトの方へ笑いかけたフウカの目から、ひと筋の涙がこぼれた。カイトもそれに応えるように、潤む目を細くして笑う。

「あたし、カイトのこと――」

 心の重なってしまった二人に、この箱はお呼びでない。涙が揺らした視界の中で、互いの姿がとけてゆく。

「好きだったよ、フウカ」

 その声は聞こえなくてよかった。彼自身が、彼女自身が自ら紡いだ言葉を引き受けるだけで、これから幸せに生きるのに十分だった。



 彼らは箱に詰まっていた。どんな謂れがあってと聞くのは烏滸がましい。男と女が箱に二人、我々はただそれだけで喜ぶのだから。

 長い人生で彼らが同じ箱に詰まっていたのは、ただの三回きり。

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